第42話 源太郎 逝く
日露戦争が終結した翌年1906年7月23日児玉源太郎は鎌倉の別荘において脳溢血により死去した。
別に長く治療を要するような重い病気を患っていたわけではない。
就寝中に役目を果たしたかのように静かに息を引き取ったのである。
事実前日まで彼は元気であった。
死去する前日は後藤新平が源太郎の家に訪れており満州鉄道の経営方針の話をして最後には満鉄総裁に就任することを彼に懇願しているのである。
最期に一番気心の知れた後藤新平に会い談笑して安心したかのように源太郎は逝った。
いずれにせよ日露戦争勝利において必要な
情報収集と分析
開戦への説得
全体の作戦立案
満州軍創設
旅順への督戦
奉天の会戦の勝利
終戦工作
とこのような常人にはかけ離れたようなプロセスをたった一人で行った源太郎は静かに息を引き取ったのである。
「もし彼が生きていたら」と言う IFを考えることは非常に難しいことであるが。
まずは近々に伊藤博文の後押しで児玉源太郎内閣が発足していたであろう。
当然彼は総理大臣の立場から
1 陸軍省による参謀本部の力の削減
2 満州における民間企業における統治
3 台湾の更なる活性化
4 朝鮮の民間による統治
5 陸軍と海軍とに協調性を要請
このようなことが実際起こっていたのではないかと考える。
またこのことが行われていたならば
昭和に入っての軍部の暴走による太平洋戦争の突入まで回避できていたのではないこと感じる次第である。
また現在の台湾のように韓国の親日化もあり得たかもしれない。
誠に残念である。
このように日露戦争のためだけに生まれて日露戦争が終わると同時にその役目を終えて死去した源太郎の葬儀には大雨の中を各界からたくさんの著名人が参列したのであった。
もちろんその中には「自分が死ぬ時は必ずお前に報告してから死ぬ」と約束した乃木大将の姿もあった。
明治天皇の崩御の時に乃木は妻と自刃したがついにこの約束だけは履行されなかった。
現在源太郎は軍神として2箇所の児玉神社に祀られている。
一つは彼が日露の開戦を前にして多くの新聞社が開戦の如何を聞くために訪れたおりに煩わしく思い逃げだした江ノ島である。
「当時の児玉閣下は海を見ながらずっと考えごとをされていた」と住民に伝えられている。
二つ目は彼の生まれ故郷である山口県徳山(現在の周南市)の児玉町にある。
今でも児玉神社の横にある児童公園に建つ児玉源太郎の銅像は満州の方角を向いて凛々しく建っている。
何も言わない彼の銅像は現在の日本を見て一体何を思い、何を語りかけているのであろうか。
日本を救ってくれた身長わずか150cmの巨人、源太郎の銅像を見ながらさまざまなことを思い浮かべてここに筆を置くことにする。
長い間のご愛読ありがとうございました。
筆者
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