Fight for your soul

Fight For Your Soul



戦え、お前の魂のために。


 アンタレスは、静かにその少女を見ていた。彼が今まで関わってきた相手の中で、自らがもっとも哀れに思う少女――――ミナツキを。


「母のぬくもりももはや忘れ、ファースト・ワンとして、兵器として狙われ、そしてこの私に、神として生まれ変わらせられる少女……」


 非道である、と彼は自らを思う。だが、道を外れねば、たどり着けぬ場所もある。歩むべき道を外れ、茨の中を進まねば、手に入れられぬものもある。


 ――――人は、そうでもせぬ限り、争うことを止められぬ。


 それが、彼の答えであった。そのために――――自分が茨の中を行くことを決めた。罪悪感に切り刻まれようとも、それで救われるものもいるはずなのだ。そして、そのためには……自分以外にも、犠牲が必要だった。


「すまぬ、とは言わん……それで許されるほど、私の罪は軽くなかろう。いっそ……お前が紙になれたなら、まずは私を……」


 しかし、その先の言葉を、彼は飲み込んだ。なぜなら……それすらも、自分がこの少女に強いる犠牲の前では軽すぎる罰に思えたからだ。ならば、いつまでも許されぬことこそが、唯一の贖罪なのかもしれなかった。


「アンタレス様!」


 感情の海を漂う彼の意識を、側近の声が現実へ呼び戻す。


「第一管理ビルがかの少女に突破されました。少女はこのビル内に侵入、このラボを目指しているとのことです!」


「……そうか」


 うっそりと言う彼の頬には、知らずのうちに笑みが浮かんでいた。嘲りや傲慢のそれではない、どこか、それを待っていたかのような、笑みが。


「この中央管理ビルから、全ヴィクティム兵を撤退させろ」


「はっ……? 今、なんと!?」


 どこかうれしそうにすら見える笑みを貼り付けたまま言うアンタレスに、側近の兵が思わず聞き返す。


「すべての兵士を撤退させよ、と命じたのだ。かの少女とは、私自ら決着をつけたい」


 彼の胸に去来するのは、奇妙な感覚だった。かつてあの研究所で、怯えて震えるだけだった少女が、今、自分に牙を剥いている。それも復讐のためではなく、赤の他人にも等しい、幼子を助けるために。


 なにが少女を駆り立てるのか、何が少女をそこまで変えたのか。この地獄にも等しい世界で、なんの見返りもなく自分らに楯突くのには、どういった思いがあるのか。


 それが、知りたかった。


 思考にふけっていたアンタレスの視界に、呆然としたままの側近の姿が目に入る。


「私の命が、聞こえなかったか?」


「いえ、しかし、それではあまりにも……」


 アンタレスの声に我に返ったらしい側近が、どもりながらも異論を唱える。危険だ、と言いたいのだろう。そんなことは、無論、百も承知だ。


「あの少女の戦いぶりを、先ほどモニターで確認したろう。いくら兵を差し向けようと、無駄な死者が出るだけだ」


「し……しかし……」


 なおも食い下がろうとする側近に、笑っていたアンタレスの目がぎょろりと動いた。


「それとも……ここでひとつ、余計な死者が出なければわからないかね?」


 その視線による殺気に、言葉の意味を理解した側近が、あわてて敬礼しながら立ち上がると、ラボの外へと駆け出していった。


「撤収! 撤収せよー!」


 それを見、再びアンタレスは笑む。


「これでいい。これで、邪魔は入らぬ」


 彼が静かに見上げた窓の外は、いつしか夜の闇に覆われ、薄い雲の向こうでは、朧に霞む満月が、舞台の幕が上がるのを待つ役者のように、静かにそこに佇んでいた。




 エレベーターによる奇襲を警戒し、階段で中央管理ビルを駆け上がっていたセトミは、突然の警報に思わず身構えた。


「敵!?」


 だが、その予想と反して、スピーカーからヴィクティム兵のものと思しき叫びが木霊する。


「全兵士に告ぐ! 全兵士に告ぐ! 中央管理ビルを放棄、即時撤退せよ! 繰り返す! 全兵、即時撤退……」


「……うそ、冗談でしょ? やつら、ここを捨てて逃げるっての?」


 思わず階段の窓から外をうかがうと、しかし確かにこのビルから離れていく兵たちの姿が見えた。


「……どういうこと?」


「なにかの罠かもしれません。警戒したほうがいいかと」


 エマが不審げに眉根を寄せた次の瞬間、再びスピーカーから声が響いた。先ほどの兵士の声とは違う……もっと重々しく、力強く、あるいは……ほんのわずかに、愁いを帯びた声。アンタレスだ。


「さて……これで、この場所は私と諸君らだけになった。警戒することはない。私は、君に用がある。聞きたいこともあれば、決着もつけねばならぬ。エレベーターを使って、最上階まで来るがいい。そこの、私のラボで待っている」


 それだけ言うと、その放送は途切れた。


「……バカな、そのようなことを信じろなどと……」


「いや……いいんじゃない?」


 苦虫を噛み潰したような表情のエマに、あっけらかんとセトミが言う。

「セトミさん!?」


「どうせここまで来たら最後なんだし、罠だろうがなんだろうが、行ってやろうじゃない」


 そう言ってここまでとは打って変わってゆっくりと階段を上って行くセトミに、エマが嘆息しながらも笑う。


「わかりました。行きましょう」


 次の階へと階段を上りきると、それを待っていたかのように、正面のエレベーターが開いた。無言でそれに乗り込むと、エレベーターは自動的に最上階へ向かって上りだす。


 しばしの沈黙が、エレベーター内に下りた。それは、まるで、最後の戦いの前の、最後の休息のように。


「……セトミさん」


 ぽつりと、エマがつぶやくように言う。その声は、普段の彼女よりもほんの少し、低く感じた。


「ん?」


「ミナのこと……よろしくお願いしますね」


 妙に神妙なエマの声に、セトミは屈託なく笑って見せる。


「なーによ、今さら。ミナのことは、私がなんとかするから大丈夫」


 その言葉に、エマは少し表情を曇らせ、同時に少し微笑んだ。


「いえ……こうお願いできるのも、最後の機会かもしれませんから」


 その表情とその言葉に……セトミが返す言葉を模索している間に、無常にもエレベーターは最上階へとたどり着いていた。

 そこは、ラボというにはあまりにクラシックな装いの部屋だった。部屋の大部分は書棚に覆われ、そのどれもにびっしりと書物が詰め込まれている。明り取りの窓やわずかな調度品のほかには、物と言えるものはほとんどない。


 灯りは天窓から差し込むのみの、そのある種、幻想的にも見える薄暗い空間で、一際異彩を放っているものがあった。シャドウのエマの本体よりも大きなモニターに、本当に一人で操作できるのかすら怪しい、キーボードやスイッチ。恐らくそれが、アンタレスがミナに神のシステムをダウンロードしようとしている、スーパーコンピューター。


 その脇――――巨大な、透明なカプセルのようなものの中に、ミナの姿があった。何本ものコードにつながれたその姿は、さながらそこから産まれてくるさだめの胎児のようだった。


「……ミナ!」


 思わず呼びかけるセトミに、重々しい声で答えるものがあった。


「無駄だ。聞こえはせんよ。彼女は今、眠っているのだ」


 地獄の炎のごとく赤い、地獄の鬼のごとく巨大な、その身体。それに不釣合いなほど、どこか愁いを帯びた瞳を持つヴィクティム――――アンタレス。


「――――ミナを、返してもらうわ」


「……なぜだ?」


 アンセムとカタナを構え、一歩詰め寄るセトミに、アンタレスが問う。


「正義のためか? それとも、人間のためか? 何のためにお前はこの少女を救い出そうとする? 人間は神によって統治されるべきなのだ。さもなくば、争いを繰り返すのみ。ならば神によって人を導くのが、大義ではないのか?」


 様々な問いを繰り返すアンタレス。だがその瞳は、セトミではなく、自身の手のひらに向けられていた。それはまるで、幾度となく繰り返してきた自問を、反芻するかのように。


「かもね。もしそれで本当に争いがなくなるのなら、それを邪魔する私は世紀の大悪党ってわけだ」


 しかしセトミは、アンタレスの瞳をまっすぐに見つめる。


「でもね。私、猫だから。人間の正義も悪も知ったこっちゃない。気に入った相手にはしっぽ立てて擦り寄るし、気に入らないやつは引っ掻いてやるの」


 その物言いに、思わずアンタレスが珍しいものでも見るようにセトミを見返す。その視線をまっすぐに受け、セトミはにやりと笑った。


「ミナのことは気に入ったし、小さな女の子を犠牲にして世界を統治するなんてやり方を選ぶあんたは気に入らない。ただ、それだけのこと。誰が正義で誰が悪だったかなんてのはどうでもいい。後でこの件を知った人が、それぞれの考えで決めればいいことよ」


 皮肉めいた、かつ刹那的なその言葉に、アンタレスの表情に笑みが浮かぶ。嘲りや傲慢でなく、ただ、単純に――――おもしろい、と彼は考えていた。己が長き年月を生き、その間ずっとつきまとってきた自問――――どのような手段で、どのように争いを無くすのか。どのように行うことが善なのかという問いの答えを、この少女はあっさりと、投げ出すように答えて見せたのだ。


 いや、実際、なにが正義でなにが悪か――――そんなものはそれぞれのものなのだ。それがもっとも、正解に近いのかも知れぬ。


「おもしろい――――ならば私は、私が正しいと思うことを成そう。そしてお前は、お前がやりたいようにやるがいい」


 アンタレスが、ゆっくりとその両の拳を構える。


「……いいね、わかりやすくていいよ。小難しい論説をし合うより、よっぽどわかりやすい」


 その動作に呼応して、セトミもゆっくりと右手にカタナを、左手にアンセムを持ち、構えなおした。


 セトミがトリガーを引くのと同時に、アンタレスが両の拳を打ちつける。アンセムから青い閃光が尾を引いて彗星のごとく跳び、アンタレスの拳から紅い稲妻が牙を剥く蛇のごとく駆ける。


 稲妻の襲来をセトミが横っ飛びでかわすのと時を同じくして、アンタレスはその拳にはめたナックルでアンセムの閃光をなぎ払う。


 が、両者ともその表情に悔恨はない。まるで今のは挨拶代わりとでも言うように、その動作はすでに第二激を放つための体勢に入っている。


 受身を取って膝立の体勢で起き上がったセトミは、今度は続けざまに三発の閃光を発射する。だがそれを迎え撃つアンタレスは先ほどよりも強力な勢いで両の拳を床にたたきつけた。


 その拳より発射されるのは、先ほどよりも強大な稲妻。先ほどのものが蛇ならば、今度のそれはその数倍の威圧感を誇る、龍であると言えた。それはアンセムの閃光を飲み込もうとするかのように激突する。その威力は拮抗していたか、両者は互いに相手を貫くことなく、霧散した。


「……ふふふ、まさか、あの研究所では姉の影に隠れて泣いていた少女が、ここまで成長していたとは思わなかったぞ。クレイトが『最高傑作』と自負するのも理解できる」


「やっぱり、あの研究所も、この計画の一環だったわけ?」


 アンタレスの言葉に、セトミの視線が知らず知らずのうちに鋭くなる。姉を殺し、自分をハーフにし、家族の下には二度と帰れぬ身体とした、あの研究所。


 クレイトと対峙した時のように、力が暴走することはないものの、冷たい風に吹かれるように心がざわつくのは変わらない。


「そうだ。始め、この計画はすべての人類をヴィクティム化させることを目的としてスタートしたのだ。種族間の争いをなくせば、争いはなくなるとはいかずとも、減ることは間違いない」


 重々しく言うアンタレスにセトミは冷たい視線を向ける。


「そのために――――多くの人たちをヴィクティムにしたり、適合しなかった者は殺したりしたっていうの?」


「――――そうだ。クク、お前の実験成果は研究所の崩壊後も、実に役立ってくれたぞ?」


 ぎりっ、という歯軋りの音とともに、セトミが駆けた。稲妻を回避したときよりも数段速く、その姿はアンタレスの眼前に迫る。その勢いのほとばしるまま、上段からカタナを大きく振り下ろした。


 が、速いながらもまっすぐなその一撃は、アンタレスのナックルにその軌跡を阻まれる。


「あんたのその行動の一つ一つが争いの種になってるって、わかんないわけ? それともなに? 一部の人間が死んだり泣いたりしてる裏で、人類全体から争いがなくなればあんたもご満悦でハッピーエンド? ずいぶん腐った平和がお好みなのね」


 下から射抜くような視線で見上げるセトミの視線に、しかしアンタレスは時折見せていた、愁いを帯びた瞳を向けた。そこに浮かんだ、あまりにも深い悲しみの色に、セトミがハッと息を飲む。


「……私には、幸せなど来ぬよ」


 その意外な表情と言葉に、セトミは気勢を削がれたように、思わず距離を取る。


「いや、来てはならぬ。幸せなど求めるには、あまりに多くを犠牲にしてきた……」


 それは、悔恨か。それとも、後悔か。あるいは、罪の意識であったか。だが、一瞬見せたその表情も、再びセトミをにらむ戦いの表情へと戻る。


「しかし……それゆえに、この計画は完遂しなければならぬのだッ! 犠牲にしてきたものが多く、大きいならば、なおのこと、その犠牲を無駄にはできぬッ!」


 叫び、己を奮い立たせるかのようにして、アンタレスが再び拳を構える。力をためるように腰を落とし、その稲妻を両の拳に纏っていく。


「……馬鹿だよ、あんた」


 しかし、その姿をにらむセトミの瞳は鋭さを失わない。だがそこには、ほんの一抹――――悲しみによく似た光があった。それは――――哀れみだったろうか。


「犠牲になったものを、犠牲の上塗りでごまかしたって、犠牲になったものも――――犠牲にすることを選んだ自分も、救われたりするもんか」


 カタナを構えながら言うその静かな言葉が、果たしてアンタレスに届いていただろうか。もはやその身自体に稲妻をまとい、まさに雷神のごとき様相になった彼に。


「消え去れ――――!!」


 その雷神と化したアンタレスから、すさまじい電撃の放電が始まった。さすがにそれを予想していなかったセトミのすぐ横を、電撃が走り抜けていった。


「くっ!?」


 すんでのところで直撃は免れたが、それた電撃は壁を破壊し、屋根を貫く。


「……あんなのが当たったら……!」


 その言葉を言い切る間もなく、電撃が再び走る。今度は狙いは正確だ。横に飛び込むようにしてかわすものの、今度は背後にあった書棚が、その衝撃に一瞬にして霧散した。


 すさまじい爆風に煽られ、セトミは倒れた姿勢のまま、床を転がる。その姿を、赤き雷神の瞳が、ぎろり、と捉えた。


「そこかァ――――!!」


 未だ尻餅をついた体勢のセトミに、今まで以上の、巨大な雷の龍が牙を剥いた。


 この体勢では、かわしきれない。セトミがそう悟ったとき、それが眼前に迫った。その刹那――――。

 奇妙な浮遊感とともに、視界が反転した。予想していたような痛みはなく、ただ、まるで落下しているかのようなふわふわとした身体の感覚だけが、セトミを覆っていた。


 その感覚に、セトミはかすかな郷愁を覚える。記憶の奥底、水底に溜まったわずかな濁りのような、その記憶。


 それは、誰かに抱きかかえられている感覚だった。


 気がつけば、崩落した屋根や壁の残骸に身を寄せ、アンタレスの視界から姿を隠していた。彼にも、どうやら今起こったことは把握し切れていないようだ。そして、目の前にいた人物、それは――――。


「あんた……やっぱり……」


「危なかったな。一歩遅れれば、ともに黒コゲになっていたところだ」


 ひどく静かで暗い瞳。全身をまるで闇で染めたかのように、黒で統一した女性。ミザリィだった。


「ミザリィ……もう一人の侵入者ってのは、やっぱりあんただったのね。ロウガの敵討ちってわけ?」


 セトミは油断なく、ミザリィを見る。助けてくれたことから、今すぐに敵対することはないと思われるが、油断はできない。彼女とて、ミナを狙っていた人間の一人なのだ。


「……それもある。だが、その前にやらねばならないことがある。そして……私は、ミザリィでは、ない」


 伏し目がちに、かつてミザリィと名乗った女性はつぶやく。その様はこれまで見てきた冷徹なイメージの彼女とはかけ離れた、どこか儚げな、今にも消え入りそうな水泡のようにも見えた。


「……は? いったい、何を言って……」


 相手の意図がまったくつかめず困惑するセトミの言葉を、ミザリィは鋭い視線で断つ。


「……お前の本当の名を言えば、わかるだろう。私が、何者で、何をしに来たか。私の復讐は……なんのためのものだったか」


 その言葉の一つ一つが、奇妙な不安感へと変わり、汚泥が満ちるかのごとく、セトミの胸を埋め尽くしていく。それは言葉にも、それどころか表情に表すことすらできず、ただ、静かに彼女の中でむくむくと膨らんでいく。


「……私の、本当の名前……」


「ああ……アルセイシア、と……」


 刹那、精神に鉄槌を振り下ろされたかのような衝撃が走った。アルセイシア――――それは、セトミであって、セトミでないもの。過去の自分――――両親によってつけられた、捨て去ったはずの、本当の名前。


それを知っているのは、生死すら定かでない両親と、死んだはずの――――。


「シリィ……おねえちゃん……?」


 漏らすようにやっとつぶやいたセトミの言葉に、ミザリィ……いや、シリィの表情が、これまで見せたことのない、優しい微笑みに変わった。それはまるで、セトミの言葉を言外に肯定しているかのように思えた。


 そして、その微笑みは、紛れもなく姉のものであることが、セトミにはわかった。


「うそ……だって、姿が全然違う。髪も、瞳の色も、顔も、身長も。でも……なんで……?」


 姉しか知らないはずのことを知りながら、姉とまったく違う容姿の女性。その事実に困惑するセトミに、シリィが静かに語る。


「いい、よく聞いて……私はあの研究所で、死んではいなかった。ある手術を施されて、生き延びていた。相変わらず実験材料にされながらね」

 困惑に表情を固めるセトミを前に、シリィは意を決するように顔を上げ、その瞳を見た。


「やつらが私にした手術――――それは、脳の移植」


 その顔が、再び下を向く。きつく噛みしめた唇が、かすかに震えているのを、セトミは見た。


「私は、あなたも知るあの力……アサシンキャットとしての能力を、あの研究所で得た。だが、それだけでは私は不完全だった。能力を使えば身体がついていかず、暴走、最悪クリーチャー化してしまう、不完全なハーフ……」


「それじゃ……まさか……」


「そう、そのまさかよ。やつらは能力を持つ私の脳を、この身体――――その肉体の有用性故に保存されていた、ロウガの妹の身体に移植した。あなたが見た私の身体は、抜け殻になった私よ」


 淡々と語るシリィではあったが、その拳は固く握りしめられ、ぶるぶると震えている。


「こうして……私は、すべてをやつらに奪われた。帰るべき家も、家族も、そして……自分自身でいることさえも」


 その事実に、セトミは言葉を発することができなかった。姉が生きていたことだけでも十分すぎるほど驚くべきことなのに、彼女もまた、自分と同じように暗い暗い、闇の中を生きてきたのだ。


「そして私は、妹と同じ姿をした人物として私を追ってきたロウガに、救出された。始めは……彼は私を妹だと思い込んでいたわ。無理もないけれどね。姿も、声も、本人のものなのだから。私は、ことの顛末を彼に説明した。そして共に、やつらに復讐を誓った。彼は妹の仇を討つため。私は、私からすべてを奪ったものを、殺すため……」


「そんな……ならどうして、今まで黙ってたの!? どうして、言ってくれなかったの!? 『私がおねえちゃんだよ』って!」


 思わず慟哭に任せて言うセトミに、シリィはただ、悲しげに笑った。

「……ごめんなさい。でもね、私はもう、別の人間のようになってしまった……それよりなにより、私の手は復讐のために血まみれで、私の心は憎しみで真っ黒なの。……もう、私はあなたの姉ではない。あなたの姉には戻れない。だから……あなたの思い出の中の私を、私自身が殺してしまうことが、怖かった」


「そんな……そんなの、勝手すぎる!」


 潤んだ瞳で吼えるセトミに、シリィが変わらず微笑む。


「……そうね」


 そしてゆっくりと、シリィは立ち上がり、死角から飛び出す。その手には、ロウガの遺した、あの斬馬刀が握られていた。


「っ、お姉ちゃん、なにを!?」


「私が道を切り開く! お前は、お前の役割を全うしろ! ……任せたぞ、セトミ=フリーダム!」


 自分はもう姉には戻れない――――それを言外に示すかのように、叫びを上げながらシリィはアンタレスに突撃する。


「今度こそ――――! 貴様に、報いを受けさせるッ!」


 それに気づいたアンタレスが拳を構え、迎え撃つ体勢を取る。


「正面から特攻とは、その意気やよし! だが、猫が虎に正面から勝負して勝てると思うてか!」


 すでに両者の間合いはどちらが仕掛けてもおかしくない位置にまで接近している。しかし、大きく上段に構えた刃の下で、アサシンキャットはアンタレスの言葉ににやりと笑う。


「正面から行くなどと――――」


 刹那、その姿がアンタレスの視界から消えた。シリィの、ほんの数瞬、世界から消えるという、あの特殊能力だ。拳で迎え撃とうとアンタレスの繰り出した左腕が空を切る。


「――――誰が言った?」


 能力の効果が切れたとき、彼女が存在していたのは、アンタレスの伸びきった、無防備な左腕の側だった。瞬間――――。


 斬。


 重く鋭い残馬刀が、まさに馬を一刀両断するかのごとく、アンタレスの左腕を切断していた。


「ぐ――――、おああああああぁぁぁぁッ!」


 さしものアンタレスも、傷口を押さえ、吼えた。


「それで先ほどまでのような電撃は撃てまい!」


 ニヒルに笑むシリィが会心の一撃と確信し、追撃のため一歩踏み出したそのとき――――。


 腹部に、なにか強烈な圧力。それは締め上げるように彼女の身体を軽々と持ち上げる。事態が把握できず、己を持ち上げるそれを見たとき、彼女は確信した。


「それが……どうしたァ! 片腕となろうと、その程度では私は倒せぬッ!」


 ――――ここまでだな、と。


 次の瞬間、すさまじい電撃が、彼女の全身を襲った。


「うああああああああああぁぁぁぁっ!」


 抵抗できたのは、ほんの一瞬。彼女の頭ががくりと落ちるのを見、アンタレスは彼女を片手で放り投げた。


「……おねえちゃん!」


 思わず飛び出し、シリィを助け起こそうとするセトミに、彼女は悲しく笑う。


「言ったろう……私、は……もう、姉では、ない」


「そんなことない……そんなことないよ! 待って、今デヴァイスを……」


 セトミの必死の叫びに、シリィの瞳に涙が浮かぶ。


「無駄だ……。もう、助からない。それより、いい、か……、アルセイシア。この世界には……確かに、正義も……悪もない。だが……過ちはある。人が犯してはならない、罪や、過ちが……」


 何かを思い返そうとするかのように瞳を閉じるシリィの言葉を、ただセトミは聞くことしかできない。


「私は……それを、伝えたかった。だが……私は、弱かった。殺すこと、壊すこと、そして自分さえも死んでいくことでしか、それを、現せなかった……」


 大きく息をつき、シリィはこれまでにないほど悲しく、これまでにないほど優しく、そしてこれまでにないほど寂しげに、笑った。


「だが……お前たちなら……できる。生きること――――、助け合うこと――――、そして、共に手を取り合うことで、それを……現すことを……。お前たち、なら……」


「そ……そんなこと……」


 生まれてこの方、感じたことのない感情が胸の中を埋め尽くしていく。今にも体中をその感情が満たして、瞳からこぼれ出るではないかと思うほどに。


 だが、それがこぼれ始めたそのときには、シリィの瞳は、今にも閉じられようとしていた。


「最期に……姉と呼んでくれ……て……うれ、し……か……」

 その言葉を最期に、彼女の口も、瞳も、もう二度と開くことはなかった。


 静かにその身体を横たえ、セトミはゆっくりと立ち上がる。突然現れ、そして分かり合う間もなく逝ってしまった姉に背を向け、帽子を目深に被りなおした。


「……馬鹿じゃないの。今頃出てきて、ほんとのこと言って、その上、なんだかご大層な使命みたいなことを託していってさ。あんた、お姉ちゃんなんでしょ。だったら、あんたがちゃんと生きて、規範を示してみろっての。……ほんとに……馬鹿なんだから……」


 目深に被った帽子のせいでその表情はうかがえない。声色からも、まるでちょっとしたことで文句を言っているような響きしか聞こえてこない。


 ……だが、その頬を、一筋の雫が、まるで誰にも見られまいとするかのように、すっと、こぼれていった。


「……別れは済んだかね?」


 不意に、そのセトミの前に立つヴィクティム――――アンタレスが、重い声を漏らした。そこに感情の色はないが、愁いを帯びた彼の瞳がほんのかすかに、普段よりも揺らいで見えた。


「――――ええ。さっさと終わらせましょ。もう、犠牲はたくさん。悲劇も見飽きたし、お腹いっぱいだわ」


 淡々と言うセトミが、ゆっくりと顔を上げる。そこにもう、先ほど流れた涙はない。ただ、前に立つ男を見据える、強い眼差しがあった。


 それは、憎悪でもなく、敵意でもなく――――強い意志を秘めた、眼差しが。


 その視線をまっすぐに受け止め、アンタレスも鋭く視線を返す。


 両者が、すでに言葉は無用とばかりに、静かにそれぞれの武器を構えた。


 アンセムと、カタナ。


 雷を放つ、ナックル。


 一瞬の、静寂。数秒にも満たないはずのそれが、永遠にも思えたその次の、瞬間。


 その静けさは破られた。


 アンタレスの拳から雷撃が走り、セトミのアンセムから放たれた閃光がそれをかき消す。双方がその威力を失ったと見るや、一瞬にして間を詰めたセトミの斬撃を、アンタレスのナックルが受け止める。


「……さすがの速さだ」


「そっちこそ、涼しい顔で止めないでよね」


 互いに相手の挙動を賞賛しながらも、その表情には先ほどまでなかった殺気がはちきれんばかりに含まれている。


 アンタレスの腕に力がこもるのを感じ、セトミはカタナを引く。同時に後ろへと跳びすさりながら、アンセムを乱射した。


「むんっ!」


 しかし彗星のごとく青いその閃光を、アンタレスの拳が一蹴する。その勢いのまま、紅き鬼のごとく巨躯が、すさまじい速さでセトミの眼前に迫った。


「……っと!」


 なぎ払うように振るわれた拳を、すんでのところで身をかがめ、かわす。轟音が頭上を駆け抜けるその音は、まるで大型トラックが走っていったようだ。


 アンタレスがさらにその腕を振りかぶるのを見、瞳を紅く染める。一瞬先のその拳の位置から逃れるように、セトミは側転でアンタレスの横側に回り込んだ。


「しゃあっ!」

 威嚇する猫のような気合と共に、カタナを横薙ぎに一閃する。しかし、そのすでに人だったことすら想像もできない剛健な身体は、薄く傷がつくだけで、致命傷どころか痛覚を刺激するのがやっとだった。


「軽いわ!」


 すぐさま、アンタレスの拳が飛ぶ。大きく円を描きながら、裏拳気味に放たれたその攻撃を、後ろに下がってすんでのところでかわす。


「……このっ!」


 後ろへ跳んだ体勢のまま、アンセムを撃ちつくす勢いで乱射する。一発一発のダメージが通らなくても、連続での射撃ならば多少は効くはずだ。


 だが、セトミのその計算を赤き雷が打ち砕く。


 放たれた青い閃光は龍に飲まれるかのように、赤い雷の前に霧散した。


「軽い……軽すぎるぞ。それでは私には届かぬ。よしんば届いたところで、この身体に傷をつけることすらかなわぬわ」


 その言葉に、さすがのセトミも歯噛みする。確かに、カタナもアンセムも、彼の巨躯を相手にするには火力不足だ。だからこそ、シリィもロウガの重い斬馬刀を用い、あの一撃にすべてを賭けたのだろう。


 同じ手を使えばアンタレスにダメージを与えることはできるかもしれないが、それではシリィの二の舞になる可能性が高い。先ほど深手を負った彼が、それを警戒していることくらい、軽率に仕掛けてこないことから見ても明白だ。


 となれば、これしかない。セトミはカタナとアンセムを納めると、AOWを抜く。すぐさま装着していたアサルトアタッチメントを外し、ロングバレルアタッチメントを取り付ける。銃身が増した分、そして一発のエネルギーが増えた分、射撃のパワーは上がっているはずだ。


「ほう……憤怒の天使――――AOW‐666か。良い銃だ。しかし……」


 アンタレスの周囲に赤い龍が舞い踊る。先ほどセトミにとどめを刺そうとした技を、再び繰り出すつもりだ。次の一撃で、決着をつける気だ。


「……愚かなり、チェイサーキャットよ! 天使をもってして、神を屠ることはできんッ!」


 ならば、こちらも――――。


 相手の威圧感が高まっていくのに呼応していくように、セトミの瞳もいよいよもって、その紅を深く、鮮やかに変えていく。AOWを眼前に構え、アンタレスの挙動を、まさに狩りをする猫のごとく、その視線で射抜く。


 一方は鬼神のごとき闘気をまとい、もう一方は獲物を狩る獣のごとくねめつける。


「これが、最後の犠牲だッ! 汝の敗北をもって、人類の革新を成し遂げるッ!」


 雷の轟音よりもさらに大きく木霊する咆哮と共に、アンタレスが赤き雷を放射する。


 それを映すようにさらに深く紅を増したセトミのセトミが、その一本一本を捉えていく。


 放たれた雷は5本。そのどれもが、まさに雷光の速度でセトミに迫る。最初に迫った一本をAOWの閃光が撃ちぬく。二本目がわずかにそれ、瞳の数センチ横を通り抜けても瞬き一つせず、獲物を捉えた瞳が三発目を撃つ。肉薄した四発目をかがんでかわし、最後の一発を顔の直前で撃ち落とした。


「……まだだァ!」


 目の前での雷のスパークに視界が塞がれた一瞬の間に、アンタレスが猛進する。自身の雷に勝るとも劣らない速度でセトミの眼前まで踏み込み、拳を振りかぶった。その速さは今までのものとは比べ物にならないほど速い。


「もらっ……」


 だが。

 拳が届きかけたその時、アンタレスは、時が止まったように感じた。


 セトミは――――今、頼れるであろう唯一の武器――――AOWを、宙へと放り投げていた。


 思わず、アンタレスの目が一瞬、それに奪われる。それは時間にすれば、一秒にも満たないものだっただろう。だが、その視線が再びセトミに注がれたその時には――――。


「ドッグ――――任せた」


 ゼロ距離でアンセムを構える、チェイサーキャットの姿。


「アンセム! バレット・オーヴァーロードッ!」


 そこに込められていたのは、ショウの作った、あの弾丸。


 刹那。


 普段の青い閃光とは違う、黄金色に輝く光が、アンセムから放たれた。それはまるでその名を自ら体現するかのごとく聖歌のような澄んだ音とともに――――。


「……ぐ……ふ」


 アンタレスの胸を、貫いた。


 赤い雷と紅い瞳の死闘は、鬼神の口元からこぼれ出た、一筋の赤い液体によって、勝負が決したことを知らしめていた。


「見事……だ。あの……おびえ、震えていた少女が……まさか、私の人生の幕を下ろすなどとは……夢にも、思わなかったぞ……」


「……そうね。私も、それに関しちゃ、同意見かな。あんたと意見が合う日が来るなんて、人生って不思議なものね」


 それは、自嘲だったか。あるいは、皮肉だったか。セトミはかすかに笑みながら、つぶやくように言う。


「……だが、チェイサーキャットよ……。い、急ぐが、いい……。ファースト・ワンの少女は、すでに神として目覚めつつある……。あの……システムを止めねば、少女は……神として、目覚める……」


 死の直前にも関わらず、直立したまま、アンタレスはなおのこと重い声で言う。


「その前……に、システムを、破壊しろ。今なら……まだ間に合う」


 その声に、セトミは不思議なものを見るように、まるで鬼のような――――しかし、鬼と呼ぶにはどこか悲しげな瞳をした、その男を見上げた。


「なぜ――――教えてくれるの?」


「なぜ……だろうな。もしも、お前があの少女を……救えたなら……。この世界も……悪くない……。そう思えるから、かもしれん、な……」


 そのあまりに悲しげな瞳に、セトミの目にも、にわかに愁いが宿った。


 ヴィクティム――――『犠牲者』を意味するその言葉は、その因子を生み出した男こそが、皮肉にも、その際たるものだったのかもしれなかった。


「人間は――――思っているより、ずっと弱いわ。決して一人で、大きなものは守れやしない。できるのは……目の前にいるものに、手を差し伸べることくらいなのよ。……悲しいけれどね」


 セトミは、ゆっくりと歩き出す。いまだ直立したまま、すでに大量の血で床を染めるアンタレスに背を向け、ミナのいるシステムへ向かって。


「身の丈以上のものを守ろうとするには、犠牲を払わなければならない。だけど、時に人は、大切なもののために命さえ投げ出す。そして犠牲を負ったものたちは、その心の隙間を埋めるために、牙を剥く」


 こつり、こつりと、その足音だけがその言葉を彩る質素な音楽のように響く。

「あなたがしていたのは――――その犠牲の輪を回していただけよ」


「そう、か……そうかも、しれん……な」


 その一言とともに、アンタレスはまるで安堵したかのように、大きく息をつき――――その生を、終えた。


 半身で振り返るセトミは表情もなく、ただ一瞬、その瞳を揺らめかせると、再び、ミナの元へ向かって歩き出した。


「さよなら――――犠牲者(ヴィクティム)の、王サマ」






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