(5)

 問題がやって来るのは西方からだけではなかった。

 東方へ目を向けてみると異教徒の国である、建国したばかりのアンティオ王国がヴァシリを狙っている姿が見える。


 792年10月1日 アンティオ軍が遂にヴァシリの国境を越えた。


 総大将はマリクの弟、太陽の剣の二つ名を持つマルワーンである。

 彼らは破竹の勢いで首都に進攻していた。戦況はヴァシリにとってかなり悪い。首都を制圧されれば、ヴァシリ帝国は西ラカ同様に潰えてしまう。

 プセルロスが総大将に立てたのは外国人将軍、トラケール人のスホラリウスだった。ペラギアの異母兄テオシウスを殺したのはトラケール人の国であるトラニキアだったが、この人事に異論が出てこなかったことは実にヴァシリらしい。スホラリウスの実力は誰もが知る所だった。問題はむしろその後である。

 プセルロスはマルワーンに一通の書状と共に金銀財宝を送り付けた。

 書状の内容がアンティオ王国の年代記に残っている。


​『我らはか弱き女帝をいだく帝国である。力強きマリクを頂きに持つ王国のことを、我らは父であり兄であり友のように思っている。気持ちが形に現れることはないが、せめてこの気持ちの少しでも伝わることを願い、贈呈する所存である』


 この書状を送り付けるにあたって、宮中は大いに揉めた。

 アンティオ王国は建国から1世紀も経っていない新興の国である。古代ラカ皇帝の正統なる流れを汲む、我らが皇帝ぺラギアを子どもの立場に置くことは、ラカの歴史全てを愚弄する行為である。絶対にこの書状を許すことはできない。

 この主張は最もであった。

 ヴァシリ帝国は高慢で傲慢であった。だが、ある意味ではその態度を貫くことは彼らの義務でもあった。

 庶民のような王がどうして国民から尊敬されるだろうか。下手したてに出る気の弱そうな君主にどうして憧れを抱くだろうか。

 周囲を見下し、誓いをいともたやすく破ることはヴァシリにとっては恥ではなかった。だが、弱者として憐れみを乞う姿を見せることはあってはならない。

 この書状を送り届けることを誰もが反対した中、プセルロスに唯一の味方がいた。

 ペラギアである。


 この師弟の不思議なところは、私的な面では全く親しみを見せないにも関わらず、何かの際にはペラギアが必ずプセルロスの側に付くことである。子どもが親の言うことに従うように、ペラギアは必ずプセルロスの判断を後押しした。

 ペラギアは真面目な皇帝ではなかった。楽しいことが好きで、美しい者達に囲まれることが好きだった。彼女にとってプセルロスは一緒に美食を楽しみ、芸人の芸を見て笑い合う仲ではなかった。政治的な内心が不透明なペラギアに比べて、プセルロスの権力欲は分かりやすい。彼は宰相の地位を利用して、富と権力を自分の手に貪欲に集中させた。

 その代わりプセルロスは歴代の皇帝同様に国益を損なうことには一切手を出さなかった。

 思えば不思議な間柄ではある。

 ペラギアという後ろ盾によって書状を送り出したプセルロスは、一息つく暇もなく次の手に打って出た。

 内政で驚くべき手腕を発揮して、ヴァシリの経済力を底上げしたプセルロスだが、彼の真骨頂しんこっちょうは外交にある。

 一方、送られてきた貢物みつぎものと書状はマルワーンを上機嫌にさせた。

 さながら誰のものにもならない、高嶺の花であった女性をものにした気分である。マルワーンは攻撃の手を一旦止め、マリクに現状を報告する書状を送った。このプセルロスのわずかな時間稼ぎが、ヴァシリとアンティオの雌雄を分けた。

 愛しているとささやきながら、男が眠ったところで剣を突き立てる――そういう女が聖書にいた。

 スホラリウスがマルワーンに奇襲を仕掛けた。

 アンティオ軍は慌てて応戦した。マルワーンは名将だったので、この程度のことで全滅には至らない。

 奇襲とは相手が油断しているからこそ効果的な策である。この一撃で勝敗を決められなかったのなら、その時点で通常の勝負はついている。

 スホラリウスは奇襲軍を撤退させ、ヴァシリの首都、ヴァシリティオンの方向へ軍を走らせた。烈火の如く怒ったマルワーンは、スホラリウス率いるヴァシリ軍を追撃した。

 連勝の将軍マルワーンは、周囲に伏兵がいないか偵察することも怠らなかった。予想された通り、スホラリウスが仕掛けた伏兵はいともたやすく掠め取られて追撃は続く。

 遂にヴァシリティオンまで逃げ切ったスホラリウス達は急いで城壁の中へ逃げ込んだ。

 難攻不落として名を馳せる、ヴァシリティオンの城壁である。アンティオ軍の上から炎のかたまりが降ってきた。ヴァシリ軍が城壁の上から投げつけた『ヴァシリの炎』という未だ仕組みが解明されていないヴァシリの兵器だ。

 塊は周囲の武器や人を残酷に絡めとり、火だるまにしていった。布や砂では容易に消えず、炎の精霊ジンが宿る怪物のようであった。


 10月5日未明、遂にヴァシリ人たちが待ち望んでいたものが現れた。



 マルワーンは我が目を疑った。見慣れぬ軍隊が後方に出現した。そしてあろうことかマルワーンの軍に迫ってきている。

 約20年前、ヴァシリ人と戦い当時の皇太子テオシウスの命を奪ったトラニキア軍である。

 前方には高くそびえたつ城壁、後方には蛮勇名高いトラニキア軍。既に疲弊ひへいしているマルワーン軍に応戦する体力は残っていなかった。

 彼には何が起こっているのか分からなかった。

 実はスホラリウスを任命し、心にもない言葉と財宝を送って時間を稼いだ裏で、プセルロスは光の速さで北方のトラニキアと同盟を結んでいたのである。

 トラニキアへの見返りは首都ヴァシリティオンでの10年間の貿易特権。あらゆる場合でトラニキア商人を優遇するというものだった。トラニキアが交易に力を入れ始めたことは前述した。ヴァシリとの貿易によって多大な富がトラニキアに流れてくる。トラニキアにとっては悪い話ではなかった。悪い話どころか、降って湧いた僥倖ぎょうこうだ。

 こうしてヴァシリの技術を尽くした兵器と巧みな外交と経済力と、あらゆる手段をこうじてヴァシリ帝国は滅亡の危機から逃れることが出来たのである。


 ちなみに、“敵の敵”を“敵”にぶつけて戦わせるというヴァシリお得意の戦術はこの頃から生まれたものだ。

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