青い導火線 クセモノたちの狂詩曲

原文 

https://kakuyomu.jp/works/1177354054882814995/episodes/1177354054882815083



 柔らかな日差しの中、薫る風に乗って桜の花びらが舞い降りる。どこまでも広がる蒼穹の下、はらはら、はらはらと。

 春うららかな、まさに入学式日和の日。

 若葉の萌え染む音まで聞こえてきそうな、そんな長閑な陽気の中で、池崎正人は一人途方に暮れていた。


「なにやってんだ、俺……」


 溜息と共に吐き出されたそのぼやきに、反応するものはいない。

 ただ無情に閉ざされた校門が、正人の目の前に立ち塞がっているばかりである。

 要は、遅刻したのだ。入学初日に。

 恨めし気にその門扉を睨む正人だったが、いつまで待った所でそれが開くはずもなし、また、だからと言ってこのまま引き返していいはずもなく、また一つ溜息を零すと、彼は校門の壁伝いに歩き出した。

 そのまま敷地の裏側へと進路を取った正人は、建物の脇に回ったところで、ここぞというポイントを見つけた。こういうことに関して正人はとても鼻が利く。

 すなわち。

「よっ……と」

 侵入しやすいポイント、である。

 慣れた動きで塀をよじ登り、身軽に飛び下りる。

 入学に合わせて母親が新調してくれた革靴の底がじんと痛み、正人は顔を顰めた。

 今日から新生活の始まりだというのに、本当に何をやっているのだか。

 心の中でそう自嘲した正人に、横から声が掛けられた。


「何をやっているの?」

 まさに今、自分が思ったことを言葉にされて、正人はぎくりと声がしたほうを振り返る。

 そこに、女子生徒が立っていた。

 長い髪に、切れ長の眼。すう、と通った鼻筋。体の線は細いはずなのに、その堂々とした佇まいは、初対面のはずの正人にさえ自然と威厳を感じさせる。咄嗟のことに言葉を詰まらせていた正人を数秒眺めやり、彼女はさらりと言った。

「ひょっとして、池崎正人くん?」

「へ?」

「着いてきて」

 返事を待たずにすたすた歩きだす。


 慌てて後を追いながら、正人は疑問を素直に口にした。

「なんでおれの名前……」

「新入生でまだ来ていないのは君だけだから」

 にべもない返答に、んぐ、と正人の喉がおかしな音を出した。

 それきり言葉を失った正人に、彼女は首だけでちらりと振り返り、肩越しに冷たい笑みを浮かべる。

「入学式に遅刻だなんて、いい度胸だね」

「ただの寝坊に度胸は関係ねえだろ」 

 条件反射でかみつき返してしまってから、正人ははっとした。


「ふうん……」

 彼女がすうっと、瞳を眇める。

 正人の背筋に冷たい汗が流れた。

 どう見ても上級生を相手に、入学早々まずかっただろうか。いや、それ以上に、目の前の女子生徒から発される正体不明の威圧感に、正人の足が固まった。しかし、その眼差しだけは、彼女の氷のような一瞥を真っ向から受け止めている。ここで怯んだりできないところが、正人の長所であり短所でもあった。

 時間にすれば、数秒も経たない程の緊迫の時が流れ。

「うん、それもそうだね。失礼な言い方してごめんなさい」

 拍子抜けするほどあっさりと、彼女の方が引いてくれた。

 僅かに口の端を緩めて眉を下げると、再び前を向いてすたすたと歩き出し、体育館脇の路地をすり抜けて行く。


 どうやらそちらが正面側だったらしい。すでに式が始まって閉ざされている入口の脇で、数人の生徒が机や段ボール箱の片付けをしていた。

「来たよ、池崎正人くん」

 正人の前を歩く女子生徒が気安い口調で声をかけると、意外そうな顔、ほっとしたような顔、迷惑そうな顔、ばらばらの表情を浮かべた生徒たちの視線が正人に向けられた。

「いたのか」

 その中の一人、クリップボードを持った銀縁メガネの男子生徒――明らかに迷惑そうな顔をしていた一人――が、押し付けるようにして正人に徽章リボンを差し出した。

「これ付けて。早く」


 正人がもたついていると、ここまで正人を連れて来てくれた女子生徒が横から手を伸ばし、制服の左胸にその徽章を付けてくれた。細い指で胸元をまさぐられ、思わずどぎまぎしてしまう。

 きゅっと徽章の向きを整えてから、彼女はにんまり微笑んで正人の背を押し出した。

「君は一年一組だよ。席は一番左端の列で来賓席の真ん前」

「え゛」

「ふふ。ご愁傷様」

 観音開きの扉を少し開けながら、銀縁メガネの男子生徒が厳しい面持ちで「早く行け」と正人に向って目配せした。

 その中から矢の如くに降り注ぐ好奇と顰蹙の視線を全身に浴びながら、正人は本日何度目になるかも分からない溜息を漏らしたのだった。



 青陵学院は、中等部と高等部に分かれた私立の進学校である。創立されてから十年足らずと歴史はまだ浅いが、今ではこの地域の古くからの名門校である西城学園と並べ、『西の西城・東の青陵』と称されている。

 並外れた進学率とそこそこの実績で地域の衆目を集めているが、その神髄は極めて高い生徒たちの自治力にあった。「克己復礼」を教育理念に掲げ、「清く正しく美しく」をモットーに自立心あふれる生徒たちが傍若無人に活躍する(この場合の“人”とは、すなわち教職員のことだ)。大いなる可能性に溢れる…………要するに、異彩を放つ学校なのである。



 波乱の入学式を終えた、翌日。


『ただいまより、生徒会入会式を執り行います。一年生は速やかに体育館にお集まりください。繰り返します。ただいまより……』


 アナウンスを聞くともなしに聞きながら、池崎正人は人の流れに沿って体育館へと移動していた。のろのろとした歩みの間に、何度も何度もあくびをかみ殺す。

 流石に昨日の今日で遅刻は出来なかった正人は、この日、全霊をかけて早起きをした。おかげで10時を過ぎるころには瞼がとろんと重みを増し、昼を過ぎた今となっては意識を保つのが精一杯の有様である。

 帰りたい。そして寝たい。

 その一念のみが頭を支配している正人にとっては非情なことに、生徒会入会式とやらの後には部活紹介が続くらしい。体育館に入ったところで我慢できずに特大のあくびを一つ。ただでさえぼやけた視界が涙で滲んだ。


「おい、三大巨頭だ」

 そんな正人の耳に、前を歩いていた男子生徒たちの囁き声が聞こえた。

「すっげー迫力」

 彼らの目線の先、舞台の端に昨日の髪の長い女子生徒と銀縁メガネの男子生徒がいた。それと知らない男子生徒がもう一人。


 三大巨頭?

 その、高校生がつけられるにはあまりに仰々しい呼称に正人が眉を顰めていると、不意に後ろから肩を叩かれた。

「池崎」

 振り返ると、見覚えはあるが名前が分からない顔が二つ。

「えーと……」

「森村だよ。寮生の。こっちの片瀬は池崎とクラス一緒だよね」

 片瀬と呼ばれた方が頷いているのでそうなのだろう。正人はよく覚えていなかったが。


「一緒に座ろうよ。席自由なんだよね」

 空いている座席へ向かいながら、なんとなく舞台の上に目線をやると、昨日正人と出会った時と変わらぬ堂々とした立ち居振る舞いで一年生たちを睥睨する彼女と、目が合った。

「……」

 その口の端に、ほんの僅かに笑みが浮かんだ……ような気がした。

 ぞくり、と、背筋が震える。

 その後すぐに彼女は視線を反らして舞台の袖へと引っ込み、正人に底知れぬ悪寒だけを残していった。

 狐に睨まれた兎の気分……。

 正人の野生の勘が警鐘を鳴らす。


「池崎、美登利さんと知り合い?」

 目敏くも今のやりとりに気が付いたらしい森村が尋ねてくる。

「美登利さん?」

「中川美登利さん。あの髪の長いきれいな人」

 そういえば、一応お世話になったのに名前も聞いてなかったな、と今更ながらに気付いた正人だったが、今後あまりお近づきになりたいわけでもなし、気にせず森村の問いに答えた。

「いや。昨日、少し話しただけ」

 ふーん、と森村はまだ話したそうな様子を見せたが、式の始まりを告げるアナウンスが流れてきたのでそのまま押し黙った。

 舞台上に立った何やら偉そうな肩書の男子生徒が、何やら偉そうなお言葉を垂れ始める。

 正人は早々に意識を保つことを諦めた。


 一時間後。


「池崎、池崎」

 肩を揺すられ、正人はようやく頭を起こした。生徒会入会式の始まりから部活紹介の最後まで、ずっと寝入っていたのである。森村拓己は呆れ気味に正人の肩から手を離した。

「もうみんな移動してるよ」

「んー」

 伸びをしながら辺りを見渡すと、目を閉じる前と比べ随分がらんとした体育館から、更に幾人かの生徒たちが退出しているところだった。いくらかすっきりとした頭と、その代わりに痛めた首筋を摩り、正人は「悪い、悪い」とぼそぼそ呟いた。


「部活の見学どうする?」

 そう問いかけた森村に、正人はうんざりとした顔で逆に問い返した。

「帰ったらダメなのか?」

「終礼やってないからね、まだ。それまでは見学の時間。……だったよね?」

「そうだな」

 水を向けられた片瀬が言葉少なに応じる。

 それを聞いた正人は大して考えることもなく、あっけらかんと答えた。

「おれ、教室で寝てるわ。部活も委員会もやるつもりないし」


 ばいばい、と手を振る正人を、森村と片瀬は呆れ顔で見送った。

「まだ寝足りないのか」

「あんな奴のこと、どうして美登利さんが気にしてたんだろう」

「昨日遅刻してきたの、インパクトでかかったからな」

「あー」

 確かに、と森村はやはり頷くしかない。

「ぼくは中央委員会室に行くけど、片瀬はどうする?」

「行く」

 お気楽な寝坊助のせいですっかり出遅れてしまった二人は、足早に体育館を出て行った。



 場所は変わって、中央委員会室。

 学園にいくつか存在する専門委員会の一つでありながら、実質生徒会の直属部署としての機能を持つ、ある種特別なこの委員会の本拠に、幾人かの生徒たちが集まっていた。


「品良く小粒に揃ってますって感じ? 今年の一年」

「上手いこと言いますね」

 船岡和美の言葉にぷっと吹き出しながら、坂野今日子がお茶を差し出す。それを受け取りながら、中川美登利はその形の良い柳眉を顰めた。

「品良くまとまりすぎてても考えもの」

 その言葉に、和美と今日子が苦笑する。

「しっかりはみ出してる子がいただろう?」

 こちらもお茶を受け取りながら、生徒会長の一ノ瀬誠がのたもうた。


「ああ。一組の池崎正人」

「あの子ずうーっと居眠りしてたね! あたし放送室から見てて笑っちゃったよ」

 和美がぺしぺしと机を叩いて喜ぶ。

「もう、すっごい度胸」


『ただの居眠りに度胸は関係ないだろ』


 その言葉に昨日の彼の台詞を思い出した美登利が、湯呑のふちをなぞりながら忍び笑いを漏らした。


「美登利さん?」

「ふふ。なんでもない」

 怪訝そうな顔でそれを見る今日子の顔は、どこか面白くなさそうで。

「ジェラシー?」

 和美のそんな言葉に、ぎろりと鋭い視線を向ける。

「誰が」

 それをあっさりと無視して、和美は立ち上がった。

「あたし部活のほう行こうっと」


 和美がそそくさと中央委員会室を出て行ったのと入れ違いに、風紀委員長の綾小路――昨日、正人に徽章を押し付けた銀縁眼鏡の男子生徒――がやって来た。

「一年生の名簿だ。先にこっちでピックアップさせてもらった。残りは好きにしてくれ」

「ん」

 差し出された名簿を受け取ってページを繰りながらも、美登利はあまり気が向かない様子である。


「うちは有志の子が入ってくれればそれでいいかな」

「池崎少年は?」

 のんびりと誠が言うのに、綾小路の瞳が吊り上がる。

「彼を入れるのか?」

「うーん」

「まあ、お前さんの好きにすればいいが」

 今日子が新しくお茶を淹れようとするのを制して、その言葉と裏腹にいかにも異議のありそうな顔をした綾小路が出ていく。


 美登利は渡された名簿の中、大勢の名前の羅列の中に見つけた一つをそっと指で撫で、思案気な瞳を静かに燻らせた。



 その翌日から、風紀委員会による朝の登校チェックが本格的に始まった。初めのうちこそ時間ぎりぎりに校門をすり抜け、その度にいかにも委員長然とした銀縁メガネの風紀委員に険しい目線を送られていた正人だったが、通常授業が始まり、五月の体育祭に向けクラスでの話し合いが行われる頃には、徐々に緊張の糸も解れかけていた。

 高校というところは、滅茶苦茶に慌ただしい。

 その糸がぷつりと切れるのに、そう長い時間はかからなかった。


「一週間だぞ! 一週間! 毎日!」

 かつてないほど綾小路が怒っている。

 心なしかトレードマークの銀縁メガネの輝きがくすんでいるようにさえ見える。

「一週間遅刻続きの新入生など前代未聞だ!」

「まあまあ、落ち着こうよ」

 のんびりと茶を啜っている一ノ瀬誠をぎろりと睨み、綾小路は自分の分のお茶をぐいと一息に飲み干すと、ふーっと長い息を吐いた。いくらかトーンダウンした声で、それでも苦々しく言葉を吐く。

「寮長に厳重注意するべきでは?」

「それだと大事になりすぎじゃない? 体育祭の準備も始まって忙しいところ余計な仕事を増やすのもさ」

 美登利がおとがいをかいて反論する。

「それならどうするんだ! このままでいいわけがないだろう。俺は許さんぞ」

「うーん」


 美登利が困ったように笑みを浮かべた時(生徒会長の誠は我関せずとばかりに湯呑を啜っている)、会室の扉が控えめにノックされた。


「こんにちはー」

 明るい挨拶と共に、森村拓己が顔を出した。

 彼と片瀬修一は、昨日のうちに、狙い通り中央委員会に入会していたのであった。

 丁度いいところに、と、美登利はちょいちょいと手招きする。

「拓己くんさ、池崎くんのことなんだけど……」

 その言葉が言い終わる前に、分かってます、という顔で拓己は肩をすぼめた。

「すみません、美登利さん。今日こそはって頑張ってみたんですけど、あいつ何をやっても全然ダメで」

「全然ダメ?」

「ダメですね。まったく起きないです。目覚ましなんか五個も使ってるのに。とうとう柔道部の先輩が『窓から放り投げてやるか』なんて言い出す始末で……」


「全然ダメかあ」

「そりゃ困ったね」

 ははははは、と笑い合う美登利と誠を綾小路が親の仇でも見るかのような目で睨む。

「……あー、とにかく、ね。放課後にでも連れてきて。池崎くんをここに」

「美登利さんがお話するんですか?」

 意外そうな顔をする拓己に、美登利はにっこりと微笑んだ。


「うん。お話しましょう。私が」


 その瞳に宿る冷たい光にその場でただ一人気づいた誠は、それでもやはり何かを言うことはなかった。




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