出逢う前 2

「……ひろえ!」


 返事がない。


「ひろえ!」


 返事がない。



「──ひ、ろ、えっ!!」


「え!?」


 ようやく耳元に届いたその声に、中里宏枝なかざとひろえはハッと我に返った。


「あ、えと……」 視界の中の美緒──高杉美緒たかすぎみおがこわい顔を作って覗き込んでいる。その剣幕に圧されて宏枝の手が小さく泳いだ。


「あんたねえ……」 そんな宏枝に、むーとした表情から心配顔へとそのほっそりとした瓜実顔をグラデーションさせていく美緒。「ぼーっとしすぎ。……ったく」


 そんな美緒の脇から同じ班のクラスメート、篠崎由香しのざきゆかのおちゃらけた声が割り込んでくる──


「と、いうわけでぇ、修学旅行のグループ行動、どこ回るかはひろえと美緒が決めることになったから! 任せたよ!!」


 敬礼っぽく片手を上げている由香の隣で、左腕を欧米っぽく肩をすくめた美緒が、右手の中指を眉間に当てている。


「…………」 宏枝は観念して泣き笑いを浮かべた。



 お昼休みに入ったばかりのA組の教室は、弁当を部室で食べる生徒やパンの買い出しに席を空ける生徒やらで人影が減っていた。


「で、何? なんかあった?」


 たまたま空いていた宏枝の隣の席に腰を下ろした美緒は、登校途中のコンビニで買ったマドレーヌの包装を破きながら尋ねた。

 窓際の席は、初夏の陽射しに明るく浮き立っている。


 宏枝は、カバンからお弁当箱を引っぱり出すと、静かな声で言った。「──手紙がね、来たの」


「手紙? 誰から」


 人差し指と親指に張り付いた甘いマドレーヌの油分をぺろりと舐めて、宏枝の方を向いて訊く。

 手紙というキーワードに男子生徒からのラブレターあたりの線もあるかと、一応、問い詰めるように先を促してみる。


 宏枝は机の上に広げた黄色いクロスの上に自分で作ったお弁当を広げる間だけマを置いて待たせてから、ことさら何でもないことのように応えた。


「──お母さんから」

「……」


 今度は美緒の方が固まった。



「お母さん、って、その──」 二つ目のマドレーヌを口元に運ぶのを止め、美緒はぎこちなく続けた。「ひろえが小学校の時に出てっちゃった、っていう……」


「うん」 宏枝は答えると、赤いラインの入った小さな箸を親指の根本に挟んで、小さく“いただきます”して続けた。「お母さん、いま京都にいるみたい」


「あー、そうなんだ……」 どう話を持っていったらよいか……。思いあぐねた末にそれでも訊いてみた。「仲直り、したの?」


「ううん……」 一拍後の声は小さく、やはり硬いように感じた。「会って話したりしてないもの。わからないよ」


「…………」 それで今度は、宏枝を引き取って育てている祖母はどういう反応なのかを訊いてみた。「おば様は?」


 今度こそ、応えはなかった。



「そか……」


 視線を上げづらくなってしまった美緒は、宏枝の机の上のお弁当を何とはなしにチラと見やった。

 ──お弁当箱のフタの下に隠れてる今日のおかずは、ミートボールとかまぼこと卵焼き……。


 美緒は場の空気を伺いながら、ぼんやりとそんなことを考えつつ、言葉を継いだ。「あ、でも…京都にいるのは判ったんだ」 そこで思い当たった。


 ──きょうと!


 美緒は、いつも通りに宏枝から差し出されたおかずの箱の中から、ミートボールの串を選んで、ちょいと摘まんだ。



「……ひょっとして、修学旅行、抜け出して会い行こう、なんてとか?」


 探るように、声を顰めて訊いてみた。


 宏枝の方は、最初何を言われたのか解らないというように、美緒を見返す目をぱちくりとさせた。

 それから言われた意味が解ると、その発想はなかったというふうに、何度も小さく横に首を振った。



 美緒はミートボールを口に放り込むと、絶妙なソースの甘辛さを堪能してから、宏枝の目を見た。


「あのさ……」


 少しだけ躊躇ってから、それでもゆっくりとした口調で言ってみた。


「──京都、会いに行くんなら協力したげる」



 今度は宏枝の目線が思案気に動いた。

 ゆっくりと小さく何度か頷き、それから箸に挟んでいた卵焼きを頬張ると、美緒に向かってもう一度大きく頷いて、箸を握った右手でぐーさいん──。

 美緒もサムアップサインを返した。



 5月も終わろうという日の昼下がり、2年A組の教室。修学旅行は1週間後。


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