第76話 家族の時間

 どんな名医でも、死を回避させ続ける事は出来ない。どんな設備を持ってしても、痛みを完全に消し去る事が出来ない。

 定められた寿命を、引き伸ばす事が出来るのは、神しか存在しまい。


 医者が出来る事は、痛みを伴わせても、僅かな時を患者に与える事だろう。

 若しくは痛みを和らげ、安らかな死を迎えさせる事だろう。


 何が正しいのか、誰にもわからない。どの判断が正解なのか、誰にも決められない。


 では、患者に生きる勇気を与えるのは、何だろう。医者の励ましか? それとも家族の励ましか?

 そのどちらでも有り、どちらでも無いのかもしれない。


 時に、複数の津波は重なり、堤防すら超えるほど大きくなる。

 それは容赦なく、街を破壊し人々を飲み込む。


 しかし、足掻こうする意志が、巨大なうねりから逃れさせる。

 生き残って、何もかもを失っても尚、絶望しない意志が、新たな街を造り上げる。

 また、強い意思に惹かれて、多くの優しさが背中を押す。


 ただ、意志の力とて、万能では無かろう。


 ☆ ☆ ☆


 さくらの症状は、一進一退を繰り返した。

 高齢故に起きる、体力や免疫力の低下は、病の進行を加速させる。

 ましてや、まともに飲食が出来ない体なら、尚更だろう。


 そして、問題は一つではない。

 病による体調変異は、新たな症状を引き起こす。複数が重なり続け、手が付けられなくなる。

 そうして、加速度的に命の炎は、小さくなっていく。


 貞江は戦っていた。

 咳を抑制しつつ、抗生物質による細菌への効果を確認し、次の対策を検討する。当然、薬剤耐性菌の発生を防ぐ必要も、充分に考慮しなければならない。

 それに併せて、他の症状も治療しなければならない。


 この時点で、疾病に耐え得るのは、抵抗力の高い者であろう。

 依然として高齢者の死因上位には、肺炎が有るのだ。


 長年研鑽し続けた、彼女の知識と技術が無ければ、とっくに全てが終わっていただろう。それは、さくらが用意した設備を無くして、成し得ない事だったろう。

 それとて、病と戦う患者の意思が無ければ、どんな設備もガラクタと変わらない。


 さくらは抗っていた。

 ギイとガアを、そしてクミルを笑顔にする為に。再び、愛すべき仲間達と、笑って話をする為に。

 その想いは、病に抵抗する力となる。


 声を発する事が辛くても、笑顔を届ける事は出来る。また、見舞いに訪れたギイとガアが滞在する時間は、ほんの僅かな時間である。

 当初こそ窓際まで歩み、会話を交わす事が出来た。他の来訪者に対しても、同じような対応が出来た。


 さくらが覚醒していられる時間は、日を追う毎に短くなっていく。しかし、体を動かせなくとも、覚悟を見せる事は出来る。

 さくらは、窓越しに掛けられる励ましに対し、拳を突き出して見せる事で、戦う意思を示した。


 ただギイとガアは、そんなに鈍感ではない。どれだけさくらが意思を示しても、その変化には気が付いている。容姿は、依然と別人の様に変わっている。

 元々やせ型ではあった、しかし頬はこけておらず、青白い顔もしていなかった。今は、酷くやつれて見える。

 

 自分達が届けた野菜を、食べる事が出来ないのだろう。それだけ、辛いのだろう。そんな想像は、容易に出来た。

 さくらを励ましたい、元気になって欲しい。しかし、ギイとガアが見舞いに訪れた時に、必ずしもさくらが起きているわけでは無い。ならば、何をすればいい。

 ギイとガアが考えた末に出した結論は、野菜の代わりに花を届ける事であった。

 

 彼らは励ましの声を掛ける代わりに、花を窓枠に差していく。さくらが目を覚ました時に、それを見て元気になればいい。

 そんな想いが、さくらを鼓舞する。


 確固たる信念こそが、何かを成す力になる。一時的にでも、症状を食い止めたのは、想いの力だろう。


 ギイとガアは、どれだけ話す練習をしても、日本語の発生が出来ない。それは、声帯の構造上、仕方ない事だろう。

 どれだけ足掻いても、叶わないものがある。


 命は、溶けた蝋の様に、再度固めて利用する事は出来ない。燃え尽きるた線香は、ただの灰になる。

 限りが有る、終わりは来る、いずれ誰の下にも、死は訪れる。

 

 ☆ ☆ ☆


 さくらが入院をしてから一週間が過ぎ、二週目に突入する。

 これまで、緩やかに下降をしていたさくらの体調は、再び加速度的に悪化した。


 均衡を保てたのは、兵力増強の為だと言わんばかりに、病原体は侵攻を開始する。

 それは流石のさくらでも、抵抗出来るものではなかった。


 いつ危篤となってもおかしくない、それは明日なのか、明後日なのか、それとも数時間後なのか。そんな状態が、数日ほど続いた。


 さくらは、覚醒している僅かな時間を使って、家族に連絡をした。

 十月半ばを過ぎた日、さくらのPCには、宮川敏久、宮川洋子、宮川敏和の三名が表示されていた。


 さくらの様子は江藤を通じて、東京の家族へ克明に知らされていた。それ故に、さくらが長くない事も悟っていた。

 しかし、実際にさくらの姿を画面越しに見た家族は、言葉を無くした。


 以前の様な覇気が無く、虚ろな表情が痛々しくモニターに映る。酷くやつれ、見る影も無く変わり果て、声はとても小さく掠れて聞き辛い。


 さくらの声は、開発中の発生補助器具を用いて、ようやく聞き取れるレベルになる。

 更に、江藤がオペレーターとして、さくらの声を文字にして、画面へ映し出す。

 そうして、家族の遠隔面会が行われた。


 しかしさくらは、死を目の前にしても、病には一切触れなかった。


「どうだい? 周作は優秀だろ? これでデータは取れたはずだよ。既存の取引に食い込むんだ、販路の確保はしっかりとやりなよ」

「そんな事は、どうでもいいだろ! ばあちゃん、何で会いに行けないんだよ!」

「よせ、敏和。俺達にも、守るべきものが有る。お前の我儘で困らせるな!」

「良いんだよ敏久、あんまり敏和を叱らないでおくれ。踏ん張れなかった、あたしが悪いんだ」


 薬のおかげで、咳は抑えられている。しかし、今のさくらは、ただ意識が有るだけ。

 体を動かす事は出来ない、話す事はほぼ不可能に近い。


 既に敏和は、滂沱の涙を流している。敏久は、顔を顰めたまま、表情を変えようとしない。

 

 さくらは、仕事を投げ出してまで、会いに来る事を禁じた。

 住民でさえ、窓越しでしかさくらと面会出来ないのだ。わざわざ感染リスクを冒してまで、数分程度の面会に、時間を使う必要はあるまい。

 

 確かに、さくらの言い分は尤もだろう。だが、納得は出来まい。

 だから、さくらは無理を承知で、面会を行った。


 文字による補助が無ければ、伝わり辛い言葉。紡ぐ事が、命を削る。

 どれだけの気力を振り絞って、この面会を成立させているのか。

 それが痛い程に伝わる。


 しかし、終わりを感じさせない様に、別れを思わせない様に、さくらは話す。

 どれだけ見た目が変わっても、さくらはさくらで有り続けた。


「こんな時まで仕事の話なんて、流石はお母さまですね。でも、ご自身のお体で、実証実験をなさらなくても」

「今のあたしには、こんな事しか出来ないからね。悪いね洋子、あんたにも我慢をさせた」

「いいんです。こうして話が出来るお時間を、頂戴したんですから」

「感謝してるよ、ありがとう」

「それは私の方です。ありがとうございます、お母さま」


 我慢をしていた。

 今にも尽きようとしている命を燃やし、それでも語りかけるさくらに、失礼だと思ったから。

 だけど、もう我慢は出来なかった。洋子の瞳から、涙が流れ出す。


 さくらは厳しい人だった、それ以上に愛情に溢れた人だった。

 仕事で失敗すれば、激しく叱咤された。上手くいった時は、その倍以上も褒めてくれた。

 それが嬉しくて、結果を出せる様に頑張った。


 敏久と結婚し家庭に入った後も、さくらは事ある毎に感謝の言葉を掛けてくれた。

 それが、やり甲斐へと変わった。


 敏久が好きだったのか、さくらと離れたくなかったのかわからない位に、その存在は大きくなっていった。


 さくらを失いたくない、この時間が終わらないで欲しい。

 それが不可能なのは、充分に理解している。しかし、望んで止まない。

 想いは溢れ、涙は止まらなかった。


「母さん。何かして欲しい事は有るか?」

「それなら、ギイとガア、それとクミルの面倒をみておくれ」

「そんな事か? 彼らは、家族に迎えるつもりだ。任せてくれ」


 敏久は、阿沼に連絡を取った。

 クミルに国籍を与えて欲しい。それが罪である事を理解した上で、頭を下げるつもりだった。

 その際さくらが、既に同様の願いをしていた事を知った。


 さくらの思いを汲み取り、行動したつもりだった。しかし、先んじて行動していたのは、さくらであった。


 さくらは、常に仕事を優先した。そんなさくらに、反発した時期も有った。

 しかし、さくらの下で経営を学ぶ決意をした時、どれだけ重いものを背負っているかを知った。


 従業員、その家族、それだけでも相当の数になる。関連企業を含めれば、膨大な数になる。

 更に顧客を含めれば、どれだけの数になるだろう。

 それだけの、生活を支えるのだ。並大抵の覚悟では務まらない。


 さくらの息子として恥じない様に、敏久は毅然とした態度を崩さなかった。

 それが、せめてもの孝行だと信じて。

 

「あんたは、自慢の息子だよ。あたしには、勿体無い」 

「母さん……、ありがとう」


 それ以上の言葉は出なかった。寧ろそれだけで、充分だろう。

 親子でも、理解し合えない関係がある。互いに尊重出来るから、心が繋がる。


「ばあちゃん、俺……」

「あんたは、優しいね。その優しさを、新しい兄弟に向けてくれないかい?」

「わかってる、わかってるよ。なあ、ばあちゃん。俺、俺さ」

「ゆっくりでいいよ」


 話したい事が沢山ある。しかし、涙で言葉が続かない。

 色んな事を聞いて欲しい、いっぱい褒めて欲しい。

 子供じみた願いだ。それが我儘なのも、理解している。


 大抵の子供は、幼い頃に祖父母と遊んだだろう。そして、父母とは異なる愛情を注がれるのだ。

 敏和には、その記憶が殆どない。


 子供だからわかるのだろう。祖父母は纏った空気が、他の人とは違う。

 そんな祖父母が、少し怖かった。その反面、気になってもいた。怖いもの見たさというものだろう。

 

 敏和は、決して優秀な成績ではなかった。勉強も運動も平凡そのものだ。

 家が裕福なのは知っていた、しかしクラスメイトと違い、何か手伝いをしなければ、小遣いを貰えなかった。


 それなのに敏和は、友人から頼りにされる事が多かった。そして、常に人の輪の中心にいた。

 それから更に成長し社会に出る頃、敏和は自分と他人の違いを知る。


 他人から信頼される、それがどれだけ大変で、どれだけ大切な事か。

 それを幼い頃から教えてくれていたのは、祖父母であった。


 裕福な家庭で、何不自由なく育ったとて、心が満たされなければ、歪んでいく。

 愛情は確かな形となって、存在していた。


 褒められる事が、嬉しかった。認められる事が、嬉しかった。頭を撫でられる事が、嬉しかった。笑ってくれる事が、嬉しかった。


 ばあちゃん、もう一度笑ってくれ。元気になってくれ。まだ逝かないでくれ。

 その一言が出ない。涙が止まらない。


「ばあちゃん……、俺、おで……、がんばるから! ぼっと、ぼっと、がんばぶばば!」


 だから、安心してくれ。

 敏和は、最後まで言葉を紡ぐ事は出来なかった。


 そして、ありったけの愛情を感じ、さくら目を細めた。


「洋子、敏久、敏和、ありがとう」


 それが、最後の言葉だった。主治医からストップの声がかかる。


 最後の時は、家族と共に迎えさせてやりたい。だが、家族と呼べるのは、彼らだけではない。

 これ以上は、ただでさえ残り少ない時間を、費やしてしまう。


 主治医の気持ちを、敏久達は理解していた。

 せめて、苦しむこと無く穏やかな最期を。そんな願いを籠めて、敏久は通信を切る。


 その温かな想いを受け取り、さくらは静かに目を閉じた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る