推敲を遂行しよう・2。

芦苫うたり

●推敲版「それでもこの冷えた手が」作者:lager 氏


 その日は朝からの曇天で、全体に薄い幕が掛かっているような底冷えのする冬の空気が、街路樹の合間やビルの隙間、駅のホームを吹き抜けていた。


 昼を過ぎても、鉛色の雲は ますます厚みを増しながら、それでも未だに雨粒を零さないでいる。その事の方が不思議に思えるような天気である。

 春は まだ遠い。


「塔子さん、今日はご機嫌ですね」


 それでも、後輩から そんな言葉を掛けられる程には、浮かれた気分になっていたらしい。

 一連の昼休みの行事を終えた私に 少しばかり遠慮がちに、それでいて何かを期待するかのような顔付きで 声を掛けて来た三つ年下の男子に向け、わざと冷たい笑みを浮かべて見せた。


「ごめんね。いっつもは キツイ顔で」

「い、いや。……その」

「ふふ。冗談よ」

「はぁ……」


 年が明けて、ひと月半。

 今日はバレンタイン・デーだ。


 始業前に 営業部の女子社員全員で買った、そこそこ値の張るチョコレートを配った時に表れた、彼の 子犬のような顔付きを思い出して、急に白けた気分になった。


 日頃から 私一人にだけ向けられる、その視線の色に気付かないほど無神経ではない。


 では 彼が、何がしかのアプローチを掛けて来るか といえば、そういう事もまた 無いのだ。

 ふとしたタイミング、会話の中に混じる言葉の端々や表情の変化などで、そうだと察する事が出来るだけである。


 自惚れ……。そう言われてしまえば それまでだけど。

 まあ、ワタクシもこう見えて女子の端くれ。十中八九 間違いはあるまい。

 ――けれど……、やめてよね。


 別に、悪いヒトじゃないは知っている。

 顔は十人並みだけど、気遣いが上手いから そこそこの仕事内容を熟すし、上司の覚えも良い。

 ただ ガツガツしたところが無いので、あと一歩足りず 競争相手から抜け出せないでいる。

 並走する相手がいると、いつも「どうぞお先に」と譲ってしまう甘さがあるのだ。


 そういう男子が好みという女子も 確かにいるけれど、お生憎さま。我が営業部の、女子内での彼の渾名は『無難くん』だよ。

 飲み会の場に、一人いると とっても便利なタイプ。


 彼を追い払って、この後に出番が待っている包みの位置を、どこからも決して見えないように、さりげなく、デスクの下にある バッグ内で修正した。

 好意の視線を向けられれば 誰だって悪い気はしない。その気持ちも 十分分かるけれど、そういうのは時と場合によるのだ。


 例えば、気持ちが他に向いている時は? その晩に、他の約束がある場合などはどうだろうか。

 ――ちょっとわずらわしい。


 彼からの想いが、今後の予定に 何らか影響を及ぼすなどという事もあるまいが、人の好意を受け止めるという事は それなりにエネルギを使うし、覚悟も必要だ。

 今の自分に、そこまでの容量キャパシティはない。


 心の中で彼に詫びて それで気持ちを切り替えると、午後の作業に集中した。


 この時期は 仕事も閑暇期なので、今日も 何のトラブルも起こることなく時は流れ、昨日と同じく定時退社が可能だ。

 中には どこか浮足立った素振りで、帰り支度を始める者もいて、自分の挙動に そんな色が現れてはいないかと、少々不安になりながらも、努めて普段通りの言行を心掛けた。


 忍ぶれど、色に出でにけり 我が恋は……。

 ――とか、なぁんてね。


 結局 今日一日で「ご機嫌ですね」なんて言われたのは、昼の一件だけだった。そう神経質になる必要は なかったのかもしれない。

 ふと視線を巡らすと、その『無難くん』は 終業となるや、同期達中の誘いも断り、そそくさと 急かされるような足取りで帰って行った。

 ――おやおや、何かしらね。


 そういえば『経理部の若い女子が秘かに思し召しを……』なんて、噂もチラリと耳にした。

 ひょっとすると 今日あたり、何かアクションがあったのかもしれないな。

 ――まぁ、お好きになさったら。


 外を見れば、ついに降り始めた雨が 夜の街路を派手に叩いている。気温が、これから一気に下がるだろう。

 冷気に肩を震わせ、折り畳み傘を取り出して 街灯をいびつに反射する、濡れそぼったアスファルトへと足を踏み出した。


 ◇


 約束は どたキャンされた。


 職場の最寄り駅から 二つ離れた駅前で待っていた。

 スマホにメッセージが入った頃には、私の手足は すっかり冷え切ってしまっていた。

 簡潔な短文による謝罪と、埋め合わせは必ずするからという文言もんごんを、穏やかに凪のような気持ちで眺めていた。

 凪と言うか氷結、氷像のような気持ちというべきか。


 体が冷え過ぎて 脳まで機能を停止したようだ。

 その言葉の意味が、胸の奥に しっかり定着し、完全にみ込むまでには 随分な時間を要した。


 急な用事、……急な用事ねぇ。

 そりゃあ、こういう日は奥様の方が優先だよね。


 流石に、それくらいの事は推察できる。

 元々、そちらとの不和の間隙かんげきに 付け込んだような形で始まった関係だった。

 その隙間がなくなれば、当然 押し出されるのは……私だ。


 さっきまでの 待っていた時間、その間。

 時が経つにつれ 冷えていく指先を摩りつつ、それでも 心の拠り所としていた胸の奥にあった火が、文字通り 冷水を浴びせ掛けられたかのように消えた。

 シュン。

 そんな音を立てて昇る 細く白い煙を幻視した。


 恋愛には節目というものがある。

 なにも 今日の、この事だけを理由に「もう会わないようにしましょう」とはなるまいが、今後の展望が明るいという事もないだろう。

 こちらからか 向こうからか、どちらから切り出すかは分からないが、きっと 後で思い返して理解するのだろう。

 あぁ、あの日が節目だったんだな、と。


 こんな事になるだろう。……そんな予感は 最初からあった。

 元より、花が咲き 実のるような関係ではなかった。

 そもそも最初の節目、というか 彼と付き合い出した切っ掛けすらも思い出せない。

 ただ、最初に彼と寝た日の事だけは よく覚えている。


「『逆ハーレム』っていうのはさ、文化的な行動なんだって」

「えっ……」

 お互いに煙草を喫わないものだから、事が済んだ後の テンプレートのような光景は無かった。

 汗を浮かべた体に スポーツドリンクを流し込みながら、彼はそう言ったのだ。


「『一夫多妻ハーレム』ってのはさ、生物学的に見て合理的な行動なんだよ。

 雌からしたら、他の雌が何匹いようが、自分が生んだ子供は 間違いなく旦那の子だろ」

「確かに、まぁ……そうですね」


「優秀な遺伝子を後世に拡散させるためには、その雄はハーレムを造るべきだ。

 けれど、『逆ハーレム』ってのは そう単純じゃない。

 一体の雌が孕んだ時、まず周りの雄は それが誰の子なのかを気にしなきゃいけない。

 雌が再び子作り可能な状態になるまで、自分と全く関わりのない子供を育てている可能性、というリスクを負わなきゃいけない。

 こんなコミュニティばっかりが増えれば、種全体にまで 存亡の危機というリスクが表れて来る。

 そういう、生物として本来的には不要だったり、害悪になるような事をするのが『文化』ってものなんだってさ」

「……ふぅん」

 ――いったい 何が言いたいのだろう。


 私は半覚醒状態の頭で、その言葉の意味を 現実に則して理解しようとした。

「それって、私たちの関係は『生物』として、自然な行動だって言いたいのかな」

「それが良いか 悪いかは別にしてな」

「あなたの遺伝子って、優秀なの?」


 少なくとも 無能ではあるまい。自分の 胎の内に、未だ燻る熱を意識した。

 人事部の部長を務めるくらいだ。まぁ これは、自然淘汰と年功序列方式が大きく後押ししているのだが。

 

「さあね。けど さっきの話だと、雄だって必死さ。何とか頑張って自分の優位をアピールしなきゃいけない。

 俺には、そこまでのガッツはない……かな」


 そこで急に、気弱な顔を見せるのだもの。

 散々 奥さんの気持ちが自分から離れてる。なんて話をした後で、本当 上手い男だ。


 私は外見のせいで 冷めた女とか、性格がキツそうとか思われてるらしいけれど、そして そんな事を影で言ってる男は、きっちりリストアップしているのだけれど。

 自分で言うのもナンだが、中々に情が深い。はっきり言って、ほだされ易い。


 私の鑑賞対象から、感動系の映画やドラマが除外されているのは、人目もはばからず号泣するのが分かり切っているからだ。決して冷めてるからではない、逆なのだ。


 そこへ 普段、いかにも頼りになる 上司然とした男が、自分だけに弱味を見せて来る。なんて事になっては 流され、絆されたって仕方ない。

 これも後から思い返せば「あーぁ、安い手に引っ掛かっちゃって」なんて思い出に出来るのだろうけれど、その時はそうじゃなかった。

 そして 今も、そうじゃない。


 そんな追憶に浸りながら、傘から滴る雨粒を 虚ろな目で眺めていた。

 もう、ここにいる意味など 何もない筈なのに、雨水の沁みた足が、地に凍り付いたかのように動かない。


 いつかは こんな時が来ると、頭の冷静な部分では分かっていた筈なのに、思っていた以上に 大きなダメージを受けているようだ。

 その事実に 私自身が驚いている。


 心が……寒い。


 いや、いや。

 切り替えよう、切り替えなければ。

 これ以上 ここにいたら、確実に風邪を引く。


 明日だって仕事があるのだ。

 昨日セレクトショップから取り寄せた、この 気合十分なチョコレートは、この際 自分で食べてしまおう。


 家に帰って、火傷寸前の熱湯でシャワーを浴びて、ギネスビールで美味しく頂こう。

 うん。今までの私に対する ご褒美チョコレートにするのだ。

 レンタルショップに寄ろう。パニック系の映画でも借りよう。

 ――今日は、絶対泣かないぞ。お一人ひとり様、万歳!


 何とか 胸の暖炉に薪をくべて、無理やり血を巡らせて、ようやく踵を返した。

 その時だった。


「塔子さん?」


 返した背に、その声が投げ掛けられた。

 再び向き直った その視線の先には、何やら大きな荷物を大事そうに抱えた、後輩君の姿。


「ぶな……、辰巳君」

 ――おっとっと。

「ブナ?」


 ◇


 数分後、今の私は『無難くん』こと 辰巳君と、駅構内にある喫茶店の席で、向かい合って座っている。


『今から帰りですか』

『顔色悪いですよ。体、冷えちゃってるんじゃないですか』

『よかったら、少し暖かいモノでもどうですか』


 そんな ぎこちない誘いに、私が乗っかって来たのが意外だったのか、辰巳君は 席に着いてからも、視線が定まらず落ち着きがない。

 私は 氷のように冷え切った手でスマホを弄る振りをして、注文したカプチーノとキッシュを待っていた。


 指先がかじかんで、スマホを上手く操作出来ない。

 店内の空調も効いてはいたが、もともと冷え性な体には 物足りない温度だ。

 どうして 辰巳君の誘いに応じる気になったのかは、自分でも理解できない。

 『少し暖まってから帰りましょう』という言葉に、敢えて逆らえるだけの気力すら もう残っていなかったからだろうか。

 ただ、それだけなのかもしれない。


 辰巳君は あんな場所に、凍えるまで突っ立っていた私を見て どう思っただろうか。


 先ほどから 何とか会話を繋げようと、気を遣って話し掛ける彼の言葉に、殆ど惰性で返事をしながら そんな事を考えていた。

 可哀そうな女の子、とでも見えたのだろうか。


 それを否定するだけの 材料も、気力もない私だったが、そういえば辰巳君こそ どうしてあんな場所にいたのだろう。

 何やら厳重に梱包された荷物を、大切ように抱えている。


 「それは、何かな」


 話の流れをダイナミックに断ち切って そう質問すると、彼は一瞬だけキョトンとした顔をして、はにかんだ笑みを浮かべて答えた。

「今日、新型カメラの発売日だったんです」


 新型カメラの発売日? 何だそれは。

 いや、そりゃ カメラだって工業製品なんだから、新型も出れば、その発売日だってあるだろう。

 けれど だからと言って、それを仕事帰りに買いに行くか。発売日じゃなきゃ売り切れるような品物じゃないだろうに。


「もう 一箇月ひとつき前からずっと楽しみにしてましてね」

「へ、へぇ」

 この子、オタクだったのか。

 全然 そんな風には見えなかったけれど。


 先程までの 私に気を遣った口調から急変して、実に楽しそうに新型カメラの性能を語り出した辰巳君を、話の半分も理解出来なかったが 新鮮な驚きを持って見つめた。


 ――こんな顔も出来るんだ。


 普段は 周りに合わせ、控え目で愛想笑いしか見た事がなかった彼だが、屈託のない笑顔を 改めて見ると、また印象が違う。

 自分のスマホに移した 写真データを見せる時も、卑屈さなど 全く感じさせない素直な表情をしていた。


「あ、ごめんなさい。俺、勝手に一人で盛り上がっちゃって」


 不意に我に返ったように、辰巳君は スマホを引っ込め、元の消極的な表情に戻ってしまった。


 ――まあね。

 女子に 自分の趣味を延々と語るのはNGだよね。

 ましてや、結構、あからさまに話を聞き流してたのにさ。

 オタクっぽさを全開にするのも減点。

 大体、君。さっき見せて来た写真フォルダの中、風景と動物の写真ばっかりだったよね。


 ポートレートとかを撮ってみる気はないのかな。折角、目の前に絶好の被写体がいるっていうのに。

 女子を口説くなら、そういう所から攻めていく手も覚えなきゃいけないね。


 ――それでも……。


「ううん、面白かったよ。写真、もっと見せて」


 ――それでも この冷えた手が、暖まるまでの間くらいは、その可愛い笑顔に免じて もう少しだけ絆されて差し上げようじゃありませんか。


 こんな気分になるのも きっと、心が冷え切ってしまったからだろう。だから今の内に、この手がまだ冷えている間に頑張りなよ。


 ――ねぇ、無難くん。


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