夢魔の目覚めと二つの壁 編

第30話 鎖

『ああ、もう──じれったい!』


 暗闇の中、ボクは大きな鏡の前に立っていた。


 これは、魔王城の寝室にある全身鏡。

 ボクの背丈よりも大きなその鏡は、ルビー色のくさりでぐるぐる巻きにされている。

 

 鏡の中で、紅い瞳の少女が真珠色の髪を振り乱し、イライラと足を鳴らした。


「また、キミか」

 ボクは彼女のことを睨み返した。


『どうして、”ワタシ”にフタをするの? アナタ、我慢しているでしょう?』


 少女の正体は、ボク自信の”本能”である──と、彼女自身から以前聞いた。

 こうして彼女と会うのは、夢の中だけだ。

 

「キミは、一人の女の子を傷つけた」

 ニアルタの宿でミナミが正気を失いかけたことは、今でも鮮明に思い出せる。


『彼女自身が望んでいたことに、気付かせてあげただけよ』

「もし望みだったとしても、本人が秘密にしたいなら無理に聞いてはいけないよ」


『でも、おかげで彼女と仲良くなれたでしょう?』

 小悪魔の少女は、さも自分のおかげだと言いたげに含み笑いを浮かべた。


「……結果論だよ」


『言って後悔するのと、言わないで後悔するの、どっちがいいと思う?』

「それを決めるのは本人だと思う」


『……アナタこそ、どうしたいの? マコ。ホントウにアナタを見ていると、じれったい』


「なんのことさ」


 ……ボクは彼女が問おうとしていることに、答えたく無かった。

 ボクはその答えを、ホントウは知っている。


『──彼のこと、好きなんでしょう? 女として、彼に愛されたいんでしょう?』

 紅い瞳が、ボクを尋問するように光る。


「……違う、そんなんじゃない。尊敬してるだけだ──」

 頭の中に、彼の顔が浮かぶ。


「──頼ってるだけだ。──憧れてる、だけだ」

 彼はいつでも、ボクのことを守ってくれる。気にかけてくれる。

 こんなにお世話になっているんだから、親しみを抱かないほうがおかしいに決まってる。


 少女は身を乗り出して、鏡の向こう側にべたりと手を張り付けた。

『じゃあ──なぜ、彼のことを考えると胸が高鳴るの?』

 

 鏡は目の前にしかないはずなのに、その声は四方八方の暗闇から聞こえてきた。

『なぜ、彼の温もりで安心するの? なぜ、彼は星よりも美しく輝いて見えるの?』


「そんなの、一時的におかしくなってるだけだ。ボクが彼を──その──好きになるはず、ないでしょ。だってボクは、おと──」

『──いいえ、アナタはもう女の子なのよ、マコ。心まで──』


「聞こえない。それ以上言わないで」

『フフッ、アナタは、いまに”ワタシ”に頼りたくなるわ』




 ──ボクは布団から勢いよく起き上がった。しっとり汗をかいて、心臓がドクドク鳴っている……。


 前髪に触れると、リリニアさんから借りたルビー色のヘアピンの感触がした。たしか、”封魔ふうまの髪留め”という名前だった。

 夢魔サキュバスの魔力が外側に溢れるのを抑えるという、貴重な品だ。

 これをつけているおかげで、知らないうちに危険な催眠効果を発動させてしまうことはなくなったみたいだ。

 

 ……昨日の夜、船の甲板でミナミと交わした会話を思い出す。


『もう、この世界でさ……楽しくやっていこうよ。マコちゃん?』

『ミナミは……そうしたほうが良いと、思うの?』

『あなたは、どうしたいの? マコ……マコト』

『…………』

『マコがあのオジサンを見る時の視線ってさ、なんだか……”恋する女の子”って感じだったよ』

『えっ……?』

『そうしたいなら、わたしは止めないけどさ。何も見なかったフリして、地球に帰るつもりなの?』

『意味がわからないよ。ボクは、そんなつもりじゃ……』

『はーっ。”考えるのを手伝って欲しい”って言ったのはマコでしょう? わたしばっかりマコの事で悩んでたら、ばかみたいじゃん。しっかりしてよね』


 ──ミナミはいま、隣の布団で寝息をたてている。

 反対側にはコニー、その向こうにはロゼッタさんが寝ている。



 ボクたちは、空飛ぶ帆船・星乗りの韋駄天スターライダー号に乗って北の王国を目指している最中だ。

 いまは途中にある穏やかな流れの川岸に停泊し、夜を明かしているところだ。

 

 はぁ、目が冴えちゃったな……。

 布団を身体に巻きつけたまま、こっそりと寝室を後にした。まだ夜は明けていない。



 * * * * * * *


 甲板から見える空は、ちいさな雲がぽつぽつと浮かんでいる程度で、どこまでも透き通っていた。


 うっすらと明るくなりつつある空の下、船の舳先に大きな背中が座っている。

 魔王って、高いところが好きなものなのかなぁ……。


「……おはようございます」

「おはよう、マコ。早いな」

 バル様はフッと微笑んだ。いつもの、優しい顔だ。

 ……ボクは、今どんな顔をしているんだろう。そばに鏡がないと、自分がわからない──。


「マコ、オマエ……また、カワイくなったなァ」

 彼は本気なのか揶揄からかっているのか、顔を近づけて笑いかけてきた。


「ど、どうしたんですか、急に」

 ああ、顔が赤くなる──。ボクは一歩後ろに下がった。


「俺は最近、ますますカワイくなっていくオマエの事が、怖い……!」

「こ、こわい?」

「このままでは──宇宙が誕生してしまう! ああ、カワイイ!」

「う……えぇ?」

 バル様が冗談を言ってるのかは計りかねるけど、彼独自の比喩表現だと思う事にした……。

 

 ボクはどう相槌を打っていいのかわからないまま、神妙な顔で朝焼けを眺めた。


 ──彼は初めて出会った時、ボクに”結婚してくれ”と言った。

 それは、もしかすると勢いで言ったのかもしれない。

 初対面のあの日以来、バル様から再びその言葉を受けたことはない。


 でも、あれからボクはずっと……彼のことを意識しているような、気がする。



 どうして……もう一度、言わないんですか。

 いまも、そう思っているんでしょうか。


 ボクは、困ってます──バル様。



「……ククク、悩み事か?」

 先に口を開いたのは、彼だった。


「わかるんですか?」

「オマエのことは、よく見ているつもりだぞ」


 彼の深い緑の瞳とは、いつも目が合う。ああ──、この顔だ。この顔がボクを、悩ませる。

 しかし、当の本人に相談するわけには……。



「……ボクは……どうして、この世界ニームアースに転生して来たんでしょうか……」

「クハハ、それは難問だなァ」

「そう、ですよね」


 バル様は笑ったが、目つきは真剣だ。彼は少し考えるように頭を傾けた。


「……マコ、オマエは生まれてきた時から、そいつが何故生まれてきたのか、決まっていると思うか?」


「もし、決まっているとしたら……それは”運命”と呼ばれるものなんでしょうね」

 ボクは、彼を見つめた。その言葉が、この出会いに当てはまるのかどうか探るように。


「……”運命”は、あると思うか?」

 彼も、じっと視線を向けてきた。ボクはいまにも暴れだしそうな自分のしっぽを、左足に巻きつけた。


「ボクは……自分の人生は、自分で決めていると思っています」


「──そうだな。そうかもしれん。だから……何故生まれてきたのかなんて分かる時が来るとしたら、死ぬときくらいだろうなァ」

 バル様は、天を仰いで短く息を吐いた。


「じゃあ……最初は決まっていないってことでしょうか。生まれてきた時には……意味なんて」

「それを決めるのはオマエ自身だってことだ、マコ」


「……ボク、自身」

 ボクの”ホントウ”の意思があるのは、どこだろう。理性のなか?

 それとも、"本能"?

 ふと、夢の中で見た紅色の鎖を思い出した。


「……だがな、マコ。オマエは転生者だ。前世の記憶があるのだろう」

「──はい、あります」

「前世の人生のなかに、満足する答えはあったか?」

「それは……」


 音無おとなしマコトの人生は、十六年足らずの儚いものだった。

 劇的ではないけど様々な幸福と、様々な不幸があった。

 いま振り返ってみると、ミナミという掛け替えのない友を得て──彼女とは、今も縁が繋がっている。


「ミナミと出会いました」

「ほう、あの小娘か」


 ──でも。”ボク”はこうして今、生きている。

 “音無おとなしマコト”は──死んだのだろうか。”マコ”とは、別人なのだろうか。


「……肉体が死んでも、魂が生きていたら──それは”死”と呼ぶんでしょうか」

「いい質問だなァ。そうともいえるし、そうでないとも言える」

「……はぐらかしてません?」


「まァ聞けよ、マコ。大抵のヤツは肉体の死と共に記憶を失う。魂は外に出て、新たな肉体を得るまで彷徨う」

「……はい」

「記憶を失うということは、それまでの自我じがを失うということだ。……俺が恐れている”死”は、それだ」

自我じが、ですか──」


 東の地平線に、まぶしい朝日が昇った。彼の顔が照らし出され、炎のような髪がキラキラと踊った。


「俺が転生術てんせいじゅつを研究している真の目的は、死を克服するためでもある。俺は──いつか自分という存在を失ってしまうのが、恐ろしいのだ……」


 空は、どこまでも青く──。

 しかし、その眼差しだけは、光を浴びてもなお晴れない雲り空のようだった。

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