My cup is full. 4


 

 少しずつ日の入りが早くなっていく。

 六時を過ぎると外は夕闇のカーテンに覆われていた。

 閉店を迎えた店内では、美香と知見、そして恵の三人で片づけをしていた。


「よかった。風邪引いたかと思って心配したんだぞ」

「す、すみません……美香さん」


 テーブルを吹きながら恵は美香に頭を下げる。

 そんな恵の頭を軽く撫で、笑みを返した。


「いいって。目が少し赤いけど、泣いてた?」

「そんなことないです。何でもありません」


 そんなとき、祐介が顔を出した。

 それを見つけた美香は、ひとつの想像が浮かんだ。


「ちょっと、祐介君。チクリン泣かしちゃダメじゃないの!」

「へ? な、なに」

「とぼけちゃって!」 


 美香は祐介に近づくと、人差し指で鼻を弾く。


「恵だって傷つきやすい女の子なのよ。女の子泣かすなんて彼氏失格よ」

「……でも、僕じゃなくて」


 祐介は美香の耳元で事の詳細を簡潔に話した。

 そんな様子を眺めながら恵は、テーブルを拭く手を止める。


 ……また、みんなと一緒に楽しくバイトできたらいいのに。


 呟きながら、夏前の頃を思い出す。

 いろいろあったけど、この店は温かくて、くすぐったいような、不思議な場所。

 辛いことも嫌なこともあったけど、楽しく感じることが出来た。


「恵さん」

「は、はい。……知見さん、何です?」


 振り返るとモップを持った知見が立っていた。


「今日はどうしたんです? 何かあったんですか」

「ちょっと、ね。知見さん、聞いていいですか」

「いいよ。なに?」

「知見さんにとって、このお店は何です?」

「私にとってですか」


 予想していなかった恵の質問に、知見は少し考える。


「大事な友達の思いが詰まった場所ですね。人間って逃げたくなる時があるものです。動物は自分の危機的状況に陥ったとき、まず逃げ出します。逃げられないとわかったとき、戦うんです。でも人の世界って異常だから逃げる場所もないし、戦い続けて自滅しちゃう。ここは避難場所。でも、また歩き出すための休憩所に過ぎません。いつまでも何かにすがっているわけにはいきませんから」


 さらりとそう言い、知見は眼鏡を外した。


「恵さんにとっては、何です?」


 ハンカチで汚れを拭きながら、聞き返す。


「私にとって、大事な場所です。ここがなくなったら私は……」


 私でなくなるかもしれない。

 とは、さすがに言えず、言葉を飲み込んだ。


「恵、唯さん呼んでるって」


 カウンター周りの片づけをしている美香の声がきこえた。


 恵はテーブルに布巾をおいて、急いでカウンターの奥にある部屋へと入った。

 祐介と擦れ違ったとき、軽く頭を下げた。



                   *



 奥の部屋では売り上げを計算している唯の姿があった。

 テーブルに広げられた予約の明細書を横目で見ながら、ノートに書き込んでいる。


「そこに座って」


 唯は目線を帳面から逸らさず、手持ちの赤ペンの先端を椅子に向ける。

 恵は黙って腰掛けた。

 眼の前に座る唯は、左手で頬杖をつき、右手の赤ペンで机をこついている。

 何だろう。

 少し不安に思いながらジッと座っていた。

 静かだった。

 壁一枚向こうで片付けに勤しむ美香と知見の声がする。

 イスの音。

 床を擦る音。

 店先を走りゆく車の音。

 紙の音。

 ノートにペンが擦れる音。

 いろんな音が狭い空間に座っている間に聞こえてくる。


「恵に言っておきたいことがあるの」


 沈黙を破って唯が声を発した。

 我に返り、恵は彼女の顔を見つめる。


「今日から一週間、店に来ないでちょうだい」

「えっ? ……ゆ、唯さん……どうして」

「最近一人で頑張ってくれたから、お休みをあげるって所かな。その間は聖美や知見、亜矢と美香でも呼ぶから心配しなくていい。いざとなったら私がやるから、ゆっくり休みなさい」


 お休み。

 しかも一週間。

 一週間も?


「ゆ、唯さん、私疲れてないですから、お休みなんて……」

「だめ。私が一度こうだといったらそれに従ってもらいます。雇用者は私です。納得できないならお店を辞める?」


 もっと嫌だった。


「……わかりました」

「暗い顔しないの。休みナシに仕事入れたらいやがるのが普通なのに」


 唯は笑いながら仕事の続きを始め、恵はそっと席を立ち、片付けに戻った。

 あらかた店内は片づき終わっていた。


「何だったの、話って?」


 美香、知見、祐介の三人は彼女の前に集まってきた。

 三人に恵は、小声で休みをもらったことを話した。


「つまり、私達が大変になるのか。ま、一週間羽根のばしてきたら」

「そうですよ。最近元気ないって聞きましたよ」


 美香と知見は笑った。

 祐介も笑って頷く。

 けど当の本人は、解雇通告されたような絶望的心情に落ちていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る