女子高生の姪がなんか靴下を脱いで置いて帰っていく話 前編



「じゃあ、その……履かせるよ?」


 そう言うと、少女はこくりと頷いて、白くて細い右足を、跪く僕の鼻先に持ってきた。

 僕は改めて少女――静宮しずみや粍夏みりかの足を見た。

 五本の指が行儀よく並んでいた。小指の爪は綺麗な楕円を描いていて、乳白色のその表面は宝石のように艶めいていた。男の視線を浴びるのは初めてだったのか、差し出された右足は、親指と人差し指を擦り合わせてもじもじしていた。


 象牙を思わせる、白く滑らかな足の甲の内側には、薄水色の静脈が透けて見えた。そこからくるぶしにかかる曲線は見事と言うよりほかになく、僕の目は無意識に、その淡く繊細な輪郭を、何度も何度も、繰り返しなぞっていた。

 白いふくらはぎにはうっすらと、先ほどまで履いていた靴下のゴムの跡が残っていた。その上の可愛らしい膝頭を挟んだ向こう側には、常ならば見ただけで犯罪になるだろう高校一年生の少女のふとももの内側が、更にその奥には、水玉模様の綿の下着が露わになっていた。


 僕のベッドの白いシーツと、そこに腰掛けたままの粍夏の足と、その下着……視界は先ほどから、それ以外の情報を、脳に送ってこなかった。


 思わずごくりと唾を飲み込み、僕は、自分の手に持った粍夏の靴下――黒いニーソックスを見た。

 僕のベッドの中に脱ぎ捨てられていて、先ほどやっとの思いで回収したそれは、彼女のお尻に潰されくしゃくしゃになっていて、まだ、ぬくもっていた。


 どうにもふんぎりがつかず、僕は、目の前に差し出された足と、手に持ったニーソックスとを交互に見遣っていたのだが、粍夏が足を引っ込める気配がないのを見て、腹を括って、左手を彼女の足に伸ばした。


 粍夏が息を飲む小さな音が、頭上に聞こえた。

 それに構わず、中指と薬指の先で彼女の足のはらに触れると、少女はまるで感電したかのように、その小さな身体をぴくりと震わせた。目の前に座る彼女の緊張が、指先を介して僕にまで伝わってきた。


 僕は、残る三本の指で彼女の足をそっと包み込み、粍夏――今年で十五歳になる僕の姪だ――の顔を見上げた。

 チョコレート色の瞳が不安げに揺れていた。頬は赤く、母譲りの形の良い桜色の唇から、子犬のように浅く荒い息をいていた。綺麗に生え揃った白い歯が見えていた。


 その時の粍夏の様子を一番適切な言葉で表すならば――正直、表したくはないのだが――きっとそれは、発情、という二文字になるだろう。



 六年ぶりに再会した姪っ子が、性的に倒錯していた。

 性的に倒錯したまま、反抗期に入ってしまった。

 具体的に言うと、毎週のように、僕の部屋のベッドの中に靴下を脱ぎ捨てていくようになった。

 挙句あげく今夜は、僕がそれを拾って履かせるまで、家には帰らないという。

 …………



✳︎✳︎✳︎



「ふぅ……飲みすぎた」


 じきに日付が変わる深夜、鳥羽森とばもり町の住宅街の一角を、僕は自宅に向けて歩いていた。

 赴任先である鳥羽森高校にいての、僕を含めた新入り職員たちの歓迎会は、JR鳥羽森駅の門前に広がる繁華街の一角の、とあるチェーンの居酒屋にて行われた。先輩方はみな暖かく接してくれて、歓迎会は騒がしくも至極円満にお開きとなった。

 その後、指導員である先輩に、お洒落なバーに連れて行って貰った僕は、酔っ払いつつも穏やかな心持ちで家路についていた。

 ……そこまでは良かったのだが。

 

「……あ、あれ?」


 一週間前に越してきた、ワンルームの安アパート、その二階部分にある自室の扉の前で、鞄の中に手を突っ込んだまま、僕は俄かに狼狽えた。


「か、鍵……鍵が、ない? マジで?」


 探れど探れど、鞄の中に自宅の鍵を見つける事は出来なかった。どうやら、職場のロッカーか机の中に忘れてきたものと見えた。一応、自宅のドアノブを回してみたりしたものの、ささやかな抵抗は無駄に終わった。


 アパートの青白い蛍光灯の下で、僕はしばし、途方に暮れた。

 折悪く、スマホの充電は切れていて、管理会社に電話する事もかなわず……二進にっち三進さっちもいかなくなった僕は、しばし悩んだ後に、近所に住む姉に助けを求めるべく、アパートの外階段を降り、静宮家への方へと歩き出した。

 …………



「あらあら……それは御苦労さま」


 夜更けに突如押しかけられたにも関わらず、姉はにこにこしていた。

 携帯を充電し、管理会社を検索して電話を掛け、なんとか一時間後に鍵業者に解錠に来て貰える事となり、事態はひとまず落ちついた。


「うぅ……この度はほんとうにご迷惑を」

「別に良いわよ。このくらい。業者さん来るの、一時間後でしょ? アパートまで車で送って行ってあげるから、ココアでも飲んで行きなさい。酷い顔よ」


 苦笑して姉は立ち上がり、キッチンに向かい、ミルクパンを火にかけ牛乳を温め始めた。


「優くん、アパート契約した時、スペアの鍵は幾つ貰った?」

「三つ」

「なら、一つうちに預けてなさいな。そうすれば、今度似たようなトラブルがあったとき、すぐに対応出来るから」

「……迷惑にならないかな?」

「鍵を預かるくらい、迷惑なんて思わないわよ」

「ありがとう……恩に着るよ」


 姉が湯気の漂う二つのマグカップを持って、リビングに戻ってきた。

 カップを伝うココアの優しい熱に触れると、自分の指先がいつの間にか随分と冷えていた事に気付かされた。


「……今回の事を恩に着てくれるなら、それはいつか、いつでも良いから、私じゃなくて粍夏みりかに返してあげて、ね?」

「……分かった。そうするよ」


 僕は素直にそう言って、暖かいココアの入ったカップのふちに唇を当てた。


✳︎✳︎✳︎


 その二週間後の金曜日、仕事あがりの八時過ぎ……家路につく僕は、荒れていた。


「あー、もう。あー、もう………もうっ!」


 右手に仕事鞄を、左手にコンビニのビニール袋をさげ、苛立ちを呟きながら歩いていた。コンビニの袋がガサガサする事にすら、僕は腹を立てていた。

 アパートの外階段を音を立てながら登り、部屋の鍵を乱暴に開け、どかどかと廊下を歩き、ビニール袋から取り出した弁当を冷蔵庫の上の電子レンジに放り込み、リビングのフローリングに敷かれたクッションにどかりと座り込んだ。背広をベッドにぶん投げた。苛々していた。


「そ、そんなにっ、言わなくたって、いいじゃ、ないか、さぁっ!」


 テレビの電源をつけ、ビールの缶を開け一気に飲み干した。テレビにはさまぁ〜ずの二人が出ていたが、それでも尚、僕の心はいささかも安らぐ事はなかった。

 弁当コーナーに焼きビーフン弁当しか残ってなかったのも苛立たしかったし、アルバイトの大学生っぽい男の態度が悪かったのも気に食わなかったし、「温めますか」と聞かれ何故か咄嗟とっさに「良いです」と答えてしまった自分にも腹が立っていた。最後に、小銭が二円足りなかったばかりに万札を出さねばならなかったのも良くなかった。


 とにかく、その時の僕は、自分自身に苛立っていて、また、疲れ切ってもいた。

 自分の段取りが甘いばかりに、授業の進行は遅遅ちちとしていて、生徒の質問にも上手く答えられず、作成したプリントを配れば間抜けな誤字を指摘され、上司の指示とは違う資料を準備して、挙句の果てに学年主任に叱られて、優秀な同期と比較された。


 缶ビールが空になって、コンビニで買ってきた弁当と焼き鳥が空になって、度数の高いチューハイが三本空になっても、まだ眠気は襲ってこなかった。思考はずっと堂々巡りで、失敗ばかりを思い返して、テレビの内容は一切頭に入ってこないし、酒も弁当も全く美味いと感じなかった。

 

 無理矢理に腰をあげ、シャワーを浴びて歯を磨き、寝巻きに着替えてベッドに倒れこんだ。その反動で、先客の背広がフローリングに落ちたが、それを拾う気にもならなかった。

 自分がこの世で一番情けなく、値打ちのない人間に思えていた。


 僕は電気を消し、目を閉じたが、それでも眠気は一向にやってこなかった。


「……こういう時」暗い部屋で、ベッドにうつ伏せたまま、僕は呟いた。

「こういう時、奥さんとか、彼女とかがいれば、また違ったのかな……まだ救われたのかな」


 そんな益体やくたいもない事を考えながら、随分長い時間をかけて、ようやっと僕は眠りに落ちた。

 …………


✳︎✳︎✳︎


 明晰夢めいせきむ、というものがある。

 睡眠中に見る夢のうち、自分で夢であると自覚しながら見ている夢のことである。

 諸説あろうが、明晰夢を見るためのトレーニングの一つとして、自分が見た夢をノートに書き起こす、というものがある。夢というのは往々にして、起きたそばから忘れてしまうものだから、このトレーニングは枕元に手帳やペンを置き、朝起きてすぐに書き留める事を習慣付ける必要がある。


 学生の頃、ひょんな事からそういう知識を得た僕は、一時期そのトレーニングを実践してみた事があった。その努力の甲斐もあってか、僕は時おり明晰夢を見る事が出来るようになり、例えばそれが悪夢であれば、夢の中で「これは夢だ」と念じる事で、気をしっかり保ったり、場合によっては夢から意識的に覚めるといった芸当が、出来るようになった。


 ふて寝した明くる日、目が覚める前……僕は自身のその能力に、強く強く感謝した。

 というのも、その日見たのが、近年まれにも見ぬ大当たりの夢だったからだ。


「おはよう、ゆうちゃん」


 目(?)を開けて初めに見たものは、他ならぬ姪の粍夏みりかだった。僕のベッドに横たわった彼女は、優しさだけがいっぱいに詰まった笑顔で、僕に向けて笑いかけてきた。


 矛盾点には、すぐに気付いた。

 閉めた筈の窓は空いていて、夜だというのにそこから朝の光が漏れていた。部屋の鍵は確かに掛けていた。だから、それが夢に違いない事は、すぐに分かったのだが――夢の中の自分は、そんな事には一切構わず、粍夏をぎゅっと抱きしめた。


 ひと月ほど前、ひょんな事から僕は、可愛がっていた姪とおままごとに興じることになり……その中で、僕は彼女の赤ちゃんを演じる事となった。今見ているこの夢は、その時の出来事が多分に影響を受けているに違いなかった。


 僕は粍夏の胸元に抱きつき、すうっと息を吸い込んだ。

 以前嗅いだのと同じ、甘い匂いが肺に届くと、それだけで、昨日あれほどに荒れていた己の心のささくれが、瞬く間に癒されていくのを感じた。

 もう、一生、この夢を見たまま、眠りの世界に留まっていたい……そう思っていると、


「あ、あの、ええと……お兄ちゃん・・・・・?」


 ――え?


「朝ご飯作るから、そろそろ……ね?」

「う、うぉあっ!」


 こちらを見て苦笑いを浮かべる粍夏を見て、段々と意識が覚醒して……覚醒しきっても尚、粍夏の姿が目の前から消えない事に疑問を覚え、同時に妙な焦りが生じ……ようやく、これが現実なのだと認めざるをえない局面に達し、僕はベッドから跳ね起きた。


「きゃっ」

「げ、げんげん、現実」

「……夢だと思ってたんだね、お兄ちゃん」


 心臓がバクバクと身体を叩いていた。僕の目の前に確かに居る粍夏は、僕のただならぬ様子に微苦笑を浮かべ、事も無げに、こう言った。


「寝汗、すごいよ。シャワー浴びてきて、ね?」


✳︎✳︎✳︎


 暖かいシャワーを浴びながら、僕は、恥ずかしさのあまり泣いていた。

 夢だと思って姪に甘えた。

 ところがそれが現実だった。

 今なら死ねる、と、そう思った。


 粍夏はどうやら、先日、僕が姉に渡した合鍵を使って、この部屋に入ったようだった。そうして、だらしなく(そして多分、不幸せそうに)寝入る僕の姿を見て、例のママモードが発動したらしい。その結果生まれたのが、先刻の惨状だったという訳だ。


 長い時間を要して、どうにか心を落ち着けて、シャワーを浴び終えリビングに戻ると、既に朝食の準備は終わっていた。


 大学生の頃アウトレットで買った安物のローテーブルの上には、昨夜までは、食べた弁当の空き箱や、ひしゃげたビールの缶が転がっていた筈だが……今、それらの姿はなく、卓上は綺麗に拭き上げられていた。代わりにその上には、作りたての暖かそうなオムレツと、カリカリに焼いたベーコンと、レタスとミニトマトのサラダが載っていた。


 ベランダの掃き出し窓は開け放たれていて、引越しの折に取り付けた白いカーテンが、春先の風を受けはためいていた。その向こうから、洗濯機が回る断続的な音が響いていた。外はよく晴れていた。

 僕は改めて食卓を見て、キッチンに立つ粍夏に問うた。


「粍夏ちゃん……この、野菜とか、卵とかって、実家から持ってきたの?」

「うん」パンをトースターに入れてタイマーのつまみを回しながら、粍夏は言った。

「お母さんがね、『優お兄ちゃんが一人暮らしでロクなもの食べてないだろうから、たまにはちゃんとした料理を食べさせてあげなさい』って」


 過保護な事だと思ったけれど、考えてみれば、僕と姉は一回りも歳が離れている訳で……彼女にとって、僕は弟と言うより、息子か何かに近い感覚なのかもしれなかった。


 改めて、僕は廊下の狭いキッチンに立つ姪を見た。

 その日の粍夏は、肩下まで伸びる艶やかな黒髪を二つ結びにまとめて、茶色のリボンで留めていた。さっき寝ぼけた僕が抱きついていた、清潔感のある白いブラウスの上から、臙脂色えんじいろのエプロンを羽織っていた。

 膝上丈のスカートから、無駄な肉ひとつ付いてないすらりとした脚が伸びていて、その脚を、小さなリボンがあしらわれた黒いニーソックスが包んでいた。


 独身男の家に上がるには、絶対にふさわしくない服装だと、僕は思った。


 ベッド脇には、見慣れぬ手提げが置いてあった。

 泊まりにでも来たのかというほどに大きなその中には、家から持ってきたのだろう食材だとか、ちょっとした調理器具だとか、紅茶の缶が見て取れた。

 その端に、何かチラリと、良く見慣れた薄水色の何か・・があるのを見付け、嫌な予感を覚えた僕は、粍夏に気付かれぬよう、手提げの口をそっと見てみた。


 薄水色の正体はすぐに分かった。それは粍夏が幼い頃使っていた、今は『おままごと』と称して僕に付けさせられている、彼女のお下がりのよだれ掛けだった。背筋がぞくりと粟立った。


 ――なんてこった。

 ――この子、今日、どっちにしたってママになる気だったんだ。


「――お兄ちゃん」

「ふわぁっ!」

「きゃっ! ……ど、どうしたの? いきなり」

「い、いや、なんでも……そっちこそ何かな? 粍夏ちゃん」

「飲み物だけど、紅茶とコーヒー、どっちがいい?」


 僕はしどろもどろになりながら、紅茶を頼んだ。僕はコーヒー党だったが、昨夜の一件で胃がムカムカしていて、飲む気になれなかったのだった。



 程なくして、僕は粍夏と朝食をとった。

 ベーコンも卵もパンも本当に美味だった。

 こんなにちゃんとした食事を取るのは、随分久しぶりのように思った。


「粍夏ちゃん、今日はすごくおめかししてるけど、これからどこか遊びにでも行くの?」


 残り一口になってしまったオムレツを匙で掬いながら、僕は言った。

 それを聞いた粍夏は、わずかに不安そうな顔でこちらを見た。


「ううん、そういう予定は、なかったけど……お兄ちゃん、もしかして、今日こうやって、わたしがここに来るの、迷惑だった、かな?」

「まさか!」


 僕はそう言った。

 無断で部屋に入られた件については思うところあったが、抱きついてしまった負い目もあって不問にした。


「むしろ僕が迷惑掛けたなって……きょう、姉さんに無理やり頼まれて、こっちに来てるんでしょ?」


 それを聞くと粍夏は心底安心したように笑い、皿に残った最後のひと欠けのパンを食べ終え、こう言った。


「そんなこと、あるわけないよ」


 粍夏は慣れた手つきで食後の皿を重ねると、慈愛すら感じられる優しい瞳で僕を見た。

 瞳の奥に、不可思議な熱が宿っていた。


「お母さんに頼まれたのは本当だけど、別に嫌とかじゃなくて、その……」

 

 それ以上、何も言わず、粍夏は立ち上がり、ベッド脇に歩き出した。

 そして、そこに置かれた手提げから、僕が先ほど盗み見た、くだんのよだれ掛けを取り出した。


ゆうちゃん・・・・・と、一緒におやすみ、過ごせるかなって」

「…………」


 僕の思考はそこでおおむね停止した。

 粍夏はよだれ掛けを持ったまま僕の元にやってきて、跪き、僕の首に両腕を回して、首の後ろで、紐を結んだ。

 そこで僕は、赤ちゃんになった。

 すべての手順があらかじめ決められているかのようだった。粍夏の手はよどみなく動き、無駄な挙措は欠片もなかった。

 僕には、それを止める隙も、反論の余地も、逃げ出す機会も、なにひとつ、与えられなかった。


「……ベッドに、いこっか」


 この狭いワンルームには二人しか居ないのに、何故か粍夏は僕の耳元ギリギリにまで口を近づけ、それでも聞き取れるかどうか分からぬほどの小さな声で、そう囁いた。僕はただ、頷くほかにしようがなかった。

 粍夏は立ち上がり、優しい笑顔で僕を見下ろし、小さな両手を差し出してきた。


「おいで❤︎ ゆうちゃん」


 なす術もなくその手を握り、掴まり立ちのような格好になり、手を引かれるままベッドに行って横たわり、そこで粍夏に抱きしめられた。

 されるがまま、彼女の胸の匂いを嗅いでいると、段々意識がぼぅっとしてきて、次第に眠気がやってきた。自分が寝不足であった事を、今更ながらに思い出した。


「ふふ、おねむかな? ゆうちゃん」僕を撫でながら、粍夏は言った。

「うん……」

「ごはん食べて、お腹いっぱいだもんねぇ」


 くすくすと笑うと、粍夏は、僕に回した手の指先で、背中を優しく叩きながら、その舌ったらずな淡い声で、子守り歌を歌ってくれた。



 悪魔のような女の子だと、僕は思った。

 気づいた今は、もう、遅いのだ。


 自分を構成する遺伝子が、いつの間にか、彼女の手により書き換えられている。

 僕の脳は、粍夏のこの匂いを、ママの匂いと認識している。



 肺の中全ての空気が、彼女の甘い体臭に入れ替わった頃、薄れゆく意識の中、僕はこんな事を考えていた。

 幾ら出せば、調香師ちょうこうしを雇う事が出来るだろうか、と。

 調香師に依頼して、粍夏の匂いを抽出し、その成分で香水を作って貰うのだ。それを枕にでも振り掛ければ、僕の安眠は一生に渡り確保されるのではなかろうか。

 そんな、素面しらふになって考えれば実に気持ちの悪い計画を、割と真剣に考えていた。

 …………


 いつの間にか僕は、深い眠りについていた。

 嫌な夢は、何も見なかった。


✳︎✳︎✳︎


 随分と長い間寝ていたように思った。

 ゆっくりと目を開け枕元の時計を見ると、時刻は丁度、正午を回ろうかという頃だった。

 洗濯機はいつの間にか大人しくなっていて、ベランダの物干しには僕の肌着やワイシャツが掛けられ、緩やかな春風にたなびいていた。

 僕はベッドから起き上がり、スリッパを履いてベランダに出て、空に大きく伸びをした。


「……良く寝たぁ」


 ここ数週間で久々の、清々しい寝起きだった。


「ほんとに、疲れてたんだね、お兄ちゃん」


 そう呼ばれ、僕は後ろを振り返った。

 粍夏みりかは台所の古いガスコンロの前に立ち、木箆きべらで雪平鍋をかき混ぜていた。火に掛けられた鍋からは、玉葱とバターの良い香りが漂ってきていた。奥の作業台の上には、先ほどまでは無かった筈の、近所のスーパーのビニール袋が置かれていた。どうやら彼女は、僕が本格的に寝てしまったのを見て、買い物に出たものと見えた。


「ごはん、もうちょっと、待っててね」粍夏は言った。

「…………」

「どうしたの? お兄ちゃん」

「ああ、ごめん。なんか……不思議だなって」

「ふしぎ? ……ふふ、まだ、寝惚けてるのかな?」


 にこりと笑って昼食の支度に戻る姪を、ベランダに立ったまま、ぼんやりと見つめた。

 記憶の中の静宮粍夏は、まだ六歳とか七歳とかで、母親の後をちょこちょこと付いて歩いたり、僕に本の読み聞かせやおままごとをねだってきたり、足し算の宿題を嫌がったり……そういう、可愛らしい幼子だった。

 ならば今、この狭いワンルームアパートのキッチンに立ち、食事の準備をしている美しい少女は、一体どこの誰なのだろうか……

 料理の工程が全て終わって、再び彼女に呼ばれるまで、僕はベランダに立ちつくし、そんな事を考えていた。



 午前中ずっと寝ていたせいか、腹もあまり減っておらず、量は少なめで良いと伝えたものの、実際のところ、粍夏が昼食に作ったピラフはお世辞抜きに美味しかったので、結局僕は、お代わりまでしてしまった。


「ふぅ……ご馳走様。久しぶりに、こんな美味しい料理食べたよ」

「そうなの? 意外。お兄ちゃん、料理、結構得意だったよね?」

「そうなんだけど……仕事終わってから自分だけのご飯を作るって、正直かなり億劫で。最近はコンビニの弁当ばっかりになっちゃってるなあ」


 二人で皿の片付けを終えて、粍夏の淹れたミルクたっぷりのカフェオレを飲んでいると、自分の心が目に見えぬ幸福に満たされていくのを感じた。

 午後の時間、僕は粍夏と他愛ないおしゃべりに興じた。


 彼女はもしかしたら、僕にどこか遊びに連れて行って貰う事を算段してこのアパートを訪れたのかもしれなかったが、当の僕が疲れていたのを見てか、そうした要望は何も言いだして来なかった。

 僕も僕で、この、性的に倒錯している以外は非の打ち所がない、愛らしい姪を連れ歩いて、鳥羽森町の全住民に見せびらかしてやりたいとさえ思ったが、高校の教師が土曜の昼日中ひるひなかに教え子の女子高生と一緒に地元の街を歩くなど、あまりに危険なので自重した。


「粍夏ちゃん、もう、部活は決まった?」

「うーん……まだ悩み中」


 それが難しい問題なのだと言わんばかりに、粍夏は人差し指を顎にあて、むぅと唸った。


「美術部は? ちっちゃい頃は、良く絵を描いてたよね。今はもう描かないの?」

「今でも絵は描くんだけど、うちの美術部、人間関係が色々大変そうで……」

「ああ……それは、場合によっては三年間付きまとう問題だからねぇ」


 粍夏はマグカップに口をつけ、言葉を続けた。


「それに、実は、クラスの子から、別の部活に誘われててね」

「へえ。早速友達が出来たんだ。良いじゃん。なんの部活?」

「軽音部」

「」

「ボーカルを、やってくれないかって」

「駄目だ」

「……みんな凄く、演奏上手くてね、それにね?」

「駄目だ」

「そう……お兄ちゃんがそう言うなら」


 静かに、午後は過ぎていった。

 それから僕たちが交わした話題と言えば、今度彼女が所属する事となった図書委員会の事、最近ちょっと仲良くなった、隣の席の女の子の話、購買横の自販機のリプトンの紅茶が美味しい事、最近読んだお勧めの小説、この間画材店で買ったというコットマンの画用紙の描き味の良さ……きっと、他の人にとっては何でもない、ありふれたものだけだった。


 強い風が吹けば飛んでしまいそうな声で、粍夏は訥々とつとつと、自分のことを話してくれた。その様子は、僕が知る彼女の幼い頃の喋り方とそっくりで、ようやく僕は、目の前のこの十五歳の少女が、かつて一緒に暮らしていた、六歳の姪と地続きの存在なのだという事を理解出来たのだった。


✳︎✳︎✳︎


 結局僕は、粍夏に夕食までをご馳走になった。

 食費を払おうとしたものの、聞けば食材の代金は全て姉が出しており、仮に僕が払おうとしても決して受け取るなと厳命されているとの事だった。僕は嘆息して、有り難く姉と姪の言葉に甘える事にした。


「じゃあ、今日は本当にありがとうね、粍夏ちゃん」

「うん。また、ね……お兄ちゃん」


 夜八時、僕はアパートから十分ほど歩いた先にある静宮家に粍夏を送り届け、彼女に見送られながら、自宅に帰った。

 一日中、粍夏と一緒にいた所為か、見慣れたはずのアパートの自室は、酷く無機的な、余所余所しい場所に感じられた。


「ふう……大変だったけど……なんだかんだ、楽しかったな」


 それから、僕はシャワーを浴びて、教材用の指導書を読み、来週の授業の準備をして、缶ビールを飲みながらテレビを見て、歯を磨き、零時前に灯りを消して、ベッドに入るべく布団をめくって、


「ん……? ひぃっ!」


 変な悲鳴をあげた。



 布団をめくった自分のベッドのシーツの上に、自分のではない靴下が脱ぎ捨てられていた。

 黒いニーソックスだった。ふとももに当たる位置に小さなリボンがあしらわれた、女の子用の可愛らしいやつだった。

 それは、今日一日、粍夏が履いていたものと全く同じ色と柄のものだった。

 普段から履きこまれていたものらしく、生地の表面には小さな毛玉が浮いていた。


 僕は、一度、誰もいない部屋の左右をよく確認してから、そのニーソックスを手に取った。

 靴下には確かな使用感が漂っていて、洗濯したてではなさそうだった。

 何がどうなればこういう状況になるのか僕にはさっぱりわからなかったが、その靴下の持ち主が、先ほどまでこの部屋で静かに笑っていた姪である事は、はっきりと分かった。

 僕は原因を探るべく、今日というこの一日と、この部屋での粍夏の動きがどうだったかを思い返したが、何度検討しても、結論は一つしか出なかった。


「……つまりあの子は、朝、僕が寝落ちた後に、この靴下をベッドの中に脱ぎ捨てて、全く同じ色と柄の、別の靴下を履いて、午後の時間をこの部屋で過ごして、そして帰った、のか」 


 そう結論が出たものの、僕はその答えに一切の確信を持てないでいた。

 彼女がそうする必然性というか、合理性というか……ともかくそういった類の言葉で現されるべき何かが、このニーソックスからは一切感じられなかったからだ。

 世界最高の演算力を誇るコンピュータに、定跡外の一手を打たれた棋士というものは、あるいはこういう気持ちなのではないか……と、僕は思った。


「……問題は、この靴下をどうするか、だ」


 僕はごくりと唾を飲み込み、手の中にある姪のニーソックスを見た。

 少し皺のついたその靴下には、まだ、ほのかな温もりがあるように感じられた。

 何故だかは分からなかったが、その靴下は僕の脳裏に『産まれたての卵』を連想させた。

 …………


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