第7話
突然、目の前が明るく開けました。
そこはだだっ広い、円形の広間でした。
天井には丸いドーム型の屋根が付いていてプラネタリウムに少し似ていましたが、投影機も客席もない、ただのがらんどうでした。
天井の近くには帯状の明かり取りの窓が巡らせてあり、月明かりが広間を皓々と照らしていました。
静かでした。
寒さと緊張で体がこわばり、歯がカチカチと嫌な音を立てました。
と、だれかが小声でつぶやくような声が聞こえてきました。口を閉じたまま舌だけ動かしているようなくぐもった声で、何を喋っているのかまったく分りません。
耳をそばだて、どことなくお祈りのように聞こえるその声に意識を集中していると、ライム色の扉が一枚、蜃気楼のようにぼうっと目の前に現れたのです。
それはあたし一人がやっと通れるくらいの細長い扉で、支えもなくただ一枚で垂直に浮いていました。
扉の後ろに回っても、何もありはしません。それなのに、鈍い金色の取手の下にある鍵穴から中を覗くと、薄暗い小部屋の床に跪いている茶色いチノパンが見えました。
夫に違いありません。でもなぜか、頭から腰まで黒い布ですっぽりと覆われていました。
その二、三歩前には先ほどのセンセイが立っています。
センセイは目を閉じていました。眉間のシワをますます深くし、額に脂汗を浮かべ、奥歯が砕けそうなほど強く歯を食いしばっているのが、頬の筋肉の引き攣れぐあいから見て取れました。メガネが白く反射して目は見えませんでした。
つぶやき声はどんどん大きくなり、呟いている人の数も増えていきました。老若男女さまざまな声、声、声。すべてが夫が被っている黒布の下から聞こえてくるのです。
若い女性の声が
「尾てい骨の中に湧いたウジ虫から猿が生まれた」
と宣ったかと思えば、そのまったく同じ瞬間に高齢の男性の声が
「三角形の底辺と隣町のパン屋が絶望したんだ」
などと言い放つのです。
大勢の人びとの声で描かれる、支離滅裂なことばのモザイク。
聞こえるのは日本語ばかりではありません。英語やフランス語、どこの言葉だか見当もつかないような言葉もたくさん飛び交っていました。
言葉の奔流はますます勢いを増し、次から次へと不可解な言葉が黒布から流れ出ては消えて行きました。まるで世界中にバラまいた盗聴器で拾った声をいっせいにラジオで垂れ流しているみたいでした。
こめかみと脇の下に嫌な汗がにじみました。そのくせ手足は氷のように冷たく、歯は相変わらずカチカチと神経質な音を立てるのです。
声はどんどん増え、ますます騒々しく、支離滅裂になっていきました。
「曼珠沙華とひなげしとダリアを髪に飾った本棚が行方不明だ!」
「亀の甲らに五寸釘を打ち込むのが六枚だ!」
いったい、夫はあの黒布の下で何をしているの?
…もう、我慢できない。
あたしはドアを開け放って駆け寄り、黒布をはぎ取りました。
夫は胸の前で祈るように両手を組み、斜め上を仰ぎ見るような姿勢で、どうがんばってもそれ以上は絶対に無理というほど大きく両目を見開いていました。いえ、見開くというよりそれはむしろ、「ひん剥いている」という方がふさわしいほどの開き具合でした。
両目からは滂沱の涙を流していました。
口元は薄い紗がかかったようにぼんやりと霞んでいます。
信じられないほど高速で唇が開閉していました。旋回しているときの扇風機の羽がぼんやりと霞み、羽の一枚ずつの形が見極められないのと同じ原理です。
声はすべて、この口から紡ぎだされていました。
あたしは痙攣のような笑いの発作に襲われました。
横隔膜が痛くなるほど激しく笑い転げた後、熱い塊が胃からせり上がってきてその場で吐きました。
鼻の奥がツーンとして、涙で視界が滲みました。
その間にも夫は全身から搾り出すように言葉を吐き出し続けていました。
いまこの瞬間、この地上に生きて在るすべての人びとの脳裏に浮かんだ言葉が、夫になだれ込んでいました。
その姿はまるで、強制的に口に管を突っ込まれ、無理やり餌を流し込まれるフォアグラのようでした。
夫を陵辱する意識の数はいよいよ増え、
声たちは合わさってますます大きくなり、
やがてそれは耳を聾するまでになり、
口はいよいよ高速で開閉し、
涙は水たまりになり、
夫はすべてから逃げ出そうと両手両脚を振り回して滅茶苦茶に走り回り、
そしてライム色の扉に思い切り頭をぶつけました。
そうすれば逃れられるとでも思ったのか、夫は何度も何度も扉に頭を打ちつけました。
額から勢い良く真っ赤な血が吹き出し、夫は自分の涙と洟水と血でできた水たまりに足を取られてひっくり返りました。
声がやみ、あたりは静まりかえりました。
夫は血だまりに四つん這いになると、蛇が鎌首をもたげるようにゆっくりと頭を上げ、にたあ、と笑いました。
見る間に顔面全体がゴム細工のように上下に伸び、口は耳まで裂け、真っ赤な口がこちらに向かって歯を剝いています。もはや夫の面影など微塵も留めていない、邪悪な顔でした。
真っ赤な舌で唇をひと舐めすると左袖を捲り、びっしりと生えそろっている羽を束にして勢い良く引き抜き、高く放り上げました。
羽は宙空でくるくると旋回し、あるものはアルマジロに、あるものはカタツムリに、あるものは猫に、またあるものは犬に変身して、ぼてぼてと床に落ちてきました。
動物たちはかしましく鳴き交わすと、蜘蛛の子を散らすようにどこかへ走り去りました。
人間の赤ん坊によく似た「何か」も降ってきました。胴体はみずみずしい桜色で明らかに生まれたての赤ん坊なのに、首から上と手脚はどす黒く干からびた皮膚が骨に張り付いたような老いさらばえた老人のそれでした。
そいつは二本足で立ちあがると、車より速いスピードで後ろ向きに走り去りました。
かつて夫だったはずの化け物は、黒板をガラスの破片でひっかくような、全身の細胞が嫌がって身悶えするような不快な声で笑いました。そしてまた腕から羽を一本抜き取ると、勢いよく右の目玉に突き立てたのです。
化け物は弓なりに仰け反り、背中を痙攣させました。痛くて苦しいはずなのに、どこか淫らで満ち足りた顔に見えるのが不思議でした。
水晶体に羽が沈むトプッという音とともに、薄青い粘液が飛び散りました。
引き裂かれた眼球の表面をかき分けるようにしてまず緑の双葉が芽吹き、それは見る間にアロエのような多肉植物へと成長し、右目を中心とした顔の半分ほどがあっという間に緑で覆い隠されてしまいました。
その緑をおしのけるようにして、見事な百合が一輪、右目から生えてきました。
女帝のような聖母のような、圧倒的な存在感を放つ、神々しい純白の百合の花が。
化け物は百合を手折ると、跪いてうやうやしくセンセイに差し出しました。
センセイはまるで無反応で、路傍の小石でも見下ろすように醒めた目でただ見ているだけです。
化け物はやれやれと歌うようなため息をつくと、行き場を失った百合の花をもてあそび、竹とんぼのようにくるくると回しました。
旋回した勢いで花びらが茎から剥がれ落ち、六つの銀色の美しい流線形に姿を変えて、四方に飛び散りました。
瑠璃色の翼を備えたトビウオ達はそこらじゅうを飛び回り、あたしに海のしずくを浴びせかけました。
海水でしみる目をこすっているうちに、魚たちは姿を消していました。
磯の香りが消えると、センセイがようやく口を開きました。
「むやみに境界を侵すのは感心しませんね」
聞き分けのないこどもを諭すような声でした。
化け物は、茶化すようなふざけた態度を急にひっこめました。
すっと襟を正すと、醜く歪んで引き伸ばされていた口や鼻がすーっとあるべき場所に戻り、卑しかった顔は見る間に端正な面ざしになって、哀れむように言いました。
「なぜそうも頑なになる?その肌の内側におとなしく囚われていてやる義理などないのに」
センセイは口元をすこし歪めました。
「どちらにしたって捨て石なんですよ。私たちは。同じ穴のムジナです」
高音域の犬笛が鼓膜に突き刺さりました。塩水から塩が析出するように、闇に溶け込んでいた微小な光の粒が寄り集まってそこここで結晶し、あたりが白銀の海原になりました。
それは夕焼けに燃える海原より眩しく、月下の雪原よりも白く、強すぎる光で闇以上にあたしの目を盲いさせました。
それでも必死で目を凝らすと、光の海の底のほうに何かぼんやりした予感がありました。なにか大きな起源のようなものが、あたしを手招きしている気配がするのです。
対象がなにかも分からないのに掻き立てられる強い憧れ。帰るところなどないのに心を蝕む激しい郷愁。正気を奪うある種の満月のように、それは人の心を狂わせる類のものでした。
少しでも気を抜けば、体から魂がさまよい出そうになる。でもそうなれば、きっと戻って来られない。あたしは自分の腕に爪を立て歯を食いしばり、必死に誘惑に抗いました。
意識がぼんやりとソフトフォーカスになって、とろりと濃い眠気があたしを包み…。柔らかい絹の繭ができ、その中であたしはやっと眠れる…。
突如、きたならしい音があたりを乱し、蠱惑的な幻は消え去りました。
ばりばりばりばり、ごりごりごりごり。じゅるじゅる。ぴちゃぴちゃ。じゃりじゃりじゃりじゃり。ごくん。
夫が、いえ、化け物が喰らっていたのです。センセイを。蛇が獲物を飲み込むみたいに頭から、一心不乱に。
頭部こそ嚙み砕くのに少し時間がかかりましたがその後はろくに咀嚼もせず、ほとんど一気に足首までを胃の腑に収めてしまったのです。
臨月の妊婦よろしく突き出た腹から、ボコボコと湯が沸くような音がし始めました。外に出ようともがく手が内側から何度も腹を叩き、化け物の腹はそのたびに、人の手の形をしたゴム風船のように膨らむのでした。腹を突き破ろうとする手のひらはしかし、虚しく空を搔くばかりでした。
ゴツゴツと骨ばった成人男性の手はやがて子供のそれになり、赤ん坊のちいさな丸い握りこぶしになり、腹の脈動も少しずつ静まり、しまいには化け物の腹は何事もなかったかのように真っ平らになりました。
盛大なげっぷの音が、広間の高い天井に跳ね返って繰り返し繰り返し反響しました。
化け物が耳のあたりまで口角を持ち上げてニタリと笑うと、顔じゅうにべったりと付着した脂肪と血糊がぬらぬらと光りました。口の周りをまっ茶色に汚しながらチョコレートアイスを頬張る幼いこどものような無邪気な笑顔が、薄気味悪さに拍車をかけていました。
化け物は再び白目を剥いて、こんどは仰向けにバタンと倒れました。
夫は気を失い、だらしなく開いた口から泡を吹いていました。あとからあとから、泡風呂のように際限なく溢れて来ます。
その泡をかき分けるようにして、小さな赤いものが口からひょこんと飛び出しました。小指の先くらいの小さくてつややかな赤いカエルでした。つぶらな黒い瞳であたしを見つめると、けろ、とかわいらしく一声鳴いて、ぴょんぴょん飛び跳ねて去っていきました。いつの間にか開け放たれていたライム色の扉の向こうへと。
カエルと行き違いに、顔の右半分が潰れたせむしの道化がスキップしながらやってきて、口から勢い良く火炎を吹き出し、扉を焼き払ってしまいました。道化はイイダのおじさんと同じ緑のジャージを履いていました。
気づくとセンセイの姿はどこにもなく、がらんどうの円形広間には夫の抜け殻とあたしだけが取り残されていました。
あたしは夫に肩を貸して階段を降りました。ごくありきたりのまっすぐな階段で、ほんの数十段しかありませんでした。
あたしたちはどうにか大通りまで出ると、タクシーを拾って家に帰りました。
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