面影
霜月りつ
序
「おや、釣りですか、小田島先生」
長屋の障子戸を開けて出てきた小田島に、向かいのかみさんが声をかける。井戸端で青物を洗っていた他のかみさん連中も笑顔を向けてきた。
「うむ。相も変わらず鮒だろうがな」
「たまには鯉でも釣ってきてくださいよ」
「鯉と言わず、クジラでも」
ケタケタと明るい笑い声に送られて、小田島は長屋を出た。
江戸に出て来て早一年。この長屋の住人たちにもすっかり馴染んだ。生き馬の目を抜くと脅されていたが、一人一人と付き合えばみな気のよい人間ばかり。
国元で起きた凄惨な事件のために傷ついた心も体も癒えてきたと思う。
寺子屋で子供たちに読み書きそろばんを教え、先生と呼ばれてはいるが、三十年近く、武術一辺倒だった自分に生き方を教えてくれた、この長屋の住人たちこそが自分の師だと思っている。
小田島は釣り竿を肩に、籠びくを下げて、ぶらぶらと青空の下を歩いた。
土手は一面緑の草で覆われ、ときおり黄色い花が顔を出している。小名木川は隅田川から別れた支流で、その昔、家康が江戸入り直後に沿海運河として形成させたものだ。目の前を時折大きな荷物を積んだ船がよぎってゆく。そんな風景を観ながら釣り糸を垂れるのが小田島の日課だった。
「こんにちは、小田島さま」
背後からのんびりとした声をかけられ、振り向くより先にその人物に思い当たった。
「やあ、丸屋の……」
小田島は顔をあげてにっこりした。この川でちょくちょく会う、顔なじみの若者だ。
丸屋はそれほど大きくはないが、老舗の薬屋で、深川の住人なら誰でも一度はお世話になっている。
父親の久兵衛はやり手の働き者だが、一人息子の信吉はおっとりとしたのんき者だった。釣りが好きでこの川で一緒に釣っているうちに親しくなった。
きちんとした家の跡取りが、自分のような素浪人とつきあうのもどうかと思ったが、ふわふわとした穏やかな気質の青年を、小田島は気に入っていた。
「つれますかあ?」
「いや、さっぱりだな……信吉どの、少し痩せたのではないか?」
「あ、わかりますか?」
もともと細面だった顔の線がさらに細くなっている。それでも信吉は嬉しそうだった。
「じつはね、あたしが痩せているのには訳がある」
「ほう?」
「これは小田島さまですから話すんですが」
「うむ」
「じつはあたしは今恋わずらい中なんです」
そう言って信吉はうふふ、と笑った。小田島もなんだかくすぐったくなって笑ってしまった。
「ほう、それはよいな。しかしわずらい、ということはまだ叶っておらんのか?」
「そうなんです」
「相手はどこのお嬢さんなのだ」
「……」
信吉はふと笑みを消すと川面に目を向けた。
「小田島さまは人の言うことをバカにされないお方だから話すんですが………」
その言い方に、小田島はいやな予感がした。
まさかこの世間知らずの箱入息子、悪い女にひっかかっているのではないだろうな。
「その人は………どこのどなたかわからないんです」
「ほう、どこか通りすがりにでも見初めたのか?」
「いいえ、通りすがりどころか毎日でも会えるんですが」
「では、名前と住まいを聞けばよかろう、む、ひょっとして恥ずかしいのか?」
「そうじゃないんです」
信吉は小田島の側にしゃがみこんだ。
「絶対、絶対、嘘だって言わないでくださいよ、笑わないでくださいよ」
真剣な目で見つめてくる。いつも眠そうな半眼の目がしっかりと小田島をとらえていた。小田島はうなずいて約束した。
「言わぬ、人の恋路をどうして笑う」
それでも信吉はしばらくもじもじしていた。水面と小田島に何度も目をやる。
「――じつはね、その人は茶碗の中に住んでいるんです」
「う、」
言いかけて小田島は慌てて口を塞いだ。信吉がじっとりとした目で睨んできた。
「今、嘘って言いかけたでしょ」
「い、言わぬ、言わぬ」
「いいんです、どうせ誰にも信じてもらえないんですから」
がっかりと肩を落とす様子に小田島は相手の背中を叩いた。
「なあ、信吉どの」
「はい」
「実は俺は以前あやかしと戦ったことがある」
信吉はびっくりした顔で「うそっ」と言った。そして慌てて口を塞ぐ。小田島は笑った。
「よいのだ、俺も誰にも信じてもらえなかった。大勢の人間が死に、主家が絶えても、な」
「ほんとなんですか……」
信吉は恐る恐る言った。
小田島が国元を離れる原因となった事件だ。あの時のことは、今でも時折夢に見てうなされる。
「うむ、だからどんな荒唐無稽な話でも、この世には絶対ないとは言えないということは知っておる。信吉どの、もしよかったら俺に話を聞かせてはくれまいか?」
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