【発売前試し読み】単行本『毒よりもなお』

森晶麿/KADOKAWA文芸

プロローグ

「死刑だってさ」

 ヒロはいつもの空虚な目をこちらに向けていた。薄い唇は出て行った言葉を惜しむことなく、かと言ってこちらの言葉を待っているわけでもなく、静かに閉じられた。

 その肌は、外の世界にいる時よりもいっそう白くなり、メラニンの増殖する余地が完全に失われているかに見える。

 殺風景な拘置所の面会室の中にも拘(かかわ)らず、ヒロはホテルのロビーにでも来たみたいにリラックスしていた。隣にいる刑務官を恐れたり、自分の犯した罪に萎縮したりする様子もなく、ただ背もたれに寄りかかってこちらをまっすぐに見つめていた。

「控訴しないの?」

「控訴……面白いことを言うね。人を四人も殺した人間が、なぜ死刑に不服を申し立てる? 君だったら、自分が四人もの人間を棒きれみたいに扱ってなお、死刑には値しないと主張するのか?」

 初めて会った時から変わらない。いつもこちらを試すような物言いをする。

「そんな仮定の話には答えられないわ。私は人を殺したりしないもの」

「そう、君は殺さない。よくふつうの人間が、ある時一線を越えて殺人者になるというけど、違うよ。僕は生まれつきいつか人を殺す運命にあったんだ」

「運命論者だとは知らなかったわ」

「運命という言葉が嫌なら、あらかじめ組み込まれた可能性と言っておこうか。人を殺さない人間になる確率が初めから失われているのさ」

「だとしても、死刑という制度はナンセンスよ。犯罪者には生きて罪を償う義務があるし、その義務を遂行するための権利を主張するのが筋だと思わない?」

「それはずいぶんと、義務のための奴隷のような権利だね。なるほど、君が死刑制度に反対らしいことはよくわかった。その点は賛意を表明しておこうか。あくまで、死刑制度一般に関してだけどね」

 ヒロはそこで隣に立っている刑務官を見やり、「君は死刑制度をどう思う?」と尋ねたが、刑務官はそれを無視した。

「感想なしだってさ」とヒロは苦笑してから、またこちらに顔を向けた。その目はわずかに灰色がかっている。最初に見た時から、その目の虜(とりこ)だったことを思い出す。

「でもね、世の中には稀(まれ)に、死刑こそがふさわしい人間というのがいるんだ。誰かがそいつを死刑にするのではなく、死刑がそいつを選ぶ。そこには裁判官も検事も弁護士も入り込めない密なる関係がある」

「……たしかにあなたのしたことは許されることではない。けれど、死んでどうなるの? あなたの責任の取り方はほかにあるはずよ」

 ヒロはおかしそうに笑った。

 その目が、ガラスの球のように天井のランプの光を吸い込んで、灰色から黄金色に染まる。

「それより、首の痛みはどう?」

「……もう大丈夫よ」

「じゃあ、君の毒も消えた?」

「そんな話は今は……」

「重要なことさ。なぜ君がただの殺人鬼にこんなにも興味をもったのか。一人の心理カウンセラーの執着としては、異常だ」

「あなたにそんなことを言われたくないわ」

「ほかに言える人がいるとでも?」

 永遠の少年のような顔をして、ヒロはこちらに微笑みかける。思わず、視線を逸(そ)らした。

「はい、君の負け。面白いことを教えてあげようか? 君の毒はまだ君の身体に残っている。その毒が、いずれ君を殺す」

「私の中に毒なんてないわ」

「いいや、ある。一人の殺人鬼を救えなかった。それこそが、君の存在理由に仕込まれた毒だよ。君は気づいているはずだ。本当は誰も救ったりなんかできないってことにね。それは強力な毒だ。どんなに解毒しようとしても解毒しきれない、致死的な猛毒さ。ほら、思い出さないか? あのメモリアルな砒素(ひそ)事件を」

 その言葉が記憶の扉を開くことを、ヒロは知っている。自分の言葉が、相手の精神にどのような効果をもたらすか知り抜いているのだ。

 ヒロの思惑どおりに、過去を思い出す。

 あの砒素事件の年ではない。その年は東日本大震災の起こった年でもあり、あまりにも日本全体が混乱していたせいで急にその事件のパートだけ摘出しようとしてもうまくいかない。

 だから、それより一年前のことをまず思い出す。からまった糸の先端を見つけ出すようなものだ。

 当時、私は高校生だった。

 その夏に、初めてヒロに出会ったのだ。スマホに差したイヤホンから流れるフジファブリックの「若者のすべて」を聴きながら、前年の暮れに亡くなったそのバンドのヴォーカル志 村(しむら)の澄んだ目のことを考えていた。志村がいない初めての夏だった。

 その頃の記憶に封をするべく目を閉じる。

 ヒロの思惑に振り回されてはダメ。手綱は自分で握らなければ。けれど、目を開けばそこには、灰色がかった目がこちらを見据えている。その目は否(いや)が応でも初めて逢(あ)った瞬間へと遡(さかのぼ)らせる。

 ヒロは、どことなく志村に似た、澄んだ空気を纏(まと)っていた。

「それよりも事件の話を。あなたは自身の運営サイトである自殺サイト〈首絞めヒロの芝居小屋〉において、被害者三名に接近し、安楽死させると言葉巧みに唆(そそのか)して犯行に至った。そのやり方はじつに巧妙。完全犯罪も可能だったかも知れない。それなのに、一方でまるで犯行を告白したいかのようにも見えるものを残していた」

 そこで封筒を取り出す。ヒロのデスクトップパソコンのデータをプリントアウトしてきたものだった。縦に組まれた文字列は、ほどよく改行がなされ、多少執筆経験がある者なら、誰の目から見てもプロの領域にある書き方だということはわかった。

「ただの小説だね」

 ヒロはそう言ったが、これまでより表情がない。あえて本心を隠そうとする動きが、内面に働いた証拠だろう。

「小説だとしたら事実を元にしたフィクションね」

「逆に聞こう。もっとも不思議だったこと。君はどうやって真相に辿たど

り着いたんだ? 警察ならともかく、君が最初に真相に気づけたのはなぜなのか、話してほしいもんだね」

「……そらぞらしい言い方はよして。あなたが私に見つけてほしがっていたからよ。遅すぎたけれど」

 その時、初めてヒロは視線を逸らして俯(うつむ)いた。口元だけで笑ってみせたけれど、すぐに気づいた。その頰に、一粒の雫(しずく)が伝ったことに。

「遅くはない。これでよかったんだ。ありがとう」

 その言葉は、つなぎ止めていた理性のリードを放してしまった。

「どうしてこんなことに……」

 知らぬ間に嗚 咽(おえつ)を漏らしていた。

 記憶を掘り起こす。不思議なものだ。ヒロと出会った二〇一〇年よりも、ヒロが犯行に手を染めたこの数か月のことのほうが思い出すのに手間取るなんて。

 きっかけは、あの子だった。

 今道奈央(いまみちなお)。彼女が図書館に現れていなければ、自分がこうしてヒロと対面することもなかったかも知れないのだ。

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