5-4―とりとめのない思い―

「時子ちゃんとお母さんには今、私が暮らしている家に近々引っ越してもらおうと思ってるんだ。お母さんの仕事の都合など見計らってね。時子ちゃんは中学校の学区が変わるから転校するか、それとも通える距離ならそのまま通えるよう、区役所で許可をもらうか検討するといいよ。じゃ、仕事の関係で人と会う約束があるので今日はこれで席を外していいかな。また改めてゆっくり話そう」

笙はそう言うと幾分慌て気味な様子ですまなそうに立ち上がった。


「どうぞ。この子には私からよく話しておくから。今日は会ってもらえただけでもよかったわ。それに一緒に暮らすようになれば、話す機会なんてもっと作れるんだから。お忙しい中、時間を作ってくださってありがとう」

珠樹は笙を気遣うように言った。


「叔父さん、母もそう言っているので気にせず仕事に行ってください」

時子もなんとなく目を伏せ呟くように言った。 


 笙が席をたち、店を出ていく後ろ姿を見送りながら時子は頭の中でさっきまでこの場で話されたことを反芻していた。大人達の考えていることが今は納得できず、疑念に包まれたような不信感ばかりが膨らんでくる―。そんな時子の様子を見兼ねたように珠樹が言った。


「ごめんね。驚かせちゃったわよね。時子が驚くことは承知していたんだけれど一歩、話を進めることが先決だったから……なんて、時子にしたら言い訳にしか聞こえないわね」

ふたりきりで話す時の落ち着いた母の他人行儀でない語りくちに時子は頑なになっていた心の紐を自ずと緩めた。

「私、お母さんとふたりで暮らしていた頃のようにあの人と楽しく暮らす自信ないわ」

時子は率直に言った。

「そう……」

珠樹は時子から目を伏せてうなだれた様子でそのまま口隠った。


時子は続けた。

「それにいったい、なぜお母さんはお父さんの弟とはいえ、突然、一緒に暮らすなんてことを決めたの?亡くなっていたはずのお父さんが本当は生きていて行方不明ってことだってなんだかなにもかもがめちゃめちゃでどう受け止めていいかわからない!」

「時子にはゆっくりわかってもらえればいいわ。すぐに理解してもらおうなんてはじめから思ってないわ。だけど、お母さん、笙君と話すと気持ちが落ち着くのよ。お父さんはいなくなっちゃったでしょ。それから笙君には支えてもらっているの。特に精神的な面で彼はいつも私の心の支えだったの。笙君はついこの前まで奥さんだった真由実さんとは別れることになって、日本に帰国したの。真由実さんは笙君との生活より仕事を選んだのね。そして、この前、正式に離婚したのよ。それで、私と一緒に暮らそうってことになったの。時子も今はわからなくても大人になれば、わかるようになる日が来るかもしれない……」

「そんなこと言われたって今はまだわからないわ。お父さんのことは……お父さんのことはどう説明してくれるの?お父さんは私とお母さんを捨てたってことなの?」

「捨てたとかそういうことではなくて……いろいろと大変だったし……、きっとお父さんなりの事情があったのよ」

「そんな物分かりの良さそうなこと言ってて結局、お母さんはお父さんがいなくて寂しいんでしょ?そして叔父さんと一緒に暮らすことにしたのも寂しいから?お母さんは今迄のままじゃなぜ、だめなの?私とふたりきりの生活じゃだめなの?」

「時子には私のような人生を歩まないでこれからしっかり羽ばたいてもらいたいのよ。そのためにも笙君と一緒に暮らす方が時子のためにもいいと思ったの」

「私のためなんて言われてもわからないし、ふたりで決めたことなんでしょ」


 時子は頑とした口調で言い切ると俯いた。自分とは関係ないところで話が進んでいたかと思うとむかむかするような思いがよぎったのだ。


「うん。だからゆっくりでいいのよ。この話は今はこれくらいにしてここ出よう。今日は少し疲れたし、明日のこともあるから、夕飯はどこかでお弁当でも買おっか」

そう言うと珠樹は立ち上がった。時子も慌てて立ち上がり、母のあとに続くと喫茶店をあとにした。


 二人は場所を変え、デパートの上のレストラン街の蕎麦屋に入った。珠樹はさっきまでの話の続きを切り出したりはしなかった。時子もこれからのことはこれからのこととして割り切っていくしかないのかと内心思いながらも父が生きていたという事実が気になってしかたなかった。でも母の心情を思うとこれ以上自分からそのことについて切り出す勇気はなかった。


―母と私を置いてなぜお父さんはいなくなっちゃったんだろう―。


 とりとめもない疑問がぐるぐると心の中で渦を巻き、都会のネオンの光に同化するように冷たい煌めきを放ちながら脳裏で瞬いている。答えの見えない迷路に迷い込んでしまった焦燥感を僅かに感じながら、それでも父が今ここにいないという現実を噛み締め、結局は今まで通り、父は死んでしまったも同然なんだと時子は自分の心に言い聞かせていた。


「引っ越しの準備、はじめないとね。時子も学校のことどうするか、考えておいて。いずれにしても忙しくなるね。そういえばはじめての引っ越しだね」

メニューの注文を終えると、一息入れるように珠樹が話の続きを切り出した。


―母の様子を見つめながら、母が新しい生活をはじめようという気持ちはもう変えようがないのだと時子は改めて実感した。


「学校のことは考えておくよ。引っ越しも手伝えることは手伝うよ」

「お願いね、これでやっとほっとできる……。これからも仲良くやっていこうね」

珠樹のその一言に時子ははっとさせられた。


―笙叔父さんは今までずっと母の心の拠り所だったのかな?―。


そう思った途端、時子は複雑な気分が過りながらも母が安心できるのなら―という気持ちになった。


―母を捨てたのかもしれない父のことを考えるより今はあの人を信じてみよう―。


「うん、仲良くやっていこう。私、頑張ってみるよ」

時子はぼんやりと遠くを見つめながら笑った。

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