5-6―引っ越しの準備―

 家に帰ると今日は珍しく珠樹は家に帰っていた。引っ越しに備えて一週間の有給をもらったという。


「今日、学校に転校する旨、担任の先生に伝えてきたよ」

「そう、転校することにしたのね。学校の方へは明日には連絡取って、手続きを済ませるわね」

「うん……。すぐ新しい学校に通うことになるのかな。私、先生にゴールデンウイーク頃までにはなんて言っちゃったよ」

「慌ただしくなっちゃってごめんね」

「いいのよ。それより引っ越しの準備、進めないと。私、自分の部屋の整理はじめるね」

「よろしくね。段ボールは明日には来ることになってるけど。明日、引っ越し屋さんに見積もりしてもらうことになっているの。短期間で大変だから少し高くても『らくらくパック』に頼もうと思っているから時子もあまり無理しないでね」


 時子は珠樹の声を後目に部屋の扉を閉めた。なんとなくうきうきと弾んでいるような母の声が煩わしく思えてきてひとりになりたかった。ひとりになったら、さっき泣いてくれた由実の姿が不意に浮かんだ。新しい学校では由実のような親友はできるだろうか……。そして……。由実は最近気になっていた田坂光司たさかこうじのことを無意識に思い浮かべていた。

「田坂君ともさよならか……」


 恋とも憧れともつかない思いを異性に対して抱いたのははじめてのことで由実はこの思いを誰にも伝えられずにいた。ただ、自分の中の秘密の思いを自分の中で確認してはそっとほくそえんだり、彼の後ろ姿を気がつくと目で追ったり、話す機会があるとどぎまぎしながら話しかけたり、そんな風にはにかむようにくすぐられる感情に時折、揺れていた。相手に思ってもらいたいなんてことは思ったこともなかった。ただ、そこに彼がいれば……そんなごく自然な片思いだった。それでも中学でクラスが離れたかと思ったら、今度は自分の転校が決まり、彼の存在が一週間後には自分の視界から消えるということに衝撃が全くなかったといったら嘘だった。


 そんな複雑な思いを抱えながらも転校を決めたのは、母が正式な再婚というかたちをとらないで男の人と暮らしはじめるということがどこかからばれて、自分の聞こえるところでこそこそと噂話の種になることを恐れたこともあったが、この機会に学校もろとも自分の生活を一新して何もかもをやり直したいような気持ちも一方ではあった。もちろん、やり直すといっても今後の自分自身の未来に特別な変化があるという確証はないのだが、それでも古い友人との別れと入れ替わるように訪れるだろう新しい出会いが自分を変えてくれるのではないかというようなどこか淡い期待を感じていた。それは新しく一緒に暮らしはじめる叔父に対して微かに抱きはじめた期待にも僅かに繋がるような思いでもあった。


 そんなことをぼんやりと考えながら、自分の部屋を改めて見渡したが、特別整理するような物もない。段ボール箱が届いたら、手っ取り早く詰めていけばいいだけだ。母もああ言ってくれているし、今日は少しのんびりしようとばかりに一息ついた途端、時子は昨日からのいろいろなことが一気に押し寄せてきたことによる緊張の糸がぷっつり切れたのか、一瞬、呆然自失のような状態となった。


 考えてみれば昨日、引っ越しのことを伝えられ、来週にはもう転校するということ事態が、今までの静かな生活を破る突風のような現実でもあり、自分は母に合わせることばかりに躍起になってきたが、本当にこれでよかったのかと未来への不安も心中でもくもくと沸き上がると同時に、それらはすぐに焦燥感を伴う空しさへと変わるのだった。


―もう、決めたことなんだから、先に進むしかないんだわ―。


 時子は自分自身に言い聞かせると同時に、心の何処かで宙ぶらりんになっているとりとめもない思いに蓋をした。やがて時子はひとりきりで部屋にいることに耐えきれなくなって自分の部屋の扉を開いた。母が食事の支度をしている後ろ姿はどこか嬉しそうで、時子は母の喜びに浸る思いを認めてあげることが先ずは自分自身が受け入れなければいけない現実であることをひしひしと感じはじめていた。

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