一口の酒を
古新野 ま~ち
第1話
中天の陽の熱を運んでいた風の向きが鳩や烏の鳴くこえとともに変わり冷気をもたらしはじめ、山の色が黄昏に染まっていることに気がついた真田昌子は家主の江坂から承諾をとって窓を閉めて室内の昭明をつけた。
「遅くなったし、今夜は」
江坂は奥の部屋に視線を向けた。そこは間違いなく寝室で、どうにか同衾しようと持ちかけていることが如実にわかった。昌子もそれくらいは理解っている。
「ええけど、ご飯はどうしよ。映画観てる途中からお腹すいてしゃあなくて」
「考えてなかったな。どうだろ、なにかあったかな」
彼に付き添い冷蔵庫を物色するが、一人分くらいしかない食材だけだ。あとは冷凍庫にあった解凍するパスタくらいでいかにもずぼらな男だという印象に相違なかった。この男とは今年限りで会わなくなるだろうなという予感もしていた。彼のライフスタイルに構うことはない。
「少食やしそれでええよ」
「悪いって。宅配とかもあるからさ」
「手持ちがないから映画館に行かんかったんやろ、べつにええって」
ごめんな、とミートソースと明太子の袋を取りだした。霜がかかりいつの頃に冷凍したんだと昌子は呆れた。袋の賞味期限を見れば、明太子の方は2ヶ月前で切れていた。
「明太子ひとくち食べる?」
「いや、大丈夫」
箸でずるるるとパスタを啜るから明太子ソースが飛散して衿元や袖に付着した。仕事着だろう白のカッターシャツに桃色のシミが広がるのを想像した。黄なりの使い捨てフォークが使いずらいと言うと江坂は笑った。
そういえばと立ち上がり酒瓶をもってきた。彼が栓を抜くと心地のいい音と甘い匂いが広がった。そしてグラスと猪口があり、グラスを昌子に渡した。
「いつもポン酒それで飲んでるんや」
「ポン……、あぁ、そうやな。これで飲むと辛口が際立つきがするから」
陶磁ではなくざらついた瀬戸物のような質感で、くすんだ白色のそれに少量の酒を注ぐ。グラスには並々と縁まで注ぐ。泡がのぼり弾けるときに香気を放つ。
ゆるやかに飲もうとしたが、軽めの口当たりで、無意識に活と喉に流し込んだ。江坂の方を見れば、うっとりと猪口を眺めて悦に入った様子だ。
「美味しいけど、辛口ではないかな」
「あぁ、そうだったんだ。美味しいならよかったよ」
彼は一息で飲むから、酒が塊のように喉仏を浮き上がらせ伝っていく。酒の動きがはっきりとわかる。そして、猪口の底を、これまた確りと見つめている。見惚れているというべきだろうか、昌子は底の模様が気になり見せてくれないかと頼んだ。
手触りは悪いといえた。ざらついて、これでは唇に触れるときに気持ちが悪いのではないだろうか。そして思っていたより数段は軽い。
底には何もなかった。
「これ、ほんまにええやつ?」
「値段はわからんけど、容易くは手にはいらない一品かな」
にこりと笑う彼をみて、自分もこれで一口飲みたいと思った。無作法だが、これに酒を注いだ。今度は舌に滞留させる。日本酒は痺れるように旨かった。
「これでなにか変わるん?」
「あ、ええと」
彼に返すと、お互い酔いがまわっていたのか渡し損ねた。滑らせて、フローリングに落ちてしまった。
猪口は二欠片に割れた。
「ごめんなさい。私のせいで」
昌子は酔いが退いて冷たい血潮が頭に巡るのを感じた。しかし江坂は泰然と欠片を広いあげてゴミ箱に捨てた。
「気にしないでくれないかな。あれはもう古かったんだろうさ」
「大事なやつだったら、出来ることなら弁償するし」
「いや、こっちでなんとかするよ」
江坂は昌子のグラスをとり、中身を飲み干した。
「これでこの話は終わりってことで、な?」
食後にテレビを見ていた。あの猪口が気になり頭に内容が入らない。
「あれって何かの思いでの品とかなん……」
「まあ、そうかな。あまり話したくはないけど、昔の恋人がさ」
昌子は意外なところに潜んだ昔の女の話に7割の興味と、3割の怠さを感じつつも、引け目から話を促すことにした。
「大酒飲みの子でさ。名前は、うーん、仮に愛でいいかな。彼女と知り合ってしばらくしたとき、何故か結婚を前提にっていう驚きの条件が親爺さんから突きつけられたんだ。驚くでしょ、付き合って一月ほどで。それで、まぁ、はいって言ったらセットの猪口をくれたわけ」
「それが、あの」
「まぁ、まだ話は続きがあってさ。その貰ったお猪口で毎晩飲んでいたんだ。時代錯誤な親父だって愛は馬鹿にしていたけど、面白い人だと思ったよ。まぁ、結婚は考えてなかったから会うたびに適当に合わせるのは面倒だったかな」
「最低やん」
「もう結構前の話だし勘弁してよ。まぁ、その僕の気分が露呈しちゃって。愛も僕と結婚するつもりだったみたい。いつにする、なんて聞いてくるから、驚いたよ。そしてひどい口論になってね。ついかっとなって」
「殴ったとか?」昌子は身構えた。
「ハハハ、違うよ。テーブルを叩いたら、バランスの崩したお猪口が割れちゃってさ。なんとも気まずいから、少しだけ家を出たんだ。俺も考えてみたら、年上の人だったからきっと始めから結婚が前提だったんだと思って、反省したよ。そして家に帰ったらさ」
昌子は一組の恋人の破局話だと聞いていた。しかし、事態はもう少し複雑であったのだ。
「彼女、湯船に手首をつけて包丁で切り裂いていたんだ。真っ赤に染まった風呂場がおそろしかったよ。慌てて彼女を抱えたけど、もう息はしていなかった。心臓も止まっていてさ。
慌てて彼女を洗って、すぐに山に捨てなければと思ったね。無関係な場所で無関係なまま腐っていってほしかったんだ」
昌子は絶句した。男は酒に酔ったのか、焦点のあっていない目付きであった。
「あの山、近くにあってよかったとはじめて思ったね。急いで彼女を背負っていったよ。雨が降った後でよかったけどさ、やったことある? 土を掘ると土が現れるから土を避けて土を掘る。その土がパンツのなかでゴロゴロとしてさ。恋人が埋まるまであと何メートルかかるのかなって我慢しながら考えていたなぁ。爪は割れるし、口の中に砂利が溜まるから、飲み込んだり」
「嘘、ついてるんだよね」
「きっちり埋めたよ。そして、何もする気がおきないからさ、愛がいなかった生活をやり直すことにしたんだ。それで1年経ったくらい、どんな具合か掘り返してみたんだ。今度はシャベルをもっていったよ。そこに骨があったんだ。せっかくだし何本か持ち帰ってさ」
江坂はテレビを消した。
「お猪口を作ろうと思ったけど、どれもイビツになるから一つしか作れなかった。
苦労したかいがあって、これで酒を飲むと心が疼くねんな。痛みや後悔や彼女の終末、最後の瞬間を迎えた気持ちを想像してみると、かなり引き締まった味になるんや」
「じ、自首しなよ」
「いやだよ。お酒が飲みたいし。まあ、おいしいお酒は暫く我慢かな」
と言い終わってから江坂は窓をあけて、陽の沈んだ山を見た。昌子は一陣の風に頬を切り裂かれたと錯誤した瞬間、照明の灯りが瞬くまに消えた。
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