色の逡巡

第56話

 「陽菜乃、そっちは大丈夫か?」

 

 僕が陽菜乃に言うと、陽菜乃は神妙に頷いた。いかにもな雰囲気だ。


 「大丈夫です、完了しました」


 それを確認して僕と陽菜乃は自分の席に戻り、平然を装って、洒落たパスタを食べる。


 「戻ってきましたね」

 「ああ、そうだな」


 僕らの目線の先、そこには洒落た格好をした若いカップルがいた。今にも指輪を渡して結婚しそうな雰囲気を醸し出している。


 「わくわくします」


 陽菜乃はそう言って、にやりと悪代官のような笑みを浮かべた。

 

        * * *


 【三時間前】


 夜、僕らは宛もなく街をさまよっていた。

 特にやらなければいけないこともないし、やりたいこともない。だから陽菜乃と他愛のないことをしゃべりながら歩いていた。

 ずっと隣にいる、僕はそう言ったのだ。


 「なんか暇だね?」

 「やりたいことないの?」

 「雅人さんこそないの? もうすぐ死ぬんだよ? 死ぬ前にしたいこと、ない?」


 正直、何一つやりたいことがない。

 やりたいことなんて、真剣に考えてみればあまり無いものなのだ。


 「おいしいイタリアンが食べたい」


 なんていうのは嘘で、僕はスーパーに行って瞬間接着剤とタバスコを買った。


 「何に使うの?」


 陽菜乃は不思議そうに聞いた。

 僕はにやっと笑って言う。


 「おいしいイタリアンを食べるんだよ」


        * * *


 僕らは『Italys rein』という超高級イタリアン専門店の前にいた。

 

 予約はもう済ませておいた。

 だから僕は堂々と大きな扉を開ける。

 

 僕はTシャツに短パン、陽菜乃は白のワンピースという、明らかに場違いな服装で僕らは入った。


 「いらっしゃいませ」

 「佐原です」

 「お待ちしておりました。こちらへ」


 スーツ姿の男が席まで案内する。

 いかにも真面目な顔をした男だった。


 「こちらです」

 

 男の言われた席に僕と陽菜乃は座り、周りを見る。


 「すごいね。こんなとこ初めて」

 「でしょ? 一人三万円だよ」

 「うそ! ぼったくりじゃん」


 陽菜乃は驚きを隠せないのか、そわそわしていた。確かに店内の装飾はドラマや映画で見るプロポーズのそれだった。


 主人公が、付き合っている彼女にプロポーズする時は大体こういう店だ。


 「で、何食べるの?」

 「よく分からない」

 「本当にイタリアン食べたいの?」

 「とろろ蕎麦が食べたい」

 「どういうことだよー」


 陽菜乃の言う通り、僕はイタリアンが食べたいわけじゃない。でも、おいしいイタリアンが食べたいのだ。


 僕は周り見渡す。

 

 社長をしてそうな男たち、

 余生を楽しんでいるような老夫婦、

 そして無駄に宝石をつけているマダム。


 どれにしようか、僕は悩む。

 できるだけ面白そうな方がいい。


 「うわー! すごいよたっくん」

 「だろ? 頑張ったんだ」

 「もー、たっくんだいすき」


 考えていると、いちゃついたカップルが入ってきた。まさにプロポーズでもするような、そんな雰囲気を醸し出している。


 「なあ、陽菜乃。おいしいイタリアンを食べたくないか?」

 「そりゃ食べたいよ」

 「なら良かった」


 僕は陽菜乃に耳うちをして、今からやることを伝える。陽菜乃は面白そうに笑った。


 「いいですね。やりましょう」


 陽菜乃もどうやら分かってくれたようだ。

 僕は買ってきたタバスコを陽菜乃に渡して、僕は瞬間接着剤を握る。


 「お待たせ致しました。こちらはティラリア海でとれたムール貝の…………」


 どうでもいい説明は聞き流して、僕らは作戦会議をする。どういう風にしようか、なんて話したりする。


 僕のしたいことなんて、一つしかない。 



ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

説明書 No.56


死んで死んで、それでも死ぬ。

生きて生きて、それでも生きる。

そうやって、世界は回っていく。

 

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