第4話小学生
そうだ、自分は待っていたのだ、ここで食堂の主人が完全に帰ってしまうまで、ここに自分がいて、テントには誰もいなくてという状況を作りだすため。いや、テントで待っていたらどうしよう、何をされるんだ。第一どうしてこんなことになった、僕が何をした? フォークで食べなかっただけじゃないか! もしそれが風習で、そうしないといけないのなら言ってくれればそうしたのに。でもとにかく早くここを立ち去りたい、財布は持っている、でも船がなければどうしようもない、電話は相変わらずつながらない、誰にも連絡できない。泳いで? いや無理だ、自分は水泳はそこそこできて、そこら辺の人間には負けない自信があった。それで海に来たのもあるが、いざ泳いでみると地元の小学生に負けてしまう。波のないプールで泳ぐのと、本物の海で泳ぐのは全くの別物だと思い知らされたじゃないか。船で、帰るしかない。
社の前からは離れたが、まだテントの所には戻る勇気がなかった。すると徐々に港の方から物音がするようになったので、やっとテントに帰る勇気が出た。こっそり行って見ると、そこはしんと静まりかえって何の物音もしない。船の出航する音と光が目に入った途端、自分は取りつかれたようにテントと寝袋を片付け始めた。すぐにその場には何もなくなった。だが頭の中にはいろいろな事がすべて恐怖の方向にしか進んでいなかった。
「旅館の女将が僕の年を知っているのはわかる、宿帳に書いたのだから。でもどうして食堂の・・・そうだ、みんな古くからの知り合いだろう、それに食堂に定期船の船長もいたような気がする、乗船名簿からでもわかる。どうしよう、あの定期船はここから出港する、船長もここの島の人間だ! 派出所なんかない! どうしたらいいんだ、海にでも突き落とされたら・・・なんとでも言えるぞ落ちましたって言えばいい。ここは流れが速い、他の島に何かたどり着くのは至難の業だ。どうしたらいいんだ? 」
ここをすぐに出て行って港に行くのかどうかで迷っている間、星も見ず、美しかったはずの夜明けも見ずだった。そんな余裕など全くない。出港の時間の少し前にはいかなければならない、最終的にこう自分に言い聞かせるしかなかった。
「もし自分が船でいなくなったとしたら、船長は業務上過失致死傷だ、犯罪者になってしまう。それは・・・たぶん・・・大丈夫なはずだ」
港に行くとその船長が定期船に小さな荷物を運んでいた。他の人もいて、楽し
気に作業していた。
「おはようございます」その言葉さえ出ずに、僕はまるで荷物のように船の中に入っていった。
「名簿、書いといてな! 」後ろからの声に頭だけ下げ、偽名とめちゃくちゃな住所を記入したのはもちろん初めてのことだった。客は自分一人、むしろそれは助かったのかもしれない。船長が真横を通り船を動かし始めた。あっという間に岸から離れ海の真っただ中に来た、この船には小さいがテラスもある、そこから落とされたらどうしよう、そんなことばかりを考えて海を見たり、自分の手を見たりしていると、船は徐々に減速し始めた。
「え? 」驚いて外を見た。
大きな窓から別の島の港に立つ、二人の小学生がいた。
「助かった・・・」
一人は大きな女の子、一人は小さな男の子、そうだ、初日に見た子たちだった。
「命を救われた・・・」
彼らが降りる場所は自分と全く同じだ。二人がいる限り、船長は自分に何もすることなどできはしないだろう。小学生に命を救ってもらったなんて、なかなかいない人間に自分はなった。
「おはようございます」「おはようございます」丸い襟が少し似合わなくなってきている女の子と、元気そうな男の子は兄弟の様だった。
「お兄ちゃん、キャンプしてきたの? 」
「うん、そうだよ」男の子はそれからずっと僕と話をした。いつもよりゆっくりと丁寧に話した、何故なら彼らは命の恩人なのだから。昨晩のことを忘れたふりをして、しばし楽しい時間を過ごした。
「さようなら」「さようなら」二人は船が着くや否や立ち上がった。すると
「小学生を先に下ろしてやって下さい」船長のアナウンスに小学生はきょとんとしていたが、邪魔になるのかとすぐに船を降りてしまった。自分も即続こうと席を立った瞬間、ポンと肩を叩かれた。
船長しかいない。僕はゆっくりと振り返り、目と目が合って
「何もせんから、このことは黙っておいてもらえんかね・・・」
にこやかにほほ笑んだ。
自分にとってこの一言は「最後のとどめの一撃」でしかなかった。
誰もいない家に帰りつき、逆に怖さもピークに達してしまったのか、普段よりも念入りに道具の塩を洗い落とした。そうしながらも考えるのはあの妙な儀式事ばかりだった。「何もせんから・・・」あの言葉は、じゃあ黙っておかなかったら酷いことをするとしか取れない。帰りの乗船名簿と行きのものが違うと船長はすぐに気が付くだろう、どちらが本物かは旅館に聞けばすぐにわかることだ。全部ばれてしまっている、意味があるのかどうかわからないが、ブログもすべて消去してしまった。べらべらとしゃべるつもりはないが気持ちが晴れることはない、少々仕事にも影響が出始めたので、自分でもなんとか元の生活に戻そうともがき始めた。
でもどうしても箸が怖い。フォークもあの島を連想させてしまうのだが、究極の二択で、消去法で、フォークを取らざるを得なかった。そうなると楽しみだったあのラーメン屋にも行きづらくなってしまっていたが、気分と気持ちを変えようとそこへ行って見ることにた。「フォークを」と頼むと、案の定妙な顔をされたが、次に行って見ると、大将がとても食べやすいフォークを用意してくれていて、本当にありがたく思えた。
そのことがあってから、やっとあの島のことをネットで調べ始めた。
不思議と何も出てこなかった。箸を使った事件でもと思ったが、もし昔の事であれば、小さな島の出来事だ、それが大っぴらになることなどないだろうとも思った。郷土史まで調べはしなかったが、時間がたってゆくにつれ、「何もせんから」という言葉を信じるしかなくなった、現に、妙な電話など一本もかかってきたこともない。ではそうしているうちに箸が普通に使えるようになったか、と言えばそうではなくて、義務的にしょうがないだけしか使わないというスタイルになってしまった。もしかしたら心のどこかからの「忘れてはだめだ、しゃべってはだめだ」という今の自分へのの警告なのかもしれなかった。それ以外は普通に生活ができるようになり、結婚をしようと思う女性が現れて、その両親の手前箸を使わざるを得なかった。彼女も自分のこの点には気づいていて「手が日本人じゃないのね」と最初は笑っていたが、どうもそんな簡単なことではないらしいと女の勘でわかっている感じがする。
だとしても、話すわけにはいかない、ただただ怖い思いをするだけだ。だがどうしたらいいのだろう、自分でも考えていた。ずっと心に秘めたこと、できればこの重たいことを話しても、漏らさないという絶対の約束を守ってくれそうな人に聞いてもらいたい。
考え抜いた結果、一人の人間が頭に浮かんだ。
「すいません・・・迷惑な話ですね、大将」
本当にすまなさそうに客はそう言った。
「大変だったなあ・・・きつかっただろう。そうだよな、これから子供も生まれるのに、おやじが箸を使わないじゃ変だから。ああ、悪かったな、ラーメン食べた後に聞けばよかった」
「いいんです、冷めてもおいしいから」と食べ始めたが自分は温めたスープをかけてやろうとレードルを鍋の中で回し始めた。不思議とこうしているといろいろな事が考えられる、彼の話を聞て自分なりの答えが見つかった気がした。
「その話はこのラーメンと一緒かもしれない」
「一緒? どういうことですか? 」
「ラーメンも自然にできるもんじゃない、麺を打ちスープを仕込んで味を調えてできるもんだ、もちろん具材も」
「はあ・・・」止まったフォークの横から暖かいスープを足しながら自分は言った。
「つまりラーメンと同じ。
その恐怖は、作ったものだ」
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