My cup is full. 2

 唯は住居スペースの二階にいた。

 キッチンで湯を沸かしてなにやら作っている。


「母さん、何してるの?」

「ん? 祐介か」

「店はいいの? 美香さんと知見さんしかいなかったみたいだけど」


 テーブルの椅子に座った祐介は、唯の背中を見る。

 母親の背中。

 小さい頃から、背中ばかり見てきた気がする。


「ねぇ、チクリンのこと好き? ちゃんと好きって言った? デートしてる?」

「いきなりなに言いだすんだよ。別にそんなんじゃ……」


 目線をテーブルの端にずらす。


「好きじゃないの? そっかー、じゃ、あんたに頼むのやめよ」

「へ? なんの事?」


 祐介の言葉に唯は振り向き、テーブルに湯飲みと急須を置いた。


「あの子、また落ち込んでるのよ。簡単に言えば、新手のいじめっていうか……この前来た芦田未和さんのこと話したでしょ?」

「うん。母さんから聞いたよ」

「どうも天ノ宮で店の悪い噂をまいてるらしいのよ。うちはあんまり気にしない。人の噂なんてものほどあてにならないものだからね。けど、恵はそれがイヤで、たまらなくて。あの子にしてみたら、ここだけが唯一『生きていく』って結びつけることが出来ら、たった一つの場所だから。誰しも一番いやだと思うことは、自分の思い出を壊されることだからね」


 祐介は、しばらく黙っていたが小さく頷く。


「それでね、いま、あの子、恍の部屋で寝てるのよ」

「はい?」


 唯はお盆に載せた急須と湯飲みを祐介の前に置くと、キッチンを出ていった。

『後は頼んだよ』とでも言わんばかりに階段を軽やかに下りていく。


「頼まれたよ、母さん」


 祐介はお盆を持って席を立った。



                   *



 廊下を歩き、一番奥の部屋。

 祐介の妹、恍が使っていた部屋。

 今は誰も使うことなく昔のままになっている。

 ドアを軽く三回叩く。

 このドアを叩くのは三年ぶりかもしれない。


「……恵さん、入るよ」


 部屋に入ると、妹が生きていた当時のまま物が置かれていた。

 三年という時間が、この部屋だけは止まっている感じだった。

 ベットの上には、膝を抱えて壁にもたれかかっている恵がいた。

 祐介には、妹とだぶって仕方なかった。


「恵さん。お茶飲まない? 母さんが作ってくれたんだよ、こんな時ぐらいしか、作らないから」

「ごめん、一人にしておいて」


 かすれるような声だった。

 祐介は聞きながら、湯飲みにゆっくりお茶を注いだ。

 均一な濃さになるように注ぎ分け、その一つの湯飲みを恵に持たせた。


「話は、母さんから聞いたよ。人の噂も七十五日というし、気にしなくてもいいよ。誰に言われたって、恵さんがここで働いて、いろんな事を考えて、感じて、頑張ってきた事実は消えたりしない。人の心の中までヅケヅケと土足で入り込んで踏み荒らせる人はいないんだから。だから安心して」


 恵は黙っている。


「何を言ったら落ち着くのかわからないし、役に立てないかもしれないけれど、傍にいるから」


 祐介は恵のとなりに座った。

 薄暗い部屋。

 カーテンは閉まったままだ。

 時間だけが流れ、耳に静寂さが広がっていく。

 凛、とした沈黙の遠く彼方で人の声がする。

 壁の向こうの店に来ている人の話し声。

 時に笑い、イスを引く音、席を立つ音、いろんな音が聞こえてくる。

 遠く、車の走り去る音。

 バイクが止まる音。

 目に見えない世界が広がっていく。

 取り巻いてる世界は、こんなにもごちゃごちゃ音で溢れている。

 時間が過ぎる。

 恵は祐介の顔を見て、持っている湯飲みを軽く上げる。


「……おいしいね」


 笑みとともに言葉が漏れた。

 祐介も一口飲む。


「玉露だ。お茶のブランディーといわれるように芳醇な美味しさが舌に残る。このうまみや甘みを味わうには、お湯の温度を低めにしなきゃいけない」

「ありがとう、美味しいもの飲ませてくれて」


 恵はベッドから降りると、湯飲みを机の上に置いた。


「祐介君の思い出を踏みにじるようなことをしてごめんなさい。ここ、恍さんの部屋ですよね。……ごめんなさい」

「思い出を残すってことは、悲しい思い出を集めていつまでも抱いていくことじゃないから」


 祐介は飲み終えた湯飲みをお盆にのせて、恵の背中を押すように二人で部屋を出ていった。


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