「亡くなった」妹
ミルキーは王子さま!? 絹を吐く虫!? とわやわや騒ぐ妹分たちの声を背中で聞いていた。目の前にはあきれた表情の、教会のステンドグラスの中から抜け出してきたかのような少年が立っている。彼の背景は、見飽きた埃っぽい彩度の低いドヤ街で、あまりにも不釣り合いだ。どうしてこうなったのだろう。どうして、彼と私は話しているのだろう。まるで蟻が雲をつかむような。神のそば近くに侍る天使が地獄の底の悪魔に語りかけたかのような。
ミルキーは現状を飲み込めないでいた。最底辺の人間が住む路地裏に現れた貴族の馬車。そして、そこから降りてきた貴人が私たちに提案したのは、神が教会に授けたとされる神聖な糸――絹を作ること。人間の最底辺として、薄汚れ、尊厳を小銭に変えて暮らすしかない娼婦にできる事とは思えない。
「……信じられない」
「えっと、ちょっとだけだけど絹糸の現物あるよ? 見る?」
少年は馬車の中から人を呼び、綺麗な箱を持ってこさせた。その箱の中にあったのは、真珠を糸にしたような、つやつやとした一握りの糸だった。きれい。まるで夢の中から紡ぎ出されたかのような繊細さに、ミルキーは目も言葉も奪われた。
「見つけたんだ、絹を吐く虫。それをたくさん育てて、育て方も覚えてほしい。いずれは絹織物作って、教会をびっくりさせたい」
少年は真剣だ。世界がひっくり返るかもしれないことだとミルキーは思う。気づけば声は震えていた。
「本当に?」
「やっぱり、信じられるものじゃないよね。こんな話、虫が良すぎてだまされてるって考えた方が自然だよ。ついてこれないっていうのだったら、別の人を探すだけだよ。時間取らせちゃったね」
そう言って少年は踵を返す。まずい。この機会を逃したら、路地裏から抜け出せない。ミルキーはあわてて懇願する。
「あ、ええと、疑ってるわけじゃなくてさ。ちょっと要素が多すぎるっていうか……ああっていうか無礼な口きいてすみません王子様! 行きます行かせて頂きます!」
*
「芋虫って蛹を作るとき、自分の体を守るために糸を吐いて繭を作る種類がいるんだけど、そのうちの一つがカイコなんだ。その糸をお湯につけて巻き取って、それを草木灰の上澄みで煮たり洗ったりしたら絹ができる」
ひと悶着はあったが娼婦たちを雇う流れになり、馬車で王城に移動することになった。その道中、ディアナが娼婦たちに蚕の世話の説明をしていると、セリカがミルキーをやたら見てることに気づいた。どうしたの、と目線を送る。
『あの、これからの事とは全然関係ないんだけど……ミルキーさんだっけ、妹さんいるか、聞いてみてくれない?』
何か考えがあるのだろう。ディアナは小さく頷き、ミルキーに話しかけた。
「ミルキーさん、もしかして、妹がいる?」
「そうよ。なんでわかったの?」
図星だったらしく、ミルキーはびっくりしていた。どうしてセリカにはミルキーに妹がいると分かったのだろうか。ディアナは不思議に思ったが、その疑問はすぐに暗い現実に飲み込まれた。
「えっと……ぼくにも妹がいたから、かな」
「いた?」
「……病気で、死んじゃった」
生きている自分を否定する言葉だけが、ディアナに許されたものだった。そう言った瞬間、ナイフで切りつけられたような痛みが全身を走る。不可視の刃で切り裂かれた傷から、透明な血液が空気の中にとめどなく流れていく。私はここにいる。病気で死んでなんていない。そう叫べたら、どんなに楽だったろうか。熱いような痺れたような感覚を喉元に封じ込め、できる限り平静にディアナはふるまった。それでも、自分が今どんな表情をしているのか見られたくなくて。ディアナはうつむいた。
「妹さんに、心からお悔やみを申し上げます。私の父親も、病気で死んでしまったの。親しい人を亡くすのは、生活が辛くなる以上に、心が辛くなるわ……私の妹は足が速かったから人買い商人から逃げて、娼婦にはならすに済んだの。どこかで元気にしていてくれたらいいのだけれど、もう会えないという事だけ見たら、私にとってあの子は天に召されてしまったようなものね」
温かい声だった。ディアナが顔を上げると、ミルキーは本当につらそうにしていた。
ママは、レーンが死んじゃったのに、全然悲しそうじゃなかった。ディアナは突然そんなことを思い出した。レーンが死んだ直後は、いろいろなことが立て続けに起こりすぎて気にもならなかったが、一度感じた違和感は大きくなる一方だった。疑問といえば。セリカはどうしてミルキーに妹がいると分かったのだろう。セリカに顔を向けると、彼女は暗い表情だった。ミルキーの父を悼んでいるというより、なにかを後悔しているように見えた。聞こえるか聞こえないかぐらいの声で、セリカは呟いた。
『……そう。何かの縁かしらね』
縁ってなんだろう。ディアナはセリカに訊ねようと口を開いたが、その声は城に着いたと告げる御者の大声にかき消された。
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