第29話 牧田と居酒屋

 家に帰り、何か喋っている母親をスルーし、部屋にこもった汐里は、電源を切ったスマホの黒い画面をじっと見つめる。


 写真を見なくても、さっきの映像ならくっきり脳裏に焼き付いていた。

 深く重なった唇、挨拶のキスという範疇を越えるものだった。いや、外人じゃないんだし、挨拶でもキスする時点でアウトだ。

 あの後しただろうことを想像するだけで、頭の芯にモヤがかかるような、得体の知れない感情に揺さぶられ、吐き気さえ覚える。


 何より、あの出来事があっただろう直後に、耀は汐里に会いに来て一晩泊まって行ったわけで……。何喰わぬ顔で汐里を抱いた耀に、嫌悪感すら感じてしまう。


 どれくらい真っ黒のスマホとにらめっこしていただろうか?


 汐里は、立ち上がって荷物をまとめだした。

 アパートに戻っても、耀はまだ帰ってこないし、今会っても何を言えばいいのかもわからなかったが、ただ実家にいても、グルグル考えてしまうだけで、いいことは一つもないと思えた。


 夕飯の仕度を始めていた母親に、仕事場に呼び出されたから帰ると嘘をつき、少ない荷物を抱えて実家を飛び出した。


 アパートについた時はすでに暗くなってきていたが、汐里は夕飯を食べることも忘れ、部屋の真ん中に座り、スマホとにらめっこが続いた。

 すっかり真っ暗になった部屋で、汐里はやっとノロノロと動きだし、電気をつけ、水道の水を飲んだ。

 スマホの電源をつけ、時間を確認しようとした時、着信が入り汐里はビクリと動きが止まる。


『……はい』

『汐里さん? 牧田です』

『ああ……』

『電話なんかしてすみません。汐里さんが心配だったもので』

『……』

『あの……夕飯食べました? 』

『……いえ』

『今ご実家ですか? 』

『アパートに帰ってきました』

『ならちょうどいい、近くにいるんですよ。お夕飯ご馳走しますよ。気分転換に出てきませんか?』

『でも……』

『三十分後に、高田馬場の駅でお待ちしています』

『……あ!』


 断る前に着信が切れた。

 汐里はかけ直そうかとも思ったが、確かに一人でいても悪いことしか頭に浮かばず、気分がどんどん滅入るばかりだ。汐里は普段着のままアパートの部屋から出ると、バス停へ足を向けた。


 ★

「やはり、あの写真のことは彼氏君には話さないほうがいいですよ」

「でも……」

「たぶん、軽い浮気のつもりなんですよ。汐里さんが年上だから甘えてるんだね。」

「浮気に軽いもなにもないと思う! 」

「まあ、そうですよね。でも、ほら、彼氏君若いから」

「耀君です! 」

「耀君ね、まだ二十歳くらいでしょ? そりゃ、いろんな子と経験したい年頃だもの。汐里さんがどーんと受け止めてあげなきゃ」

「そんなの無理! 」

「……じゃあ、別れられるの?」

「それも無理! 」


 汐里はテーブルに突っ伏して、恥ずかしげもなく号泣し始めた。

 食事もそこそこに飲み始めた汐里は、すでに牧田の思惑通り、かなり泥酔に近い状態までできあがりつつあった。


 高田馬場から新宿に出て、適当な居酒屋に入った汐里と牧田は、料理は目の前にあるものの、ほぼ手をつけることなく、ひたすら緑茶ハイをあおっていた。

 途中から、牧田は緑茶ハイではなく緑茶を飲んでいたのだが、そのことに汐里は気づいていない。


「そんな泣かないで。なんか、僕が泣かしているみたいじゃないですか。ほら、嫌なことは飲んで忘れましょう! 僕もトコトン付き合いますから」

「牧田さんって……、いい人だったんですね」


 汐里が真っ赤になった目を牧田に向け、ばつが悪そうに視線をそらした。

 泣きすぎて眼鏡は外しており、ボンヤリとしか牧田の表情がわからない。

 汐里の眼鏡はかなり度が強く、外すと輪郭すら怪しくなる。


「汐里さん、眼鏡外すとイメージかわりますね」

「そうですか? ほとんど見えないんです」

「僕の顔見えます? 」


 牧田が顔をかなり近くまで寄せてくる。


「さすがにそんなに近かったら見えます」


 すぐにまた距離をとった牧田に、汐里は今回初の笑顔を浮かべた。牧田のギャグと受け取ったのだ。

 カシャカシャと音がしたが、雑多な音の交わる居酒屋では、汐里の耳には届かなかった。


「汐里さんは、笑顔のほうが素敵です」

「牧田さん、口がうまいですね」

「真実ですから」


 シレッと言う牧田は、本当にお見合いした時の牧田とは別人だ。あの時の牧田は、キンキンとした声で自分のことばかりまくしたて、人の話しは聞かないし、常に上から目線の嫌な男だった。

 今では、喋り方や声のトーンまで違うし、見た目までまるで違う。

 今の牧田が見合いに現れていたら、もしくは違う未来もあったかも……と、思わなくもなかった。

 汐里が牧田に惚れるかどうかは別問題として、耀と親しくなる原因にはならなかったかもしれない。


 もし……とかは、無意味な仮定でしかない。今のしんどい状態から逃げたいだけなんだろうけど、いろいろ仮定しては、分岐していく未来を想像してしまう。


 酔っぱらった汐里は、牧田の思うように思考を導かれながら、ドス黒い思考に落ち、いつのまにか、耀は女好きな若者であり、汐里はただいいように利用されている都合のいい女だと思い込まされていく。


 酒量はどんどん進み、ぐでんぐでんになりながら、汐里は「耀君の浮気者~! 」と叫びながら、テーブルにつっぷしていた。

 もう、終電も怪しい時間、牧田は精算をすませると、汐里に肩を貸すというか、ほぼ抱き抱えるようにして居酒屋を出た。この状態なら汐里にばれないと思ったのか、帽子を目深にかぶった少女が側によってきて、パシャリとスマホで写真を撮った。


「ラブホって、三人で入れるのかしら? 」

「えっ? 」

「だって、決定的瞬間を撮るためには、私も中に入ったほうがいいでしょ? ラブホに入った写真だけじゃ、言い逃れするかもしれないじゃない。でも、裸で最中の写真なら、衝撃度MAXでしょ。さすがの耀君だって許さないわよ」

「美麗たん、さすがにそれは……犯罪じゃ? 」

「あら、飲んでてその気になったって、この女のほうから誘ってきたんだって言えば犯罪じゃないわよ」


 そこまでする気はないというか、最愛の天使の前で他の女と……なんて考えたくもない。

 なんとか、ソフトな方向で済ますことはできないかと、少女が満足いくような代案がないか頭を捻る。


「とにかく行ってみましょう」


 居酒屋のあった場所から少し歩くと、ラブホテルが立ち並ぶ場所に出る。使ったことはなかったが、知識として知っていた牧田は、ほぼ自力で足が動いてない汐里を引きずるように、その方向目指して歩いた。後ろを歩く少女も、たまに写真をとりつつ、場所が場所だけにあまり距離もとらずについてきていた。

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