02 〈赤い柱〉亭

 果てのなき広大なる世界、フォアライア。

 世界は三つの大陸に分かれていた。

 北東にラスカルト大陸、北西にリル・ウェン大陸、南にファランシア大陸というのがそれぞれの名である。

 ラスカルトの東には広大なる砂漠が拡がり、その向こうに旅立って戻ってきた者はいなかった。リル・ウェンの北には鬱蒼たる大森林が立ちはだかっていて、霧の中にさまよい込めばやはり戻ってこられなかった。ファランシアの南には天頂の見えぬ大山脈が連なり、生ある者の行く手を阻んだ。三大陸の交渉を阻む大海もまた限りなく、世界に果てを見た者はいない。

 世界には果てがないのだから、それは当然のことだと人々は考えた。

 と言っても、遠い世界に思いを馳せる冒険家でもなければ、研究したがる学者でもなく、不思議な秘密を求める魔術師でもない普通の人々は、世界の果てについて考え込んだりするようなことはない。朝には目覚め、仕事に出かけ、日銭を稼いでは友人や恋人、家族と食事をし、少し懐に余裕があれば酒を楽しんで、明日のために就寝する。それで精一杯、それで充分だ。

 ファランシア大陸が西半分をビナレス地方と言う。

 広い地方の西端、小さな湾を背にして、〈王城都市〉アーレイドの街は存在した。

 ハワール・アーレイドを王に戴くこの街は、穏やかな気候に恵まれた美しい街だった。経済的にも豊かで、安定をしている。第一王子マザドにまだ子がないのが不安要素と言えば不安要素だが、王子とその妃はまだまだ若いし、そこを本気で心配する人間もあまりいなかった。

 ひょんなことから少年が暮らすようになったこの満たされた街でも、人々の事情は同じ。城に暮らす王族や貴族でもない限り、誰でも額に汗して働いて、そうして生きるのが当然だった。

 クレスはもちろん王族でも貴族でもない。となれば当然、大多数同様にそういった考えを持っていた。

 つまらない暮らしだと思ったことはなかった。

 少年は少し前まで酷い生活をしており、それに比べるといまは天国タシャーラにいると言ってもいいくらいだ。


 〈赤い柱〉亭がいちばん賑わいを見せるのは夕飯時だった。

 この店は、飯の提供を主眼とした食事処とも少し違えば、酒と簡単なつまみだけを提供するような酒場ともちょっと違った。用意される品数こそ専門の食事処ほどではないものの、きちんとした飯を出すのだ。酒も飲みたいが腹もしたい、かと言って何軒も回るほどにラルはかけられない、そんな人間に最適な店であった。

 店は夕刻に開き、客の多くは黄の刻から暗の刻、つまり十番目から十一番目の刻に訪れる。常連がさまよいこんでくれば昼に飯を出すこともあったが、基本的には開けていない。だから、朝の市場で必要なものを買い揃え、必要な準備を終えると一旦休憩となった。バルキーが何か飯を作ってくれることもあれば、外に食べに行くこともある。

 食べに行くと言っても、食事処の類は〈赤い柱〉亭同様に日が落ちてから営業を開始するところが多く、昼どきは屋台などで買って済ませるのが一般的だった。田舎であればともかく、大きな街になると普通の家庭や商店などに調理設備はないことが普通だ。王の座す王城都市たるここアーレイドでもそれが常識で、何か食いたければ、人々はまず屋外に出た。

 彼らもたいていは店から歩いて数ティムのところにある屋台群から適当に選び、すぐ近くに設置されている椅子に腰掛けて簡単な飯を済ませるのだが、今日のバルキーは、東区に用事があると言う。

「ちょいとつき合え」

 というのが店主の命令だった。クレスは雇われ人だが、休憩時間の過ごし方まで命じられる謂われはない。もしクレスが嫌だったり、他に予定があったりすれば、否と言っても別にバルキーは怒らないだろう。

 でもクレスは嫌ではなかったし、他に用事もなかったから、ただうなずいた。バルキーはいろいろと彼に教えてくれるから、彼と一緒にいると少年は楽しくて仕方がないのだ。

 これは、半年ほど前までの人生では、クレスに全く縁のなかったことである。もしかしたら、父親というのはこういうものなのだろうかと、少年はそんなことを想像していた。

 クレスに親は亡く、気づいたときには彼は縁もゆかりもないダタクという男の隊商トラティアでこき使われていた。

 給金も飯もろくにもらえない生活が当たり前だと思っていて、酔っ払った隊商主ダタクをはじめとする連中に殴られたり、何も悪いことをしていないのに蹴られたりする暮らしが普通のものだと思っていた。

 その隊商主が持ち込んだ違法品のためにこの街の町憲兵レドキアに捕まったのが半年ほど前。この子供には罪がなさそうだと無罪放免になったのだが――何も知らない少年は、それからいったい、自分がどうしていいものかさっぱりだった。

 だが彼は幸いにも、バルキーという酒場の店主と出会うことができた。隊商の連中の食事を世話していたことが買われ、手伝いを求めていた店主に拾われたのだ。

 いまは、住み込みで働かせてもらっている。明らかに彼の落ち度でなければ怒鳴られることもなく、きちんと休憩をもらえれば飯ももらえ、決して上等ではないけれど寝台まで使わせてもらえる上に何と給金までもらえるという新しい生活は、クレスにとってとんでもなく贅沢なものだった。

 彼ほど不遇な暮らしをしていなかった者にとっても、バルキーというのは評判のよい公正な雇い主で、〈赤い柱〉亭で働く人間たちは家族のように仲良くつき合っていた。

 そうしていまではアーレイドという街にもだいぶ馴染んだ彼だったが、東区の方にはあまりやってきたことがなかった。

 一度か二度、バルキーの使いで包丁を研ぎに出したりそれを取ってきたりしたことはあったものの、それくらいだ。彼が主に出かけるのは市場であり、それならば港付近や北門のものが賑やかだった。東区及びこちらの広場での商いは生鮮食品が少ないためか、日常にクレスが走り回ることは滅多になかったのである。

「こっちに、何の用事?」

 一見いちげんを捕らえる目的であれば、人目を引くように入り口を飾り立てたり、入りやすいように工夫をしたりするだろう。だが、金物屋やら布地屋やら、彼らの客はアーレイドの住民、それも職人たちだ。浮ついた雰囲気は却って客を逃す。要するに、この辺りの街区は見た目が地味だった。

 それでもクレスは物珍しげに周囲を見回した。

 何でもかんでも、面白い。

 以前に入った研ぎ屋の店先を通りかかったことの気づいた少年は、何となくそちらを見た。

「いや、別に今日は何かを引き取りにきた訳じゃない」

 その目線に気づいてバルキーはそう言ったが、クレスもそう考えた訳ではなかった。ここしばらくは使いにやってきた記憶がない。バルキーが自分で研ぎに出すことだってもちろんあるのだが、引き取りにクレスをつれてくる必要はないだろう。

「だが、考えていることがあるんだ」

 店主はそう言うと、少年をじっと見た。

「クレス、お前、本格的に調理をやっていく気はあるか?」

「……え?」

 突然尋ねられた少年は瞬きをした。

「この先に、いい刃物屋がある。その気があるなら、一本、買ってやろうかと思ってるんだが」

「え? それって」

 クレスはまさかと思いながらも続けた。

「俺用の、包丁!?」

 少年の素っ頓狂な声に笑いながら、バルキーはうなずいた。

「自分の道具ってのは、愛着が湧くもんだ。大事に扱うし、使い込めば手にも馴染む。用途に合わせて何本も使い分けるのはまだ先としても、手ごろな大きさの小刀でも一本、所有してみないか?」

 バルキーは少年の様子をうかがうようにした。クレスはびっくりして、あまり大きくはない目を見開く。

 何かを買ってもらえる? そんなことは、考えたこともなかった。

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