ACT65 兎にも角にもやる気が大事?


「いち、に、いち、に」

「そうそうそう、いい調子よ」


 先日に市内で新しくオープンした、室内プール場の一角。

 真白にとっては胸、朱実にとっては肩辺りの水深がある、7レーン五十メートルの長さのプールの隅っこにて、朱実の水泳の練習は行われていた。

 水の中で、真白が朱実の両手を取ってあげて、朱実が水面に身体を浮かせつつ足をバタつかせるという、言わば身体が水に浮く感覚に慣れさせるためのものではあるが。


「よいしょ、よいしょ……あぅ」


 朱実のばた足の動きはひどくぎこちなく、足のほうから徐々に身体が沈んでいくのを繰り返している。

 この調子となると、彼女は小学校、中学校の水泳の授業を、どうやって乗り切ってこれたのかが、真白は気になったのだが……それを口に出したりしない。

 ただ、


「朱実、大分よくなってる。もう少し、膝を曲げずに脚全体を動かせば、もっと良くなると思うわ」

「そうかな?」

「大丈夫。朱実ならきっと出来る。何かがあっても、あたしが付いてるから」

「よ、ようし……!」


 その都度、彼女を安心させながら、褒めて伸ばすスタイルを取っていた。

 昔、家事を母に教わったとき、どんなにひどい状態でも母は真白のことを褒めちぎってきたので、それに倣ってこの場でも褒めながら教えてみると、結構上手くハマっているようだ。

 教え始めてから三十分、朱実はやる気を途切れさせることなく、練習に取り組んでくれている。


「朱実、ちょっとだけ手を離してみるわよ。……このくらいの距離を空けるから、ばた足で、あたしの元にたどり着いてみて」

「え……で、出来るかな」

「出来るわ。あたし、朱実のこと、待ってるから」


 今度は、十メートルほど距離を置いて、真白が両腕を広げて彼女のことを迎えるジェスチャーをしてみると、


「……お、おおぅ」


 何故か、朱実、こちらの顔より少し視線を下にしながら、微妙な返事をしていた。

 何か珍しいものでもあるのだろうか?

 真白は首を傾げるのだが、ややあって、朱実は気を取り直したようで、


「えっと。と、とりあえず、行くよ」

「うん。……来て」

「……なんだか、今のシロちゃんの声音が微妙にいかがわしかった気がするけど……ま、いいや。すぅ~~~~~」


 よくわからない呟きを発してから、朱実、大きく息を吸って、水面に顔をつけつつ、ばた足を開始。

 やはり、全体的にぎこちないが……少しずつ、少しずつ進んでいる。


「よしよしよし、いい調子」

「ぷはぁ……ぶくぶくぶく……ぷはぁ……ぶくぶくぶく」

「いいわよ、朱実、そのまま真っ直ぐ!」

「ぷはぁ……ぶくぶく……ぷはぁ……」


 スピードはないものの、しっかりと息継ぎをしながら、一度も足を付くことなくここまで来ている。

 最初は五メートルも無理だったというのに、今はその倍の距離を達成しようとしているのに、真白の応援にも熱が入る。


「あともうちょっと!」

「ぶくぶくぶく……」


 がんばれ。


「あと二メートル!」

「ぷはぁ……」


 がんばれ、朱実。


「さあ!」

「ぶくぶく……」


 最後の、一押し。



「――そのまま、あたしの胸に飛び込んできて!」

「ぶほぉ!?」



 と、最後の最後で、朱実、息継ぎに失敗し、しかも足の力が抜けたのか、どんどんと泡を吹きながら小柄な身体が水中へと沈んでいく。


「あ、朱実!?」


 これには真白、慌てて水中に潜り、彼女の腰辺りを抱きすくめて、プールサイドに移動しながら早急に水上に引き上げる。


「ケホッケホッ」


 少しだけ水を飲んだのか、小さくせき込んだものの、幸い、呼吸も意識も無事のようだ。

 よかった。一瞬、肝を冷やしたが、こうやって無事に助けられることが出来て、真白は大きく息を吐く。

 

「……ふぅ……シ、シロちゃん」


 どうにか落ち着いたようで、現在、水面で真白の腕の中にいる、朱実が声をかけてくる。

 声音はしっかりとしているし、顔色は悪くない……というか、心なしか赤い。血色に問題はないようだ。


「…………」


 ただ、こういうことが起こったとなると、ちょっと、真白のやり方に問題があったように思える。

 その辺も考えないといけないし、何より――朱実のモチベーションが下がってしまわないか、心配になる。


「朱実、大丈夫? 休憩する?」

「うん、ちょっとだけ。……その、シロちゃん、ゴール寸前でアレは反則だよ」

「え? なんのこと?」

「……でも、わたし、頑張るよ」

「? い、いいの?」

「大丈夫。コツは掴んだ。……今度は、ちゃんと泳いで、シロちゃんの……ごにょごにょ……飛び込んで、行くよ」

「……わかったわ」


 どうやら、心配は杞憂であったようだ。

 最後の台詞は少し聞き取れなかった気がするが、やる気があるなら、あとは真白自身が気をつければ、大丈夫という思いが強くなる。

 いやはや、さすがは朱実。危ない目に遭っても、このへこたれない姿勢、非常に天晴れであるし。

 ――改めて、彼女には惚れ直した気がする。


「やっぱり、最高ね」


 真白、胸の中が温かで、同時に誇らしい気持ちである


  ☆  ★  ☆  ★  ☆  ★


 ……流石にアレを聞いたら、最初はわたしも水中で悶死しかけちゃったけど。

 下心がやる気に繋がるとは、よく言ったもので。


「朱実、あともうちょっと!」


 再挑戦時。

 何となくコツを掴んだわたしは、以前よりもしっかりとした速さと勢いで。


「ゴール! よく頑張ったわ、朱実! 流石ね!」

「むにゅ……いや~、そ、それほどでも」


 ゴール寸前で息継ぎのために顔を上げて――

 その、なんだ。


 顔面から、飛び込ませていただきました。


 うん。

 おっきくて、非常に、柔らかかったです……!

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