中国古代の王朝~「夏」のはじまり~
夏の「国」については遺跡などで存在が認められつつあるが、夏「王朝」となると真偽の程は難しい。「朝儀」や「政庁」などの「組織」が必要となるからである。その上で「夏王朝」の創成期をみてみると、一瞬美談に見てとれるものの少々生臭い。
夏の創始者たる「禹」は、治水事業に成果をあげ、父の失敗を償った「孝」もあり、五帝の孫というカリスマ性も持っていたのだから、今までの五帝同様禅譲されるに相応しい「徳」を兼ね備えていたはずである。それにも係わらず、わざわざ舜の子たる「商均」に帝位を譲ろうとする「謙譲」をしめし、しかも諸侯がそれを覆して「禹」を帝位に望む「戴冠」まで行っているのである。これはまるで、禹が儒教のいう「聖人」のようではないか。しかし、儒教の観念があまりない「竹書紀年」にも書いてあったところをみると、強ちすべてが創作という訳ではなさそうである。
思うに禹の時代になり、先人の努力と文明の発達により、黄河の暴れっぷりが一旦治まったのではないだろうか。それと同時に各部族の耕作面積も広がり、発言権がましてきた。それでもまだ強力なリーダーが必要な事は変わりなく、実績のない商均より禹を選んだのだろう。その後、禹は期待に応えるべく次々と政策を打ち出していく。政策の実行には「組織」が必要となり、「組織」生まれるところ必ずや「既得権益」が生ずる。これは世の理といってよい。伝によれば、禹の治世は45年あったという。既得権益が十分に回る期間である。そして既得権益を得た人間は、それを離そうとは絶対にしない。その結果、「変革」より「安定」が選ばれた。国を安定する政策の継続、すなわち血縁による「世襲」であり、「王朝」の誕生だったのではないだろうか。禹の子「啓」が後を継ぐ際には、禹の晩年の輔佐である「益」が帝位を禹から譲られたものの啓に還したとか、諸侯が益より啓を推したとか、益が帝位についたものの啓が武力をもって奪ったとか、様々な伝がある。どちらにしても、啓が世襲で帝位についたことを否定する風潮はなかったのだろう。
ただこれらは、現代の人間の考えた推論である。4000年前の人間の精神性が、どれ程発達していたかは定かではない。史書その物が伝説に近いのだから、想像の翼を羽ばたかせる事は赦されるのではないか、と咎め立てする人がいないことを幸いにこの稿を終えたい。
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