チャックイェーガー

 昔、とあるバイク乗りは言った。「苦しい時にはチャック・チャック・イェーガーと唱えるといい」と。

「チャックチャック」

 気怠げにそう呟いてヘルメットを被る。そしてレース用のグローブを手に嵌め、何度か手を握りしめ馴染ませる。貧相な胸を黒一色の革ツナギの中に押し込みジッパーを首元までしっかりと上げる。

 黒いロケットカウルに空の紫が映し出される。

 車体の横に隠れるようについたウィンカーと機能だけを重視した小さなライト。最低限公道を走る為だけにつけた装備。カウルの膝あたりに付いているミラーも完全に折りたたみカウルの中だ。

 ハンドルを握り、お尻の位置を何度も確認する。それからギアを一速へ入れる。ゆっくりとクリアシールドを閉めると薄っすら自分の顔が反射した。

 私の目標はただ一つだけ。スーパーカブ50で時速100キロを突破すること。それだけ。

 それを胸に右手を捻る。最高速仕様に設定したスプロケの為加速こそ純正より遅い、良くてもどっこい位だが二速からが本命だ。

 60を突破。まだこれから。

 レーシングマフラーからの排気音がさらにデカくなっていく。それに合わせてエンジンの唸りとカウルもバタつき始める。左手で抑えようとも思ったが車体の振動も大きくなりそれどころではない。速度はまだ70の半ばにすら及ばない。こんなはずではない。もっとだ。

 風切り音は原付バイクとは思えないほどの大きさになる。せめて80までは届け。その思いが直キャブの吸気音に響き、高回転を掻き鳴らす。

 その時だった。微かに異音が聞こえ始めた。後ろを覗くとマフラーから2スト並みの煙が吐き出されている。異音は着実に大きくなっていく。ニュートラルに入れて、すぐにブレーキを握りスピード落とす。路肩に寄せて、完全に停車する頃にはパワーもほとんど出ず、カラカラと鳴りエンジンストップした。

 ヘルメットをシートに起きその場にのそりと座り込む。私はただの女子高校生がスーパーカブで出せる限界をこの目で見た。そして実感した。

 その頃には辺りは太陽に照らされ明るくなり始めていた。朝のそよ風が短い黒髪を揺らす。

 私の後ろでエンジンがキンキンと虚しく鳴いている。


 こうして物語が始まった。なんてことない片田舎に住む一人の少女が最速の幼獣カブになる為の小さな物語が。

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