<4> サバンナ

 朝だ。またいつもと同じ一日が始まる。

 顔を洗い、身支度を整えたら、自転車に乗ってバイト先のコンビニに向かう。着くとすぐに、裏手の事務所で朝食をとる。廃棄間際の弁当だ。俺にとってはこれが大変ありがたい。小学校の給食のようなものだ。

 俺の本職は浪人生。しかし、二浪ともなると、もはやコンビニ店員の方が主体で、予備校生がバイトのようになってしまった。今度ダメだったらもう後はない。正真正銘のコンビニ店員になる。それも悪くない、と最近は思うようになっていた。

 仮に受験に成功し大学に入れたとしても、その先の就活でまた、つまづくに違いない。幾多の会社を回っても、大手どころか、中小にだって拾ってもらえないかもしれない。

 今のおんぼろアパートでなら、コンビニだけでも何とかやっていけそうだ。でも、それで将来はどうなるのだろう? 考えると気が滅入るから、今は考えないことにした。先のことなど誰にもわからないのだから。

 

 

 しかし、その朝はいつもと様子が違っていた。目覚ましが鳴らない。掛け忘れたのかと思い手を伸ばしたが、いつもの場所に目覚ましがない。いや、それどころか吹き抜ける風が顔に当たる。

(え! ここは室内ではない、外だ!)

 俺は飛び起きた。そして、今自分が置かれている状況が全くつかめない。そこはなんと、見渡す限り大地が広がる広大な草原だったのだ!

 すると、草の間から、何か動物がこちらを睨んでいる。殺気を感じた俺は、一目散に走りだした。人間の足で逃げ切れるものではないと半ば諦めかけた俺は、またさらなる驚愕を覚えることになる。なんと、俺は四本足で、颯爽と草原を駆け抜けていたのだ!

 何と気持ちのいいことだろう! どこまでも広がる青い空、体の隅々まで洗われるような美味しい空気、太陽はさんさんと輝き、乾いた風はそこにいる生き物すべてに命の息吹を与えている。

 そして自由。俺は自由だ! 受験勉強も、レジでの愛想笑いもない。人間なんかでいるよりもはるかにすばらしい!

 

 しかし、走り回ったおかげで俺は腹が減った。もちろん、給食代わりのコンビニなどない。そうか、自分で獲物を捕えなければならないのだ。俺は機敏に獲物を追ったが、敵はさらに機敏だった。命がけだから相手も必死だ。とうとう何も食えぬまま夜を迎えた。

 すると、昼間とは世界が一変した。夜は恐ろしく不気味で、月明かりだけが唯一の灯り。その月が雲に隠れれば漆黒の闇に包まれる。その暗闇の中、風が揺らす草の音、そして、時おり遠くでは得体のしれない動物の唸り声が聞こえる。いつ、どこから、何に襲われるかわからない。おちおち寝てなどいられない。

 うとうとしたくらいで、俺は朝を迎えた。その上、空腹でもう今にも倒れそうだ。食べ物も捕えられず、夜も眠れないのでは生きていけない。

 

 そうだ、仲間だ。人間社会の時は、煩わしさしか感じられず極力避けてきたが、生き延びるために必要とあればしかたがない。

 そう思った時、向こうから親しげに近寄ってくる一匹の動物がいた。俺は自分で自分の姿は見えないが、あれが今の俺の姿なのかもしれない。そう思い、その動物について行くと、そこにはおびただしい数の仲間の群れがいた。そして、その仲間たちは、足元の草を必死に食べている。

 そうか! 俺は草食動物だったんだ。でも、草なんて青臭いものが食えるだろうか?

 俺は子どもの頃から野菜が大嫌いだった。親にいくら言われても、どうしても食べられなかった。でも生きるためだ、と思い、目を瞑り思い切って一口食べてみた。

 うまい! 気がつけば俺は夢中になって、仲間たちといっしょにあたりの草を食べあさっていた。

 その間にも、近くに天敵の姿が現れると、即座に食事を中断し退避行動をとらなければならない。とにかく、食事も睡眠も辺りを警戒しながらとるしかないのだ。ただ、群れのおかげで、その負担はぐんと減った。

 でもいいことばかりではない。群れの中では、雌の取り合いなどの諍いがあちこちで起こる。また、本能で生きているから、ところ構わず交尾も始める。そして、生まれた子どもはすぐに立ち上がり、一時間もすれば群れと行動を共にする。それができないものは死が待つだけだ。

 ケガをした、病気になったと言っても、薬もなければ、治療などあり得ない。自然治癒力だけがすべてだ。年老えば倒れ、他の生き物の生命の源となる。高齢化社会などという贅沢は許されない。

 

 こんなシンプルかつ過酷な野生動物の世界に、俺は突然どうして放り込まれたのだろう? いったいいつまで俺はここにいなければならないのか? まさか、この姿のままで一生を終えるなんてことになるのだろうか?

 あれほど、嫌気の差していた人間の世界が、今はひどく恋しく思える。これほど過酷な思いをするくらいなら、死に物狂いで勉強して東大にでも入れるような気さえする。そして、力づくで雌を奪い合うのではなく、恋をして結ばれたい。そして何より、病で倒れたら仲間に置いていかれるというのは耐えられない。

 いろいろと厄介な制約がある人間界だが、やはり、俺は以前の暮らしに戻りたいと痛切に思う。本当の自由を手にしても、今日一日を生き抜くということが、これほど厳しいものであるなら俺には無理だ。

 

 明日、目覚めたら、部屋のベッドの上だった、そうなることだけを希望に、俺は今日も仲間とともに草原を駆け抜けている。突然この世界に来たのだから、また突然、元に戻ると固く信じて。


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