夜の旅

あめのにわ

オリオンのかげに

 列車は少しずつ郊外に入りつつあった。


 都市部を走っているあいだはどこまでも続くかと思われた、ビルや集合住宅そして高架道路のつらなる街並みも、少しずつ減ってゆき、住宅地や森の影が目立ちはじめる。


 時は夕暮れであった。煌々と紅く映えた西の空が、少しずつ色あせてゆく。薄れゆく残光と入れ替わりに空は青みを帯びてゆき、ついには星空に移り変わるのだった。その頃の地表は街頭とネオンと照明に彩られていた。


 残暑をはらむ空気も、夜の始まりとともに少しずつ落ち着いてくる。線路わきの草むらからは、虫の音が響き始めた。


 ぼくの乗る列車は人口の多い地方小都市を発車し、郊外を通って山間部へ向かっていた。

 都市部の基幹駅では割引特急券を手にした買い物客や通勤客がたくさん乗り込んできて、車内はにわかに混雑を呈した。しかし列車が進むごとに少しずつ乗客は減ってゆき、夜もふけるこの時間になるとちらほらと空席も目立つようになっていた。


 この列車は深夜にそのまま夜行便に切り替わり走り続ける予定なのだ。


 列車が駅に停車すると同時に、ぼくは周囲が急に慌ただしくなるのに気付いた。これまでの駅とは少し違っていた。座席の三分の二ほどを占めていた乗客のほとんど全員が立ち上がり降車してしまったのである。


 そこは小さな町だった。おそらく基幹駅から最も離れた場所にあるベッドタウンなのだろう。ぼくのような長距離旅行者でもなければ、この駅が実質的に終点のようなものだ。


 間もなく列車は出発して、ぼくはがらんとした客車に取り残された。

 網棚からバックパックを降ろして、向かいのシートに置いてみる。足を伸ばし肘掛けにもたれる形で少し姿勢を崩し、腕を伸ばして欠伸をする。


 何気なしに眺める窓の外は暗かった。線路は山中に入っており、もう建物や民家はおろか街灯すらほとんど見あたらない。鬱蒼うっそうとした森ばかりで、時折思い出したように伐採地や小川が現れてかすかな星明かりを照り返すのだったが、すぐに流れて消えた。


 いつしか時計は二十四時を回ろうとしていた。


 (少し眠っておくか)


 ぼくは手洗いにゆこうと立ち上がった。そのときふと気付いた。


 (あれ?)


 少し離れたクロスシートのマス席に誰かがいる。他の乗客だった。それは二人いた。片方は二十代後半とおぼしき女性であり、その隣にいるのはリュックサックを背負った七歳ほどの男の子だった。


 女性は水色のワンピース姿でハンドバックを小脇に抱えていた。隣の子どもの肩をやさしく抱いて他愛もない言葉をかけている。だが子どもはほとんど喋らない。しかめっつらをしてじっと目の前の空間をにらんでいるだけだった。


 (家族のようにも見えないな)


 ぼくは少し興味を惹かれた。そういやスナック菓子が残っていたな。二時間ほど前に食べた駅弁と一緒に買ったものだが、満腹になってしまって手つかずのままだ。ぼくは菓子を取り出し、それを持って二人の席に近づいて声をかけた。


 「あの良かったら、食べませんか」


 女性は最初少し驚いたようにぼくの顔を見たが、すぐに表情をゆるめた。


 「あらそんな、悪いわよ」


 「ボクのほうがお腹減ってるんじゃないですか?」


 「ううん、大丈夫……」


 しかし子どもの目はまんまるに見開き菓子袋を見つめていた。ごくりとその喉が鳴った。女性は眉をひそめ、もうしょうがないわねとつぶやいてから少し頭を下げた。


 「ごめんなさいね、お言葉に甘えようかしら」


 ぼくが菓子袋を差し出すと、小さい手はそれをひったくるように抱き寄せ、封を開き食べ始めた。


 「これ、行儀のわるいこと!」


 女性は叱ったが子どもは無反応でもくもくと食べ続ける。しかしいちどそれを手元に確保してしまうと慌てるそぶりは消えた。ゆっくりかじりながらよく味わって呑み込む。


 「よかったねえ」


 ぼくはお世辞抜きに言った。


 「ごめんなさいね、ほんとはいまお腹が空く筈ないのに」


 「けっこういけるだろ、ボク」


 ぼくは笑いかけたが子どもは相変わらず無表情に食べ続け、聞いているのかも判然としない。しかし緊張感は幾分ほぐれていた。時々ちらりと女性やぼくの顔を伺う。気にはしているようだ。


 「お子さん、おいくつですか」


 尋ねると女性は苦笑いした。


 「やだ、そんな風に見える?」


 「え……」


 違ったのか。少し意外だった。たしかに若かったがどことなく子どもの扱いに慣れている感じを受けたからだ。ぼくの当惑を察してか、女性は続けた。


 「子どもはね、いるのよ。いまは置いてきたけど。でもこんなに大きくはないわよ」


 そして悪戯いたずらっぽく笑った。


 「次の駅までこの子を連れて行くことになってるの。ちょっと知り合いに頼まれてね」


 そうなんですかとぼくは納得したようなしないような気分で言葉を返した。


 そしてふと気になった。


 「お子さんはこの子よりも小さいんですよね。夜なのにお母さんがいなくて大丈夫かなあ」


 女性はあら、という目をした。


 「男の子なのにけっこう気がつくのね」


 「お、弟がいるんですよ。五つ離れていて小さい頃は大変だったんで……」


 そのつもりはないのに言い訳をしているような気分になり、ぼくの頬は赤くなった。


 「ふふ、心配してくれるのね。ありがとう。でも大丈夫よ。娘のことはしっかりお願いして来たから。そりゃちょっとくらいは泣いてるかもしれないけどね」


 「弟もそうだったなぁ。小さい頃は母が来ないとどうにもダメだったものですよ」


 女性は答えなかった。そのかわりに隣の子どものほうに面を向けて、


 「この子、すねてるでしょ」


 むむ、とぼくは口ごもった。素直に同意すべきものか。


 「お母さんがいないのよ。でもお兄ちゃんと一緒にいつも二人でコロコロと遊んでいたの。それで良かったんだけど、事情があって一人だけ連れて来られちゃったものだからすねてるのよ」


 子どもは相変わらず黙々とスナック菓子を食べていたが、その言葉を聞いて動きを少し止めた。不満を十分にぶつけるやりかたを知るには幼すぎるようであった。それに応えるかわりに女性は子どもの頭をぐりぐりと愛撫あいぶした。子どもはやはり無表情であった。


 「ねえ、ところであなたは旅行?」


 こんどは女性が問い返した。ぼくはうなずいた。


 「そうです。まだぎりぎり夏休みの企画切符が使えるから。夜行で行けるかぎり遠くに行ってみたいと思って」


 「旅行好きなのね」


 「ええ。毎日バイトや学校でつまらないけど、たまにこうやって遠くまで来ると、なんていうか違う人生のような気がして楽しいんです」


 「いいわね」


 女性は言葉を切り、ぼくを見ながらそのまま子どもの頭を撫でていた。


 ぼくは気がついた。彼女のまなざしの中にはぼくに理解できない何かが込められていた。それは目の前にいるぼくではなく、その向こうにあるどこか遠くに焦点をあわせてそれを慈しむようにとらえていた。


 しかし一瞬のうち鳥が飛び去るようにそれは消え失せていた。

 女性はもう子どものほうを向いて機嫌を取るために何か話しかけている。その時はすでに過ぎてしまっていた。もはや問いただすことすらできなかった。


 ぼくたちは子どもと一緒に遊んだり他愛たあいもない話を続けた。流れ去ってゆく車窓の風景と同じようにいつしかその事実も雲散うんさんして行った。


 ふと、がくん、とエンジンの停止する感覚があり、列車は減速を始めた。


 信号待ちだろうか。

 ぼくは既に真っ暗になった車窓の外を眺めた。列車はいま大きな山のふもとを走っているようだ。鬱蒼うっそうとした木々の闇を縫って単線が延びている。列車の速度は徐々に落ちて、遂に停車した。


 信号待ちでは無かった。


 列車はプラットホームに接岸せつがんしていた。構内には誰もいなかった。古ぼけた白熱灯がぽつりと点り無人のベンチが影を落としている。遠くの改札や駅員室も同じように暗く人気がなかった。だが構内はきちんと調えられているので廃駅のような荒廃感は微塵みじんもない。樹々の下、駅は周囲のくらい緑を映して、青白く闇の中に姿を浮かび上がらせていた。


 (妙に静かだ)


 独りごちたぼくは、同時にその理由に気づいた。列車のエンジンが停止しているだけではない。少し前まではやかましいほどだった虫の音が全く聞こえなかった。風がそよぎ草木を揺らす音だけが細やかに渡ってゆく。


 「ここだわ、もう行かなきゃ」


 女性はそそくさと立ち上がり荷物を網棚から降ろして、子どもにも立つように促した。子どもは遊びを中断されたせいか不満そうな表情だったがやはり渋々しぶしぶリュックを背負った。


 「え、降りるんですか」


 「うん。楽しかったわ、有難ありがとうね。良いご旅行を」


 彼女は笑顔を向けた。そして相変わらず不満そうな顔の子どもの手を引いてそそくさと車両から出て行った。


 ぼくはひとりぽつんと残された。


 どおっと秋風がふたたびわたり、樹々が大きくざわめく。空気は肌寒く、ぼくはジャケットのえりを合わせた。列車はまだ止まっている。プラットフォームは相変わらず無人のままだった。


 (おかしい)


 突然、疑念が浮かんだ。あのふたりはこんな駅で降りるのだろうか。へんぴで人気ひとけのない山奥の無人駅。時刻は深夜をとうに過ぎている。何かの間違いではないだろうか。もしそうだとすればこんなところで降りてしまうと大変なことだ。


 居ても立ってもおれずにぼくは立ち上がりデッキに入った。


 先客がいた。車掌であった。彼は少しびっくりしたが、ぼくを認めてすぐに相好を崩した。


 「あの、さっき」


 「しいっ」


 彼は口元に指をあててぼくの言葉をさえぎる。


 「おおきな声で話してはいけません」


 「でも、さっきのお客さんが」


 「分かってます。大丈夫です」


 とにかく客車に戻るようにと車掌はぼくに命じて、すぐに別の車両に去った。ぼくはに落ちない気分で元の座席に戻った。


 がくんと車両が揺れて動き始めた。アナウンスも汽笛もなく、静かにゆるやかに。


 窓の外には誰もいない無人駅のプラットフォームが少しずつ遠ざかってゆく。


 (あの二人は降りなかったのかな? 大丈夫だって言ってたし)

 そう思った時ぼくは目をまるくした。


 無人ではなかった。


 まるでラッシュアワーのようにたくさんの影が群れ集っている。


 一瞬のうちにプラットフォームの様子は全く変わっていた。それは老若男女ろうにゃくなんにょの雑多な群れであったが、よく見るとみんな胸元に小さな灯りを捧げている。蝋燭ろうそくだろうか。ほのおがちらちらと揺らめいていた。そして彼らの影はどことなく透けておぼろげであった。


 その中にあの女性と子どもがいるのをぼくははっきりと見た。視線が合ったような気がしたが、列車は一瞬で通り過ぎた。


 ホームが遠ざかるにつれて影もおぼろとなり、たくさんの灯りが蛍火ほたるびのようにざわめくだけになった。やがてそれらは列になって少しずつ山道を上ってゆき、闇にまぎれ消えていった。


 その山のふもとを離れると列車の経路はふたたび樹々の闇の中に戻った。ようやくぼくは気がついた。車両が枕木を通過する音に重なって、鈴虫の音がさざなみのように耳を打つことに。


 そして、汗ばむような暑さでぼくは目をさました。そのまま眠ってしまったようだ。時刻は昼前だった。


 列車が停車しているのは山間やまあいの無人駅らしい。窓の外には、ホームの反対側を少し離れて下ったところに、涼しげなせせらぎが流れている。雲ひとつ無い青空から緑陰の間を縫って差し込む初秋の日差しは、傾きつつあるとはいえ、まだ夏の名残を残していた。鈴虫の音は消えて、やかましい蝉しぐれに替わっていた。


 向かいの座席には誰もいない。ぼくは無造作むぞうさにジャケットを脱ぎ捨て、額の汗をぬぐった。

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