(5)意外な出会い
王妃達が退室した後、部屋には白檀にも似た慣れない匂いが残った。王妃が身につけていた香水なのだろう。喪に合わせた甘さのない香りなのだが、ひどく鼻を刺激する。まるで、部屋にまだ王妃と銀髪の男の幻影が残っているかのようだ。
だから、すぐに部屋を出ると、私達はマリエルの私室へ戻ろうと廊下を急いだ。
客間近くのこの廊下は、淡いクリーム色に彩られて華やかだが、さっき嗅いだ匂いのせいだろうか。私の気持ちは生憎と同じように明るくはならなかった。
「あの男、危険だ」
横を振り返りもせずに言ったのに、シリルには私の言葉が誰を指すのか、すぐに合点がいったらしい。茶色の髪をふわりとなびかせて私を見ると、紫色の瞳を細めている。
「オーレリアン・エシュッドですか?」
「知っているのか?」
「はい。王妃様の懐刀ですね。確か、王妃様がイグレンドから嫁いで来られた時に、一緒に従者としてついてきたはずです」
「イグレンド――」
あの見慣れない髪の色はだからか。
そして、王妃がほかの者へとは違い、くだけた顔をしていたのも納得する。
「懐刀というと、厄介な相手そうだな」
さりげなくマリエルを脅してきた。命が惜しかったら、王位を諦めろと――――。
「あいつは危険だ。今のうちに早く、マリエルの為になにか手を打ったほうがいい」
放置しておくと、第二第三の刺客を送られかねない。毒を入れられるのは、お茶や食事だけとは限らないのだ。もし、城の水源の井戸にでも放り込まれたら、どれだけ用心しても洗濯した服や皮膚から毒が回るかもしれない。
そんな例は国境の戦で、何度も見てきた。
「そうですね」
考え込むようにシリルが顎に手をあてる。
そして、思い浮かんだように頷いた。
「確かに、このままでは事態が好転しません。幸い姫の祖父に当たられるギルドリッシュ陛下は、今南のノースライス城におられます。この方に、手紙を書き、マリエル姫のことを正式に認めてもらうようにお願いしましょう」
「ギルドリッシュ陛下? 前ラルド王の父上って、まだご存命だったのか?」
「さりげなく不遜ですねえ。御年八十歳で、時々関節が痛むと南でご隠居されておられますが、若い頃から豪胆な方だったので、まだまだお元気ですよ」
「へえ――」
確か、若いうちにしごいた方が良いという教育方針で、王位を息子に譲られた方だ。
「ギルドリッシュ陛下は、お若い頃に何度もキリングと戦ってこられた方です。きっと、姫のお力になってくださるでしょう」
「そうなのか。じゃあ、急いで頼む」
そうでないと、またいつマリエルに刺客が向けられてくるかもわからない。
さっきのオーレリアンの言葉で、今もまだマリエルの顔色は悪いのに――。
「大丈夫、私が守るから」
元気づけようと、ぽんと肩を抱くと、マリエルの顔が赤くなった。そして、こくんと涙が潤みそうな顔で首を縦に振っている。
うーん、かわいい。
正直、これだけ愛らしい仕草の女の子も珍しいと思うのだけど。王妃様はどうしてこんな天然記念物に殺意を抱けるのだろうか。
だけど少し元気が出たのか。照れたのを隠すように、急いで手に持った紙束に、木炭で書き綴っている。
『そういえば、アンジィってガラント語得意なのね?』
「あ、ああ。育った砦がガラントとルミネリア、パトリアと三カ国が接するところだったからね。出入りする商人達や捕虜で、自然に覚えたんだ」
『すごいわ。私はガラント語はまだカタコトでわからなかったもの。今度、教えて?』
「うん、いいけど」
でも、さっきのって平民でもかなり下層の流れ者が話す言葉に近いんだけどなあ。王女様にそんな言葉を教えてもいいのだろうか。
「まあ、部屋に入って、お茶でも飲んで落ち着こうよ」
だけど話を変えたことで、少しだけマリエルの顔に赤みが戻ってきたようだ。だからシリルの咎めるような視線を背中に感じたが、無視して笑うと、私は衛兵によって開けられた扉の中にマリエルの背中を押した。
きっと自分の部屋に戻って一服すれば落ち着くはず――と思ったのに、出迎えたのは、絹を裂くような悲鳴だった。
「なになに!? ここに、もう刺客が!?」
真っ青になっているマリエルを急いで後ろに隠しながら、部屋の中に入る。もちろん、袖の中に隠してあるナイフは確認済みだ。
けれど、一歩中に入った光景では、畳んであった私の騎士服の上に、水差しを落として両頬に手を当てているエマの姿があった。
もちろん、ひっくり返った水差しの下になっている私の青い騎士服は、雨に濡れたようにびしょ濡れだ。
「どうしましょう! うっかりひっくり返してしまって!」
だけど、栗色の短い髪を揺らしているエマの顔は、なぜかにやついている。
そして亜麻色の髪を結い上げたロゼが、にこにこと私の方を向いた。
「すみません。騎士服についていた汚れを落とそうと思ったのですが」
「ええ! 決して悪意でこぼしたのではないのです! ただ、私達は姫に似た姿に少しでも汚れがあるのが許せなくて! アンジィリーナ様が帰ってくるまでに落としておこうと思っただけなのです!」
「え、ああ……」
そういえば、倉庫で錆びた武器とかを束ねていたから。
気がつかないうちに、どこかで武器の汚れがついてしまっていたのかもしれない。
じゃあ、綺麗にしてくれようとした礼を言うべきなのか。それにしては、計画的な雰囲気を感じるのはなぜだろう。
「あ、ありがとう」
けれど、エマは、私の前で握り拳を作ると訴えるように叫んでいる。
「そう! 姫と瓜二つの! 美しいものの相似はまさに世の至宝!」
「姫が太陽の女神なら、アンジィリーナ様は月の聖女! この美を、一時でも長くこの世に留めずにおれないわけがございません!」
負けるものかと、ロゼが亜麻色の髪を振り乱して、オペラを歌うように叫んでいる。
それを後ろから、じっとシリルが見つめた。
「お前達――姫と同じ姿を、一秒でも長く愛でたかったのなら、素直にそうお言い」
「は?」
思わず、ぱかっと口が開いてしまう。けれど、私の間の抜けた顔にも動じないように、シリルが続けた。
「ああ。これは、日々姫を敬い崇め奉るようにという私の指導の成果です」
――やっぱりお前が犯人か!
しかも、マリエル崇拝教を広めている。本気で危ないぞ、この人!?
けれど、シリルの今の指摘が当たったのか、ロゼは亜麻色の髪に包まれた両頬を押さえると、恥ずかしそうに悶絶している。
「だって、お美しい対の姿はこの世の芸術ですわ。だから、更に芸術性を究めるために、二人のお姿を並んで絵に写させてもらい、目の癒やし、もとい研究材料にしたいのです」
「うむ。姫の美しさを究めるため、結構な心がけです」
「今、微妙に違いましたけれど!?」
けれど、エマが既に紙を取り出して、前のめりになっている。
「いいじゃないですか。夜寝る前に見てどうすれば更に正確な相似形となるか研究し、夢の中で色々な角度から考える。そして、朝起きて、こうすれば数学的にも完璧な一対とお二人の着つけや補正を妄想する――。これこそまさに侍女の仕事の誉れです!」
「いや、さすがに違うと思う」
それなのにシリルは深く頷いている。
「素晴らしい心がけです。常に姫の高貴さを損なうことなく、影武者にも広めていく。ぜひその姿勢を保ち続けてください」
「だからって、頼むから私を巻き込むなあー!!」
しかし、圧倒される熱意に少しだけ椅子に座って、二人のスケッチに付き合わされてしまった。けれども、画帳を掲げる二人の前に長い間座って、うきうきとした顔で見つめられ続けると、どうしても背中がぞわぞわとしてくる。
鳥肌だけではない。飾り立てられた頭まで痛くなってきた。
このまま動かずに真っ直ぐ頭を伸ばし続けたら、首にかけられた飾りとで間違いなく肩凝りを起こすだろう。
だから、休憩にと、エマがお茶を用意した隙に素早く立ち上がる。
「アンジィリーナ様?」
まだスケッチを続けていたロゼが、不満そうに名前を呼ぶ。でも悪いけれど、これ以上体を補正されたドレスで座り続けていると、腰まで痛くなってきそうなんだ。
「ごめん、ちょっと気になることがあるから」
『アンジィ?』
今の今まで、私がスケッチされる姿を横で嬉しそうに見つめていたマリエルが、不思議そうに、紙に私の名前を書いている。
『どうしたの?』
「さっきのオーレリアンという男が、ネリネの庭を見たがっていただろう? あれが気になるからちょっと見てくる」
半分はごきごきと鳴る体を隠すための言い訳だ。それでも、あの状況でわざわざ王妃を引き止めて、庭に出させたあの銀髪の男の真意が気になる。だから、私は椅子にかけられていたショールを手に取ると、急いで肩にかけた。
そして笑顔で手を振ると扉を出る。
廊下に出て息をつくと、あれから思いのほか時間がたっていたらしい。
秋の日差しは急速に弱くなり、通路では、広がってくる闇に備えて、下働きの女性が、壁につけられている燭台の蝋燭に火を長い棒で移していっている。
かたんかたんという鉄の棒の音は、砦でもここでも、夜の訪れを告げる知らせだ。
響く乾いた音に、頬を叩いて気持ちを切り替えると、慌てて暗くなり始めた階段を下りた。外に出ると、庭は、もう陽が翳り、薄闇が広がり始めている。
太陽の光は遠い西に見える教会の塔の向こうに消え、ゆっくりと灰色の闇が、木の葉の陰に靄のように広がっていこうとしている。
灰色が少しずつ濃くなり、地面の草の陰で藍色の闇となってたゆたっているのを見ると、軽く一時間はスケッチで過ごしていたらしい。
黄昏の中に、闇が薄く降りてくる庭を私は周囲を慎重に見ながら歩くと、オレンジやピンクの百合型の花が咲き誇る西のネリネの園に辿りついた。見回すが、特におかしなところもない。
罠を仕掛けた形跡もない。ただネリネの花が輝きながら夕闇に揺れているだけだ。
頬に受けた風に目を上げれば、空の色はゆっくりと橙色から、くすみを帯びた蒼へと変わっていこうとしている。
「やっぱり何もないか……」
ネリネの園は、西の小さな泉を中心として、周囲を樅(もみ)の木に覆われた中に、ただ静かにひっそりと輝いていた。
まるで小さな宝石箱のようだ。出始めたばかりの月の光に、透き通るようにピンクやオレンジのネリネが輝いている。夕風の中の夢のように美しい光景を見つめ、私は小さく吐息をついた。
「杞憂だったかな……」
気にしすぎだ。
よっぽど、さっきのオーレリアンの脅しが利いていたのだろう。
「私らしくもない……」
小さく息をついて、一つ苦笑をこぼしてしまう。その時だった。
がさっという音が樅の木の間から聞こえて、振り返ったのは。
木々の間には、見慣れた顔が、聞こえてくるはずのない奥庭から人の足音がすることを不審に思ったように立っている。
出たばかりの青い月の光に、端整すぎる秀麗な顔が浮かび上がった。
レオス……?
不思議に思った瞬間、レオスの目が同じ月明かりを受けて立つ私を見つめた。
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