第12話
明子は、また二条の夜道をフラフラと歩いていた。
昨晩はバーを求めて彷徨っていた街の中を、今日も多少アルコールの入った足で歩いている。昨日と同じで、駅前はまだ活気があったものの、ホテルの周辺に近づくにつれて、どんどん人も車も少なくなっていく。あんなにいっぱいいた観光客がどこに集約されているのだろう、と明子は体内に少しだけ取り込んだアルコールでふわふわしながら考えてみるけれど、それも長くは続かなった。
本当なら、奇人を誘って鴨川沿いの納涼床で京料理を食べるはずだった。観光案内をしてくれた不可思議な恩人にお礼のつもりで、ディナーに誘おうと考えていた。勿論、これば別に奇人との約束でもなんでもなくて、明子が勝手に脳内で描いていた予定に過ぎない。そろそろお開きに、なんて言葉が出たら、言い出そうと考えていたりしたのだけれど、結局言えないままに奇人は渡月橋に明子を置き去りにして消えてしまった。一人で納涼床まで行くのは億劫で、夕飯はホテル近くの焼き鳥のチェーン店で済ませた。明子以外には、地元の常連だろう数人しかいない小さな焼き鳥屋で、アツアツの串焼きとビールとサワーを何杯か飲んだ。胃袋はアルコールが足りない、と文句を言っていたけれど、まだ歩くつもりだったから、控えめに空腹を満たしておく。昨日に続いて予定の変更をしてしまったけれど、財布に優しい夕食になったし、目の前で焼かれる焼き鳥は美味しかった。
奇人のことを恨んだりはしていない。置き去りといっても、明子はもう子供ではなかったし、そもそも約束自体も曖昧なものだったから、奇人があんな形で消えてしまったとしても、文句の言い様もなかった。
それでも、残された沢山の不思議と奇人の言葉だけは、ずっと脳内を駆け巡っている。死が欲しいなんていう、ある意味の熱烈な告白と、有り得ないような超常体験は少なからずとも明子に強い衝撃を残していた。春海夫婦がいなければ、明子はもっと頭を悩ませていたに違いない。夕方になって、泰貴の降らせた雨が止んだ時には、夫婦の日常生活の詰まった部屋と春海や泰貴の存在が、明子の中ですんなりと納得出来るものになっていた。目の前で起きていることを否定することは出来ない。自身の見ているものすら嘘だ、と断じてしまったら、明子はもう正誤の問題を解けなくなってしまうだろう。
生命じゃない存在が、この世には確かに存在している。御伽噺のような不可思議も、触れてみれば随分と親しみがあって、奇人もそうなのだろうと、今はもう半分以上信じてしまっている。
だからこそ、提示された選択肢の残酷さに腹が立った。
人に好意を持ったのに、代償のように並べられてしまう選択に納得は出来なかった。純愛なんてものに夢を見るような年齢でもなかったし、経験がなかったわけでもない。それでも、あまりにも一方的な距離の取り方に、明子は少しだけ腹を立て、そのことが可笑しくて仕方なかった。距離感に対して、誰かに腹を立てるのは久々で、そんなことにすら笑ってしまう。
そうして、彼を知りたいと思った。へんてこな仮面の下の顔も知らない。出会ってから一日しか経っていないのに、衝撃が強すぎて忘れられない。慎重派だと思い込んでいたはずの、自身の中で沸き起こる衝動が少なからず楽しめている。その衝動や、愉快さの奥底にある感情に、思い当たらないほど明子は幼くはなかった。
だから、焼き鳥屋を後にしてから、ずっと二条を歩き回っている。人通りのない暗い路地にばかり足を向けているのだけれど、一向に目当ての店は見つからず、車のベッドライトすらも届かない奥へと進みすぎると、少しだけ怖くなって大通りに戻るのを繰り返していた。
「このへんだと思うんだけど……」
ゴチるような独り言が、夜の京都の暗い路地の中へと消えていく。明かりの少ない住宅街はひっそりとしていて、女が一人で歩き回るには、少しだけ勇気と度胸が必要だ。アルコールで浮ついたスニーカーを持ち上げて、目線だけで見渡す。昨日も暗がりの中を歩いていたけれど、道順を忘れてしまうほどではなかったはずだ。駅からの道を何度も辿り、偶然たどり着いたバーを探している。なのに、一向にそれらしい建物も看板も見当たらない。
もしかしたら、奇人に会えるかもしれないと、勝手な期待を抱いていた。そうでなくても、奇人が通っているバーのマスターなら、何か聞けるのではないか。
普段はしない衝動的な行動が、なぜか明子をわくわくとさせている。夜道を歩く恐怖に苛まれながらも、どうしてだか正誤の思いつかない自身の行動に浮かれている。
携帯電話で時間を確認しようと鞄を漁ると、チリンチリンと鈴が鳴った。鞄の内側に、垂れるように結んでいる奇人から贈り物の紐を解く。
奇人は、鈴があるから明子の居場所が分かると言っていた。千里を見渡せると豪語した仮面の下は、今頃何処かで明子のことを見ているのだろうか。
現れるはずはないだろう、と理解したフリをしながら、小さな期待を込めて明子は鈴を揺らしてみる。路地の中に反響するようにチリチリと何度も音が鳴る。当然として、雨も降らなければ、奇人も出てこない。
明子は、歩きながら顔のあたりまで持ち上げた鈴を眺める。どういう理屈で、原理なのか、明子には見当もつかない。一度立ち止まって鈴をまじまじと眺めていると、明子の肩にぐっと重みがかかり、丸い影が視界の中に飛び込んできた。声にならない悲鳴を上げそうになりながら、顎を蹴り上げられて後ろへと倒れ込む。紐の端を摘んでいた鈴が、音を鳴らして明子の手から落ちていった。
小さな音が路地の中に反響し、慌てて視線を上げると――猫がいた。
丸い灰色の体毛をした猫だ。首まわりが毛で覆われていて、首輪は見えなかったけれど、鋭い視線で明子を睨んでいるようにも見える風貌は、一目で分かるほどに、野良猫の風格があった。
しかし、脳が状況を理解する前に、明子は目を見開いて「えっ、待って!」と、反射的に叫んだ。
猫が鈴を咥えていた。明子を見定めるように見つめていた猫が、興味を失ったような瞳をして、後ろ足で地面を蹴り上げる。チリンチリン、と軽やかな音が大きく反響し、遠のいていく。思わず明子は立ち上がろうと、硬いコンクリートについた手に力を込める。しかし、その動作の間にも、猫はするすると路地裏が庭だ、とでも言いたげに、コンクリートの塀の上に飛び上がり、姿を消していく。追いかける間もなく、灰色の毛玉は見えなくなった。
足音もない。気配もしない。猫とはそういう生き物だ。
「……うそ」
意図せずとも絶望的な声が喉から出て、身体の力が抜けていく。
どうしてだか明子には、奇人とのたった一つの繋がりが途絶えてしまったかのように思えた。約束はある。しかし、それも今日のように曖昧だ。指定された場所の範囲は広く、時間は聞いていないし、問いかける暇もなかった。
コンクリートの小さな石が突き刺さり、擦りむいた手のひらに、ジクジクとした痛みが走る。
こんなはずじゃなかった。
脳内に駆け巡る言葉に、明子はなんだか泣きそうな気分になって唇を噛みたくなる。
六割の世知辛さを引き摺る自身を不正解だと断定して、振り切るために、ホテルを予約して新幹線に乗り込んだはずだった。観光名所を巡り、ビルディングばかりの東京とは、景色の異なる京都という街で浮かれた旅をするはずだった。それがいつの間にか、どうしてだか泣きたくなっている。雨で予定が崩れた時でさえ、次の予定に向けて歩き始めたはずなのに。
なのに、今晩の明子は、どうすれば良いのかも分からなくなってしまった。
猫を追いかけて鈴を取り返すことは出来ない。不方侵入を覚悟して、塀を越えたとしても、きっともうあの猫はいないだろう。鈴の音は聞こえない。どうすれば正解であるのか、明子には予想もつかなくなっている。ただ鈴を失くしただけで、こんなに泣きたくなる自身の稚拙さも理解が出来なかった。
街灯の少ない路地裏は、さっきまで先が見えていたはずなのに、どうしてだか続く道の先が夜闇に覆われている。それは、長くどこまでも続いているような線路の先を思い起こさせる。ホームから闇に向かって伸びる線路の上を、光る目玉を持った怪物が走ってくる。
まるで、あの日の怪物がじわじわと這い寄ってくるような錯覚が、ぼんやりと明子の中に浮かんで、浮かれていたはずの脳裏に恐怖が戻ってくる。
「――おいっ、お前何やってる」
呆然と座り込んでいると、後ろから声が飛んでくる。鳥の羽ばたきのような音が耳に届く。コンクリートから顔を上げると、明子の目の前に大きな闇色の翼が見えた。
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