ヴィヴァーチェ
仁芭ゆづ
1話
その『音』はまるで歌うように響いていた。
現在の彼からすれば呼び寄せられたと感じるだろう。ただ、その時は理由もなく惹きつけられた。あるいはピアノに未練を持っていたのかもしれない。
立てつけの悪いドアの前で佐々木和也は悩んでいた。
中から聞こえる曲は明日の卒業式で歌われるもの。しかし、それはいつもと違う音だ。伴奏者が弾いているものではない。
そんなことがわかってしまう自分の耳にため息をつく。
「なにしてんだろ」
つぶやきは虚空に消えた。
弾いている自分が気にならないといえば嘘なのだ。しかし、彼の中に弾いている人物を確かめてどうするのだとう思いもある。
「帰ろ……」
「誰?」
音楽室の中から細い声がして音がやむ。
背を向けかけていた和也は、ぴたりと動きを止めた。
まさか聞こえているとは思わなかった。さすがにこのまま立ち去るのは失礼かと思い、ドアに手をかける。
「すみません。立ち聞きするつもりは、」
なかったという言葉は飲み込まれた。
その少女があまりに「綺麗」という言葉しっくりくる容姿をしていたから。
長い黒髪に大きな瞳。うちの学校のセーラー服。何がではなく彼女を見て思いつく言葉が綺麗だった。
「別に入ってきてくれよかったのに」
少女ふふっと微笑む。
大人びて見える見た目とは裏腹に、少しだけ幼い笑み。
「聴いていたの?」
問いかけに和也は咄嗟に「別にそういうわけじゃ」と言い訳を口にした。
少女は不思議そうに首をかしげてピアノに向きなおる。
ぽーん、と鍵盤が鳴り触れた指は吸い寄せられるように曲を奏でていった。
「……」
「私はね、ピアノが好きだよ」
告白ちっくなセリフに一瞬どきりとする。ピアノがだとわかっているのに。
彼女の弾くピアノはなぜこんなにも心に刺さるのだろうか。優しく、どこか悲しげな音色。
聞いていたいという思いと、もう聞きたくないという思いが和也の中で交差した。
「……どうしてここでピアノを? こんな時間に」
明日の卒業式準備はとっくに終わり残っている生徒は少ないだろう。伴走者が練習しているのならまだわかるが、彼女はそうではない。
見たこともないし同じ学年ではないかもしれない。
「弾かなくちゃいけない気がしたから。私は有守。貴方の名前は?」
「和也」
「ねえ、私にはわかるよ」
意味ありげな表情をして有守は目を閉じた。
何がわかるというのだろうか、と疑問に思いながらも彼女の音に耳を傾ける。
たてられている楽譜は見ていないらしい。
とろり、和也の頭の中が溶けてまざる。視界が歪んだ。
何も考えられない。ただ自分におこっていることに身を任せるような感覚。
「和也くんはピアノが好きだって。見たらわかる」
曲がサビにさしかかり、和也が最後に見たのは紺色のスカートだった。
「大丈夫?」
和也が次に意識を取り戻したときには見知らぬ少年が目の前にいた。
ここはどこだ。俺はどうしてここに?
漫画みたいなことを考えたけれど答えはすぐに出てきた。
「保健室?」
辺りを見回してどこかで見た光景だったのだ。しかし、どうして自分がそこにいるのかわからない。
思い出そうとすると、ふっと少女の姿が目に浮かぶ。
綺麗だった……、いや。そうじゃない。彼女のピアノを聞いていて、それからのことはよく覚えていない。
「どうして、という顔をしているね」
考え事をしていたせいで見えていなかった少年の存在が視界に戻る。
学ランを着ているが、幼く見える顔。短髪の髪がツンツンと立っている。
「えっと、君が俺をここまで運んでくれたの?」
「まあ、そんなところかな」
曖昧に笑った表情が、少し先ほどの少女に似ている気がした。
少年は、ふっと真面目な表情になると、固い声色で言った。
「有守が死ぬ未来を、止めてほしい」
「は?」
思わず口から出た声。
死ぬ? 誰が? ああ、有守と名乗ったのは先ほどのピアノの彼女だ。
彼女が死ぬなんてようには見えなかったし、仮にそうだとして、どうしてそれを俺が止めなくちゃいけない。出会って数分の相手の死を止めるなんてできるはずがない。
二人はさぐり合うように見つめ合う。
少年はいたって真面目は表情のまま、ふざけているようにはまったく見えない。
「意味がわからない」
「そうだろうね。でも、君は冷静だね」
意味深な言葉のあとに、少年は説明を始めた。
有栖という少女はこれから三ヶ月後に死ぬ。
ここは和也が生きていた時間より少し前だという。
「どうして俺なんだ」
「選んだ、有守が」
少年は太一と名乗り複雑に笑った。
自分が助けてやれるものなら、そうしたかったのだから。
微妙な沈黙が訪れた時、部屋のドアが突然開かれた。
「太一、こんなところにいたの」
先ほどの彼女、有守だ。
「ああ。どうした?」
「先生が探していたよ」
くりっとした有守の瞳は、和也が音楽室で出会ったときと変わらない。けれど光のせいか輝きが違う。
こんなに、力強い目をしていただろうか。
二人の様子を眺めていた和也に有守が気が付く。
「ごめんなさい。太一と話していたのにお邪魔しました」
眉を下げて申し訳なさそうな彼女は、手を顔の前で合わせてごめんというポーズをとって見せた。
「こいつ、佐々木和也」
太一が和也を指す。
「……どうも」
「はじめまして。見たことないけど、うちの学年?」
「え、さっき音楽室で……」
名乗りあったはずだ。
けれど、有守はなんの戸惑いもない笑顔で「はじめまして」と手を差し伸べている。
「音楽室? ああピアノ弾いていたの、見られちゃったかな」
少し恥ずかしそうに頬を染めた。
彼女が嘘をついているようには見えない。和也はぼんやりとこれは夢か何かだろうかと考える。
「綺麗なピアノだったから。……はじめまして」
手を緩め、和也は少女の白くあたたかい手を握った。
違和感がぬぐえないけれど、なんとなく先ほど会ったじゃないかと問い詰めるような気にはならない。
「さて、俺は職員室に行かなくちゃ」
タイミングを見計らって、太一はベッド脇の丸椅子から立ち上がる。
「じゃあまた明日。有守、和也」
「またね」
手を振る有守。
「ちょっと、おい」
和也が引き留めようとベットの上から声を出すが、太一はすでにドアのほうまで歩いてしまった。
「話はまたあとで」
まだ太一から聞かされた話は途中だろう。本当にここが過去だと信じているわけではまだない。しかし、そうだとしたらこれから自分はどうすればいいのか。
和也に笑顔を向けて、太一は出て行った。
「私も行くね」
紺色のスカートをひるがえして、有守もその場を立ち去ろうとする。
「あの」
反射的に声が出た。彼女のピアノに惹かれたときのようだ。
有守が振り返ってから、声をかけたことを後悔する。
「?」
話すことなんて何も思いつかない。そもそも彼女は俺と出会ったことを覚えていない。
「いや、なんでもない、です」
彼女は不思議そうに首をかしげてから、砂糖菓子のような甘い微笑みを浮かべて手を降った。
「またね、和也くん」
今まで光に満ちていた瞳が、一瞬だけ悲しげに儚く見える。
「え?」という言葉を寸前で飲み込み、和也は「また……」とだけつぶやいたのだった。
急に彼女が、死んでしまう気がした。
残された時間は三ヶ月。
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