(3)もう一つの秘密は?


 外に出ると、すっかり夜も更けた庭には小雨が降り出していた。


 暗い闇の中に顔をあげると、ぽつぽつと雨だれがかかる。


 離宮の光が届くところでだけ雨は銀色に輝き、一筋の光もない空から冷たく降り注いでくる。


 ――どうして……。


 こんなに贅沢な宮殿。女の子なら誰もが羨みそうなドレスや装飾品の全てを与えながら、マリエルのお父さんは唯一つ、マリエルが心から欲しかった物だけは与えなかったのだろう。


 暗い暗い影の中で生きてきたようなマリエルの悲しい記憶。


 癒やせるものなら、癒やしてあげたいけれど……。


 どうすればよいのかすらわからない。


 だからふらふらと庭の道へと出た。騎士棟に帰る近道だが、見上げれば冷たい雨が降っている。


 こんな暗闇の中にいたマリエルの気持ちが、もし僅かでも理解できるのなら――。


 と思って歩き出したのだが、すぐに後悔した。


 ――甘かった!


 降っていた雨は小雨などころか、庭を歩く内に急に勢いをまして、白い滝となって全身に叩きつけてきたのである。


「なんだ、これ!?」


 急な大雨で、庭の小道にはいくつもの水溜まりができている。本来なら、宮殿の中を回るよりも近道なはずだが、雨で前がよく見えない。記憶を頼りに、雨の中を勢いよく走り抜けていくが、闇に包まれた視界でも、地面を踏むと同時に溜まっていた水が、足音と一緒に大きく跳ねていくのがわかる。


 ――しまったあ!


 確かにロードリッシュは秋から冬にかけて雨が多い。けれど、こんなに短時間でここまで雨量が急変することは滅多になかった。


 だから大したことはないだろうと、近道の庭に飛びだしたのが、完全な誤算だった。


 ばしゃばしゃと水を跳ね上げ、どうにか東の城砦の下にある騎士棟に辿りついた時には、もう私の髪は濡れそぼって、冷えた頬と濡れた背中に張りついていた。


 松明を灯されている騎士棟の入り口に急いで駆け込んだが、靴の中は濡れてぐしゅぐしゅだし、膝まである上着は、絞れば今ここで床掃除ができそうなほど、たっぷりと水を吸い込んでいる。


「あれ? アンジィお前先に帰っていたんじゃないのか?」


 どうやら私より早く騎士棟に戻っていたらしいディアン大隊長が、入り口横の部屋から不思議そうに顔を出している。


「ちょっと……、シリル長官に呼ばれまして……」


 晩秋の雨に打たれて冷え切ってしまった体では、歯の根がうまく合わない。


 濡れそぼった体で、騎士棟の入り口でがたがた震えながら答えると、ディアン隊長が呆れた顔をした。


「しょうがないな。風邪をひかれたら困るから、この間部屋に配った薪を使用していいぞ?」


「はい――」


 助かった。本当なら、暖炉の解禁は三日後からの予定なのだが、さすがにこの体では寒すぎてたまらない。


 だから、廊下に靴型の水の染みを作ると、急いで階段を駆け上った。


 そして濃茶の木の扉を開けると、急いで青色の上着を脱ごうとする。


「うわあ……下までぐっしょりだ……」


 騎士の上着は、かなり厚手の生地を使ってあるのに、雨を吸いすぎて群青色に変化している。持ち上げただけでも、裾からぽたぽたと雨が滴っていく。


 体にはりついていて、袖を脱ぐのも一苦労だ。


 上着だけではない。下に身につけていた白いシャツにも雨が染みこんで、すっかり体に張りついている。お蔭で普段隠している体のラインも、布の下から透けてほとんど見える有様だ。


「うー気持ち悪い……」


 とりあえず急いで上着を鏡横の衣装掛けにかけるが、持ち上げる仕草の間にもシャツの袖の先から吸い切れなかった雨が腕に伝ってくる。


 だから、両袖を肘までまくりあげた。


 張りついた右の袖は左手ではまくりにくいが、どうにか肘まであげると右の腕に先日の傷跡が治りかけた赤い線になって現れる。


 一週間ほど前の夜、レオスを助けた時についた傷だ。今ではかさぶたが完全にできて、はがれるのを待つだけになっている。今更濡れて痛いということはないが、目を落とした傷口にふと思い出した。


 だから、体を拭く布を取り出すついでに、開けた引き出しに一緒にしまってあった青いハンカチに目を留めた。


 一週間前の夜、レオスに手当てをされた時に借りたあのハンカチだ。


 そう言えば、まだ返していなかったな……。


 いつか返そうと思って、血の痕が残らないように丁寧に洗って、皺も綺麗に伸ばしていた。


 ただ、なんとなく渡すタイミングが掴めなかったのだ。


 マリエルからと言って、渡せばいいとわかっているのだけれどな。


 でも、最近避けられているし――と、またふううううと重い溜息が出てしまう。


 けれど、その時部屋の扉を叩く音がした。


「はい」


 だから急いで引き出しを閉める。


 けれど、ちょっと待ってと言うよりも、扉の開くほうが早かった。


「アンジィ。ディアン大隊長が、これからの季節用に君に冬のコートを渡しておけって……」


 話しながら、レオスが紺色の厚めの上着を持ちながら濃茶の扉を開けている。


 その瞬間、正面に立っていた私を見つめた。


 ばっちりと目が合う。


 え! ばれた!?


 今の私の上半身は、雨に濡れたシャツ一枚という姿だ。しかも、体にはりついていて、胸や腰のラインは完全に透けて見えている。


 ――どうしよう! 気がついた!?


「すまなかった。着替え中だったか」


 けれど、レオスはコートを側の棚に置くと、すぐに体を翻して部屋を出て行く。


 ぱたんと軽い音がすると、何事もなかったように、扉が私の目の前で閉められた。


「……ちょっと、待て……」


 なんだ、今の反応!?


 今の私の姿を見て、何も驚かないって、レオスお前私に喧嘩を売っているのか!?


 ああ、どうせまな板だよ!?


 心配するだけ無駄な体型だなんてよくわかっていた! わかってはいたが――無駄に優秀な動体視力で、それってどういうことだ!?


「レオス! てめえ、一発殴らせろ!」


 思わず閉められた扉に向かって叫んでしまった私に罪はないと思う。


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