日常の解釈について .8
背もたれが高くなっていたので何が起こっているのか茉莉花からは見られなかったが腰が少し浮いてしまう程には驚いた。ずるずる、ディミトリが誰かの足首を掴んで引き摺っていた。「痛い痛い起きる」と繰り返し声の主が言っているが気にも留めていないようだった。
干物みたいに引き摺られて出て来たのは、ディミトリと同じく白衣を着た男だった。人一人、そんなところで寝ているだなんて全く気付かなかった。
暫く櫛なんて通された形跡も無さそうな色素の薄いぼさぼさの髪に、糸目。寝不足なのか目元に隈がうっすら出来上がっている。つんと高く通った鼻、頬骨のラインは全体を引き立てるようにバランスが良いのに、髪型と皺だらけの白衣が全てを台無しにしていた。
「ああ、やっと起きているところ見られた。ごめんねえ、全然挨拶にも行けなくて。最近ほんと忙しくて目が回るくらいでさあ」
「は、……はあ」
首根っこを掴まれ、一人掛けソファーに持ち上げられるように座らされている。はああ、と力なく息を吐いて背もたれに体重を預けてから茉莉花に細い目を向けてきた。
「いやあ、ご挨拶が遅れて申し訳ないことをした。僕は
「――、は、じめまして……日向茉莉花、です」
「うんうん、知ってる。ごめんね、事前に色々調べさせて貰ってたんだ。まずは、春夏秋冬製薬研究所本部所長としても、AEU日本東支部統括者としても御礼を申し上げたい」
エーイーユーと発言したのか。また判らない単語が出て来て困惑する。
「ええっと、茉莉花くんでいいかな? いやあ、君は充分にやってくれたよ。僕の友人であり当機関の要たるディミトリと、クリストフォロスを救ってくれた。君がいなければ今頃、彼等はここにいなかっただろうね。勿論、君もいなかっただろうけど」
「……お礼を、言われることはしてません……それにわたしの方こそ、色々治療とかして貰って、ありがとうございます」
「君が数日前の異劫追跡時にあの場に割り込めるだなんて想定していなかったとはいえ、こちらの不手際でもあったからね。気にしないで」
そこで、茉莉花の朝食が乗っていたトレーをディミトリが運んでいこうとしたので「片付けるよ!」と声を掛けたが仕草のみで制されてしまった。キッチンで温かい飲み物も用意してくれるようだ。「ホットミルクは飲めるか?」と聞かれて、こくこくと頷く。
「ディミトリ、僕ココアがいい」
「おまえの分まで面倒を見ていると疲れる。飲みたいなら勝手に作れ」
「えー」
先程からディミトリと周の会話は軽快で、親しげな雰囲気がよく伝わってきた。
ディミトリがキッチンと思しき部屋に入っていっている間、周は書庫に置きっぱなしにしているらしいノートパソコンを一台引き摺り出してきていた。特段、何を話せば良いのか、寧ろ何か喋るべきなのか迷って、茉莉花は大人しくしていることにする。
周が、ぱん、と軽く手を叩いたのはディミトリがカップを二つ分持って戻ってきた頃だった。
「じゃ、はじめよっか」
カップの中には宣言通りのホットミルク。それと、周の前にはシュガーポッドと蜂蜜の瓶が置かれていた。「甘くしたければ入れるといい」とすすめられたが、一口飲んだそれは充分な甘さだったので手は出さなかった。反対に、周は砂糖をスプーンで五杯ほど入れたあとに蜂蜜も追加で随分な量を入れているのを見た。
カップの底で蜂蜜と砂糖がざらざらいいそうだ。見ているだけで胸焼けがしそうなのに周は気にすることもなく満足そうにちびちびホットミルクを飲んでいる。
「茉莉花。先に幾らか確認したいことがある。まずは、おまえの名前、生年月日、出身地、家族構成を答えてくれ」
「え、――」
突然何を言い出すのかと目を白黒させた。
名前に、生年月日――答えるのは簡単だったが、不審に思った。名前はもう周知の通りだろう、名乗っているのだ。
服のサイズをデータとして持っているこの施設の関係者が改めて問うようなことだろうか。
だがディミトリも、周も茉莉花を茶化しているような雰囲気はなかった。周に至っては、じ、と茉莉花を見据えて答えを待っているくらいだ。
「……ひ、なた……茉莉花、です。二千四年、四月三日……生まれ、出身地は神奈川県で、家族は父と母、……兄弟はいない」
答えたと同時に周が物凄い早さでキーボードを叩いていく。
ディミトリの質問は続いていった。趣味に好物、一番古い記憶や、幼稚園から高校まで、今までの印象的な出来事、交際相手の有無など少し踏み込んだ内容までも聞かれた。それでも、あくまで事務的なもの、といった言い方だった。
「今まで生きてきた中で、一番美しいと思ったものは?」
「……なんだろ、……ねえさ、――姉みたいに慕ってる、従姉がいるんだけど、……って、待って、流石になんでこんなこと聞かれてるのわけかわかんないんだけど……!」
「その場面は明確に思い出せるか? その答えだけでも構わない」
「う、うん……? 思い出せるよ、……ちゃんと」
「周、これくらいで構わないか」
「いいんじゃない? 茉莉花くんも違和感抱えてないみたいだし」
画面から顔を上げずに周が答えて、ディミトリが安心したとでも言うように、深く息を吐くのを見た。
何かいやな予感がして背筋が伸びたが、もうずっとこんな調子であることも事実だ。腹の底に漬物石でも抱えているみたいだ。
「思い出せないことは、ないな?」
「……どういう、こと……?」
「ディミトリ、その聞き方はあまりに観念的に過ぎるし、僕らはそこまで知り得るはずもない。無意味な質問だ」
かちゃかちゃキーボードを鳴らしながら周が鋭く放った一言に、腹が冷える心地を得る。
「君に質問させて貰っているのは、記憶の欠損が発生していないかどうかを確かめるためだよ」
茉莉花を見ず、口元だけで微笑んだ周の言葉にぞっとして口籠もってしまいそうになる。
だけれど、黙っているだけはもう嫌だった。
散々な目にあっているが、結局のところ核心に触れる部分に関して言えばまだわからないことだらけだ。
何より、伺うように周に待たれていた。含んだような笑みは茉莉花があまり得意とする部類ではなかったが、ここで引き下がるわけにもいかない。
あんなに恐ろしい目に遭って、全て流されたままだなんて嫌だ。
「少し状況の整理と……質問しても、いいでしょうか」
「うん、構わないよ。半分、その為に僕はここにいる。意外と気丈だね、ディミトリが言っていた通りで安心した」
試されているのだろうか。全てを知り尽くした顔で周が微笑んでいる。ディミトリは座したまま珈琲を片手に事の成り行きを見ているようだ。は、と息を吐いて目を瞑る。頭の中を整理してから、瞼を上げた。
「わたしは、黄金の驢馬写本、驢馬の紙片っていうのを飲み込んだと説明されました。それによって訳のわからない力を手に入れたって」
「うん。驢馬の紙片は強大な力を持ち、外的世界と内的世界を繋ぐ装置でもある。紙片は“表紙”から始まり、頁番号二番の見返し、表題を示す頁番号三番、それ以降は百番台、二百番台と続き、そして索引とそれぞれ個別に存在する。物語として残っている黄金の驢馬は全部で十一巻あるから、もしかしたらこの巻数と表紙その他を合わせて十六程に分かれてるかもしれない、ってくらいで、全部でいくつに写本が分かれたのかはわからない。五十年前に初めて驢馬の紙片表紙保持者が現れ、先の宗教戦争でも紙片保持者が暗躍していた。現在は茉莉花くんとディミトリを含め数名の保持者を確認している。うち、当機関に関与しているのはディミトリとあと二名のみ。君を含めれば四名かな? 一名は関係が絶たれているから協力して貰えないんだよねえ」
本館へ続く柱廊でディミトリが言っていた人物だろうかと思い当たる。
「その、外的とか内的っていうのはなんですか?」
「ちょっとずれるけど、あー、そうだな……シュークリームの中身が内的世界、皮が外的世界って言うと想像つきやすいかな? 内的世界は僕らが知覚出来る物質世界ね。まだ見ぬ宇宙の果ても含めて、伸びゆく境界線のその先、これから知覚するであろう部分も全てを指す。要するに人間が物理的に干渉可能な領域のことを言う。一般的に口にされる“世界”がクリーム部分。皮部分である外側は、そのまま、これら物理世界をまるごと包み込んでいる……いや、風船のがわかりやすいか。内的世界は膨張するから」
外側を包む未知の領域。あらゆる要素を含み、空間が生まれる直前の混沌としたエネルギーを孕むものを外的世界と呼ぶらしい。要するに、一般的な方法では物理介入できぬ世界全てがそれに相当する――とざっくりとした説明だった。
「紙片は常に宿主を探しているのだけはわかっている。まだ宿主を見つけていないものは今か今かと該当者を待ち侘びているんだよ。条件は不明。相性とかそういうのもあるみたいだ。紙片は宿主を苗床にして何をしようとしているのかも不明。ただ、代わりに莫大な力をもたらしていく。君が飲み込んだ力はそういったものだ」
視線を落として、Tシャツの下に隠れた傷の場所を見遣る。
「ああ、報告は受けているけれど君の傷が光ったって話も聞いた。普通、紙片保持者は紙片を飲んだ時に傷なんて付かないんだ。傷がどの段階でついたかもわかっていない。当事者のクリストフォロスも確認していないし、後から駆けつけたディミトリの報告だと君が負ったのは胸じゃなくてお腹の傷。そっちは綺麗に消えてるはず」
あの時、確かにこの傷は光った。胸元以外に傷は残っていない。
「君が戦い、僕らが排除せしめんとする異劫は外的世界の異物がこちらの世界に馴染んでしまったものだ。AEUとは、終戦後に僕らの界隈でいうところの名家や関係各所が共同設立した異劫殲滅を目的とする組織。世界中に支部があり、日本にはここ東京の東支部と、京都にある西支部の二つ。特殊で現実離れした案件ばっか取り扱ってるから適応人材は極めて稀。人手不足で常に困っている……特に、異劫と直接戦える人材」
おどけて肩を揺らして笑う周を落ち着かない気分で見る。言わんとしていること、その先の台詞が、わかる気がしてとても落ち着かない。
「紙片は、一度飲み込んでしまえば例外を除きこちら側からは分離不可能。ディミトリはかれこれ十五年は紙片と共に過ごしている。紙片保持者達のフォローを執り行っているのもAEUであり、この研究所には君をバックアップ出来る体制が整っている……はっきり言おうか。残念だけど君はもう、今までの日常からは乖離してしまっている」
残念だったな。
ディミトリが言った台詞が再生される。嫌な予感が当たった。こういうものは外れて欲しい時には外れないものだ。
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