第61話 社
社はビルの屋上から飛び降りた。
その足はすぐに宙に浮いたワニザメの背に着地した。
因幡の白兎の逸話で知られるように、ワニザメの群れがビルから星読高校の屋上へとずらりと並んでいた。
「本当にあそこへ行くんですかい? ありゃあ、癪に障りますぜえ」
ワニのような長い顎にぎょろりと見開かれた目をした青白い鮫は低い声で尋ねた。
「ああ」
社は頷いた。
「行かないといけない。俺を運んだらすぐに逃げろ。焼き殺されるぞ」
「言われるまでもねえやあ。あんなおっかねえのは見た事ねえっよっと」
そう言うとワニザメは体を一度沈め、次に持ち上げた。その勢いで社は跳んだ。
次の足場となるワニザメは既に体を沈めており、社が着地すると勢いよく浮上する。
それを繰り返し、社の体は空を跳んだ。
「お坊ちゃん」
「頼みますぜえ」
「お気を付けて」
「どうかあっしらの仲間を助けてくだせえ」
ワニザメ達は口々に言った。
社はそれに答えず、ただ学校の屋上を見つめた。
そこにあるのは巨大な光。強大な炎。
不動の力を持つ神、朱雀だ。
闇を食いつくさんとする輝きに社は目を奪われていた。
「こいつが最後です! 陰陽師の旦那ぁ、ご武運を!」
そう言って最後のワニザメが社を飛ばす。
社が屋上に着地するのを見送ると、ワニザメ達は夜空を泳いで逃げていった。
朱雀を近くで見ると社にはその明るさが太陽そのものに思えた。
感動にも近い心の動きの中、社はふと何かを察して床を見た。
そこには人の形に焦げた跡があった。
そんな中、矢じりだけが無傷で残っている。
焦げ跡をを見て社は目を細め、右手を立てた。
「隼人。もう気は済んだだろう。あとは俺に任せて安らかに眠れ」
社は呟いたあと、社は再び朱雀を見つめた。
屋上は阿鼻叫喚で溢れている。
蒼一を失い、勢いをなくした鬼達が朱雀の餌食となっていた。
今や朱雀に襲いかかる鬼は皆無だ。
その光景を眺めていた社に一体の鬼が近づいて来た。
水晶玉を両手で持ったジキタは言った。
「陰陽師・・・・・・。水晶玉くれてあんがとな。でもオイラ達はもう駄目だぁ・・・・・・。ここで焼き殺されるんだ。そしたら、閻魔様にももう会えない。オイラ達が死んだらあとは闇だけだ」
べそをかくジキタに社は言った。
「泣いてもなにも変わらない。生き延びたいならその為に動け。止まったまま死んだら後悔すらできないぞ」
そう言って社は歩き出した。
その背中にジキタは尋ねる。
「どうするんだい?」
「あれを鎮めて封じる」
社は飛んできた火の玉を長い裾で払った。
そして振り向き、ジキタに聞く。
「協力してくれるか?」
地獄の中にいても尚、社の表情は柔らかい。
それを見てどこか安心感を感じたジキタは頷いた。
「・・・・・・分かった。オイラはなにをすればいいんだい?」
「まずは場を清める」
社は懐から巻物を取り出して広げた。
「蒼一がなにを詠んだかは知らないが、ここは淀みが濃すぎる。少々強力なものを詠むから、祓われないように離れておけ」
「お、おう。みんなにも言ってくるっ!」
ジキタはこくんこくんと頷き、てとてとと走って行った。
みんな離れろと叫ぶと、鬼達はジキタの後ろにいる社を見つけ、ぎょっとした。
理解した者から一目散で散走していく。
それを見て社は神道の基本とも言える祓詞を略した最上祓いを読み上げる。
「高天原天つ祝詞の太祝詞を持ち加加む吞んでむ。祓え給い清め給う」
すると淀んでいた気が少しずつ晴れていく。
だがその一方で逃げそびれた鬼達が苦しみ出した。
朱雀はというとまだ暴れ回っていた。
口から火を噴き、炎の羽を飛ばす。
鬼達は為す術なく焼かれていく。
その中でも不思議と小白だけは無傷だった。
まるで辺りでなにも起こってないようにベンチに横たわり、すやすやと寝息を立ていた。
小白の周りだけは炎も鬼も近寄らない聖域になっている。
社は小白を見て微笑み、安心した。
そして続きである大祓詞の略である最要祓いに視線を戻す。
背筋を伸ばし詠むそれはこの場に相応しく、奈良と平安時代の六月の終わりと一二月の終わりである晦日に御所の朱雀門で詠まれた詞だった。
「高天原に神留まり坐す、皇が親神漏岐、神漏美の命を以て、天つ祝詞の太祝詞事を宣れ」
熱く煮えたぎっていた空気が徐々に澄み、清められ、涼しい風が吹き出した。
社の気配を感じ、朱雀が動きを止め、ゆっくりと顔を向けた。
めらめらと炎の翼を燃やしながら黒い宝石のような瞳が確かに社を捉える。
社はよく通る綺麗な声で祓詞を詠み上げる。
「此く宣らば、罪という罪、咎という咎在らじ物をと、祓え給い清め給うと白す事の由を、」
それを朱雀はじっと聞いているように見える。
社と朱雀からはそれぞれ異なる気が放たれていた。
朱雀の熱気と社の清気。
それらがぶつかる場所では静かながら力強い押し合いが行われている。
神の視線にも臆せず、社は詠み続けた。
「諸々神の神等に左男鹿の八つの耳を振り立てて、聞こし食せと白す」
社は大祓詞を読み終えると慣れた手つきで巻物を直し、懐に戻した。
そして代わりに数枚の人形を取り出した。
人形を投げると空中で止まり、社の周りで浮いた。
それを見た朱雀は警戒するように纏う炎の熱を上げる。
社はまた懐に手を入れ、今度は一枚の札を取り出し言った。
その札には小さな丸や棒線。蛇のような文字が描かれている。
社は後ろにいる鬼達へ微笑みかけた。
「霊符に神を封じる為には直接触れなければならない。力添えがあると助かるよ」
社の言葉に反応し、物陰に隠れていた鬼や妖怪が顔を出した。
彼らは普段敵でもある社の声に顔を見合わせた。
だが生き残るにはこれしかないとすぐに頷く。
それを見て社は笑った。朱雀を正面に向え、歩み出す。
「いざ」
刺激させないよう、敵ではないと伝える為に、社の歩みは音もなく静かで、それでいてなめらかだった。
それ自体が儀式のような歩調で屋上の端から端までをゆっくりと歩く。
朱雀は近づく社をギロリと睨んだ。
くちばしを開くと中から炎の塊が見えた。そうかと思うと次の瞬間にはそれが社へと放たれる。
それでも社は歩みを止めない。
自分の代わりに人形が二つ移動し、炎を正面から受け止めた。
思ったより強い威力に社は少しばかり顔をしかめた。結局三枚の人形を消費して、なんとか炎を弾くことに成功した。
だが、社の周りを漂う人形はその分減っていく。
社は心を乱さぬように長い息を吐いた。
「ここに七十二道の霊符神は、信条に具足し、我を守護したまえ」
霊符の威力を上げる祭文を唱えながら、社はゆっくりと歩き続ける。
そこへ再び朱雀が火球を吐いた。
社はまた人形で受け止めるが、今度は五枚も失った。
周りがどんどん寂しくなる。社の頬を汗が一滴伝った。
「それ! 助太刀だ!」
それを見て鬼や妖怪達も危機を悟り、一斉に飛び出した。
朱雀の口から次々に放たれる強力な火球。
それを社の人形が受け止めると、数を減らさないようにと妖怪達が協力する。
巨大な骸骨、がしゃ髑髏が両腕を燃やしながら炎を掴み、投げ捨てた。
かと思うと、海で死んだ霊である船幽霊達は別の火球にしゃくしを焦しながら水をぱしゃぱしゃかけて消火した。
雪女や火消し婆は息を吹きかけ、河童が水かきから水を放水する。
天狗が団扇で突風を起こし、輪入道は体当たりをし、小豆洗いは小豆を洗った。
塗壁は体で火を受け止め、砂かけ婆が砂をかける。
その後ろで狸囃子達がお囃子を演奏しながら「負けるな。負けるな」と腹太鼓を打って応援し、一つ目の豆腐小僧は豆腐を持った。
力自慢の鬼達はフェンスを引き剥がし、振り回すなど各々できることをやり続ける。
騒がしい中でも社はペースを乱さず、ゆっくり静かに歩き続けた。
もう半分の距離まで来ている。それでも状況を冷静に分析すると冷や汗が流れた。
(・・・・・・足りない・・・・・・か)
「オン・ヒラ・ヒラ・ケン・ヒラ・ケンナウ・ソワカ」
社は霊符を持ちながら何度も火伏せの真言を唱えた。
妖怪達は文字通り身を削りながら援護してくれているが、それでも残りの距離と人形の数を考えると足りない。
正確に言えば数ではなく、社の力が限界を迎えつつあった。
傷つき、燃え死んでいく妖怪や鬼達を横目に焦りの色を濃くする社。
しかし走って飛びかかろうとでもすればそれこそ朱雀は怒り狂い、努力が水泡に帰す。
一秒の時が過ぎる度に失敗が脳裏に過ぎり、一歩歩く度にそれが現実となりつつあった。
一瞬、意識を失い社はふらついた。
顔は青ざめ、感じたことないほどの渇きを覚える。
体から命の元が出ていくような感覚だ。
それでも社は前を向き、歩みを続けた。
誰にも理解されないことを、誰にも称賛されないまま、誰にも知られずにやり通す決意があった。
その時、屋上の隅で体育座りをして顔を伏せていた妖怪の波小僧が呟いた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・降るよ」
それを聞いて社はハッとして顔を上げた。
突如として雲が集まり、屋上へと雨を降らせた。
不自然だったが、恵みの雨が降り注ぐ。
飴により朱雀の火の勢いは弱まり、妖怪みんなが希望を見いだした。
社もそうだった。絶望の中、光明が差した。
だが、それでも苛立ちながら天へと零す。
「ふざけるな・・・・・・。今さら父親面しやがって・・・・・・」
朱雀からは水蒸気が上がる中、社も全身を濡らし前へと歩く。
雨と妖怪に助けられ、十メートル程の距離まで近づいた。
すると、最後の試練だと言わんばかりに朱雀の背後で今までより数倍大きな火球が形成される。
まるで小さな太陽みたいな火球を前にしても、社は前進を続けた。
背後の百鬼達も逃げようとしない。
その光景はまるで社が百鬼を率いているように見えた。
社に巨大な火球が放たれる。
社は全ての人形を使ってそれを受け止めた。衝撃で辺りの物が吹き飛ばされる。
鬼達が一面使ったフェンスは四方に飛んでいった。
それでも社は歩みを止めない。
妖怪や鬼達はなんとか火球を消そうと各々水や砂や石や小豆や豆腐なんかも投げ込むが、どれも効果は薄かった。
それでも社は歩みを止めない。
そればかりか受け止めた火球に手を伸ばした。人形は焦げ出し、形を失いかけている。
火球の勢いは止まらず、轟々と音を立てて人形を押した。
それを見て誰もが諦め、自らの運命を理解した。
社の服には火が付き、めらめらと燃えている。
それでも尚、社は前進した。
その顔にいつもの微笑を浮かべて。
「清明・・・・・・。いるなら手伝え・・・・・・。お前が見ていた世界を俺に見せてみろ」
社がそう呟くとほとんど同時に後ろにいたジキタが目に涙を浮かべ、走って来た。
「こん畜生っ! これでも喰らえっ!」
そう吐き捨て、ジキタ持っていた水晶玉を火球に投げつけた。
水晶玉は綺麗な弧を描き、炎を反射させキラキラと光り、すぽっと火球の中に入った。
次の瞬間、炎の中から眩い光が火山の噴火が如く溢れて出す。
光が光を塗り潰すように社の眼前が白に染まった。
炎が光で裂かれる中を社はそのまま進んだ。
そして、光の最深部まで歩くと眼前に朱雀がいた。
朱雀は翼を閉じ、静かに社を見下ろした。
社は朱雀を見上げ、霊符を掲げた。
「どうか、納め下さい」
するとそれを承諾したかのように霊符は細かい光の粒となり、朱雀に纏った。
その光景を社は安らかに見守ったあと、側で眠る小白を慈しむように見つめた。
「この子は最早あなたの依り代としては足りないでしょう」
そう言って社は朱雀を見上げた。
すると、朱雀は問うた。
『なら問おう。我の依り代は何処か?』
社は胸に手を当て、答えた。
「貴方の社ならここに」
そう言うと同時に社の背後で何かが羽ばたいた。
それは目の前の朱雀と瓜二つのものだった。
朱雀は目を大きく見開き、それと共に光の中を喜ぶように飛び回る。
二体の朱雀はまぐわうように絡み合い、やがて急降下して社へと飛び込んだ。
その瞬間、巨大な光が更に膨れ上がった。
かと思うと、光は瞬く間に収束し、辺りは静寂の闇に包まれた。
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