徒然化け猫草

モギハラ

第1話 なけない猫


 いつからだったのだろう。




==なけない猫==




「随分長生きの猫だね」


 いつの頃から人に飼われていたのかは知らぬ。

 いつの頃から言われるようになった言葉かも定かでない。


 兎も角、僕は普通の猫であった。


「化け猫なんじゃあないか」


 初めは、ひそやかな、たわいもない噂話。

 ちょっとした怪談噺のような、暇つぶしの冗談でしかなかった。


「尾の長い猫は化けるよ」

「嫌だね…もう爺さんの代から飼っているんだろう?」


 月日が経つほどに、家人の顔には疑惑が広がり、やがて家じゅうが僕の姿を見るたびその話をするようになった。皆がみな、僕が目の前を横切るとしかめ面をし、子供や老人に僕が近づけば大袈裟に喚き恐れて遠ざけるのだ。初めのうちは愉快な心地もしたが、乗る膝が無いのもつまらない。

 それでもそこが僕の家であると決めていた。根っからの家猫なのだ。家から離れる道理が無い。


 その為には尾を隠すくらいはしよう、普通の猫らしいこともしてみせよう。


「ごらんよ、私たちがあの話をしてからずっとああして、長い尾を見せないようにしてる」

「人の言葉が分かる化け猫だよ」


 人懐こくなり、普通の愛らしい猫たろうとした僕の尽力を家人はますます気味悪がるようになった。大馬鹿である。犬ではないのだから人の言う事など気にしなければ良かったものを。我が短絡と人の疑心を呪うばかりであったが、覆水盆に返りはせぬ。


「おじいさんが大切にしていた猫だから、放り出すことも…」

「でも……何だかもう、気味が悪いよ……」


 化け猫などではなかった。どこにでもいる普通の猫だ。眠ければいつでも一番心地いい場所を探して眠り、鼠や雀を捕り、一丁前に縄張りを構え、機嫌が良ければ気まぐれに人と遊んでやりもした。


 いつから人の言葉など分かるようになったのだろう。

 それでも僕は普通の猫であったはずだった。尾の先がむずがゆい心地がしても、そう信じていた。化け猫などでは なかったのだ。


 幸い、二つに分かれた尾は人には見えないようだった。


 住み慣れた家を出る気は無かったのだが…大きな金バサミを見て気が変る。


「尾が長いならば切ってしまえ」


 家主が呆れるばかりの短絡を起こしたので、僕はさっさと逃げ出した。長年鼠を捕り、客や子供に愛想を振りまいてきたのは何だったのか。あまりにも呆気ない幕引きであったが、最早あの家には戻れぬ。

 もう人もこりごりだ。ならば野良猫として生きようと思った矢先、悪餓鬼に犬をけしかけられ、また考えを改める。体のあちらこちらに爪や牙が喰い込み、何とか逃げ出した頃には左耳の先が今にも千切れて落ちんとばかりにぶら下がっていた。化け猫などなっても良いことが無い。若い体を保てたとて、犬にすら勝てぬ。

 清庵という男に出会ったのはその時だ。どんな気まぐれがはたらいたのか、ぼろ雑巾のように地べたに張り付いた僕に手を差し伸べたのは、ひょろっちい人間の男だった。


「どうだ、中々上手いもんだろう」


 何か傷を与えるならばひっかいてやろうと思っていたが、殆ど無抵抗の僕を連れ帰った男は蘭方医学を専らとする医者の卵であり、やや不器用ながら治療を施された。

 どうやら悪い人間では無いらしいと考えた僕は彼の家に無理矢理ながら留まった。僕は化け猫である前に家猫であるのだから無理からぬことだ。人は兎も角、家が要る。家主もまんざらではないようで、何より迷信を信じぬ独り身の鈍そうな男であったから、以前の家のような面倒なことにはならぬだろうと踏んだ。そしてこれは正解であった。

 僕がうっかりと普通の猫にしては賢いことをしても頭の良い猫だと益々僕の事を気にいる様子で、裕福な身分ではなかったがおおむね気分よく過ごせたし、来客の相手もしてやった。

 この頃から段々と人語を喋ることや姿を変ずることを覚え、僕は世に言う本物の化け猫となる。


 主人を喰らえば力が強まると噂に聞くが、今の主人を気に入っているし、力とやらに興味もない。

 二度目の主人である、清庵という男。医者の癖に体が弱く、昼日中寝込んでいるのも常であった。床から起き上がれない主人の代わりに来客の相手をすることもあったし、寒い日には懐炉代わりになってやりもした。弱い奴めと思いながら、滋養のつくものを差し入れても、自分より弱っている者に与えるばかりで気に喰わなかった。

 血混じりの咳をするようになってからは、殆ど床から離れられぬようになっていた。日に日に血色の悪くなる主人はとうとう、僕を親類に預けた。その振る舞いから僕は、主人の命が永くないことを知る。

 まだ化け猫としては若輩であった僕が方々を駆けずりまわって薬を手に入れるのは、骨の折れることであった。妖怪の妙薬など人に効くのか分かりはせぬ。しかし人の薬が効かぬのならば何でも試してみる他ないと思ってのことだった。

「清庵殿……咳の病に効く妙薬です。お飲みなさい」

 既に目がかすむようになっていた主人に、薬師の振りをして妙薬を届けに行った。以前よりももっと痩せて魚の腹の様に青白く、ひどく具合が悪いようだった。

 声をかけると、虚空を見つめていた目が何かを探すように彷徨い、乾いた唇がふるえ、何か言うように動いたが、良く聞こえずに僕は耳を近づけた。


「ありがとう」


 薬師に言うようにではない。それは確かに、掠れひび割れてはいても、慣れ親しんだ気安い声音だった。


「ありがとう、豆茶」


 僕に二言ほど告げるとすぐまた主人は疲れ眠ってしまった。残された僕は主人の髪を梳き、割れた唇に薬を塗ったりしながら目覚めるのを待ったが結局その日はすぐ親類がやって来て、仕方なく退散した。何故分かったのだと問いただしたかった。あやかしごとなど信じぬ主人だった。


 豆茶とはその医者がつけた僕の名である。


 それから少しも立たず主人は世を去り、何故僕のことを分かったか確かめることはできなくなった。


 僕はそのまま彼の叔父である学者のもとに引き取られた。名を瀬野と言い、近所には削っていない鰹節のごとき堅物として知られているようだった。今度の主人は気難しく頑固で、僕にべたべたしない。僕としても別に不満は無かった。

 ただ一つ、今までの主人と大きく違ったところ。それは、僕が化け猫であることがばれていたことだ。今までの僕が迂闊であったこともそうだが、瀬野の妖怪じみた勘の良さがもとである。

「たとえお前が化け猫でもどうにかするつもりは無い。ただ同じ家に住む身、隠し事だけは気に喰わん」

 という頑固一徹な瀬野の言葉に僕はあっさりと白状し、瀬野は化け猫である僕の”下宿”をゆるした。世の中を広く見ても、そうと知って化け猫を下宿させている家などそう無いのではないかと、我ながらおかしく思ったものだ。とかく、瀬野は変わり者だった。

 頑固な瀬野に、人の使う文字を徹底的に叩き込まれた僕は書を読むことの面白さに目覚めた。学者の家だけあって読む本に困らず、家の中では書生のように暮らしながら、外ではときに猫、ときに人の姿をとって歩き回り、見聞を広めていった。


 この頃はもう老若男女に化けるのも思いのまま。瀬野の目を盗み、気に喰わない者を化かす悪戯をしては見つかって怒られたが、たまに怒りながら瀬野自身が笑いだすこともあり、そんなときは痛快だった。僕の気に喰わないものは、たいがい瀬野も気に喰わなかったのだ。


 恵まれた十年ほどを過ごした後、主人は逝き再び僕は独りになった。空き家となった瀬野の家に、僕は居座り続けた。再び人に飼われる気はしなかった。結局同じことの繰り返しになるだけだ。

 他の化け猫やらあやかしもの達の寄合に気まぐれに顔を出しては、碁や議論をして過ごし、たまの酒盛りなどもし、相変わらず気に喰わない人間に悪戯をした。


 そしてまた長い年月が経ち、立派な家があばら家に変わり始めた頃に、そいつはやって来た。


「おい」


 ああまた煩い、煩わしい。


「そこを退け。原稿の上に乗るんじゃない。寝床はあっちに作ってやったろう」


 宮尾という作家の男が越して来てから、面倒な日々が始まったのだ。あとから来た癖に偉そうに、退けだのなんだのと小姑のように小うるさい。


「あの男には困ったものだ。僕のことを猫、猫、と不躾に呼んでいたくせに、急に思いつきで青山などと名付けられた」


 仲間の化け猫の娘に愚痴を垂れるのが、宮尾が現れてからの僕の日課となっていた。


「青山?」

「銭湯の帰りに言いだされれば、察しはつく」

「ああ…」


 あいつへの愚痴に関しては、口がまわるまわる。ういろう売りの口上も斯くあらんやとばかりに、ああだこうだと淀みなく出て来るものだから呆れる。よく喋るものだから、愚痴を聞かしている相手にまで「楽しそうね」などと言われてしまう。


「楽しいものか」と返せば、「そうかしら」と目の前の白い猫が微笑む。


「だって近頃のあなたは、とても生き生きして見えるもの」

「まさか」


 笑って誤魔化しながらも、僕の狼狽えようはさぞ面白かっただろうと思う。どうやら僕の人好きは、たいして直っていなかったらしい。


 人に気をゆるしても、最初の主人や清庵、瀬野のようにいずれいなくなってしまう。もうあんな思いをするのは真っ平だ。人の命は短く、あやかしものの命は長い。僕が普通の猫であれば、主人より先に死ぬのだから良かっただろう。

 化け猫になどなるものではない。力があろうとなかろうと、親しい相手を見送るのは気が滅入るばかりだ。


 手に入れれば失い、失えば永い傷を負う。痛みが強いのは、幸福だったからだ。


 (ああ、また思い出してしまった。)


 僕はつまるところ、親代わりの初めの主人を、友であった清庵を、師のような瀬野を好いていた。見送る気などなかった。丁度いいところで酒にでも酔い、瓶に飛び込んで死ねばよかったのだろうかと思うこともあった。


 かと言って、死にそびれて過ごす今を憎んでいるわけではない。今は今で、退屈ながらそれなりに気分よく過ごしていた。なればこそ、いずれ僕に新しい傷を作るであろう宮尾を恐れている。


 傷が深いのは絆が強かったからだ。人に、近づきすぎたからだ。

 ならば出会わなければ良かったのかと自分に問い、すぐに打ち消す。

 違う。幸福だったのだ。傷はあるが、思い出も残っている。だから家を離れられぬ。

 それでも、猫は泣けない。猫は、痛みを忘れない。涙で洗い流すことができないから。


 そして、猫は、


「だから、早く追い出さなければ」


 ―僕は、とても臆病だ。

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