過去二

 こちらに向かって手を振る人がいて、誰に合図しているんだろうと思ったら、アタシにだったから驚いた。近づいてきたのは、この間の男だった。ニット帽を被っていた。

「この時間いつもここにいるのか?」

家がないと知られたくなくて咄嗟に考えたけれど、たぶん大丈夫な答えだ。

「そうだよ」

「お前俺の女になれよ」

「いいよ。なる」

「ためらいねえな、ホント」

 男は一人で笑い出した。普通はためらうのかな。誰かの女になるのはそれはそれで面白いと思った。顔だって悪くない。でもそれはまた後付けの理由。本当のところ、昔からいいという以外の選択肢はアタシの中にあまりないのだ。

 人々が会話しながら脇を通り過ぎていく。少し静かになったところで、男は再び口を開いた。

「お前、名前は?」

「朔良」

「サクラ? どんな漢字書くんだ?」

「むずかしいさくって字に、いい悪いのい」

「むずかしいじゃわからねえな。まあいいや。お前サクな。俺のことはたあちゃんって呼べ」

「たあちゃん?」

「そうたあちゃんな。俺らは恋人だから、浮気すんなよ?」

 街には知り合いすらいなかったのに、突然恋人ができるなんて意外だった。予想外の展開だけど、きっと良い展開だろうとアタシは思う。

 つらいだけだった寒さも、話のネタになった。




 なるべく毎晩歯を磨くようになった。トイレの中に手洗い場も置いてあるところなら全然バレなかった。長くなって、縛るだけで放置していた髪も、銭湯できれいに洗う。本当は服も替えたい。

 恋人ができてから、一人で四回夜を越したと思う。またたあちゃんに出会った。暗くなった空の下にオレンジ色のライトがいくつもつるされていて、その下に嬉しい顔があった。

 少し話をしてから、ファミレスに向かった。

「アタシ今あんまりお金ないからスープくらいしか飲めないけど」

「俺が出してやるよ」

「え、いいよ。悪いよ」

「デートってそういうもんだろ」

 アタシがドリアを注文しようとしたら、たあちゃんは遠慮するなといって、ハンバーグ定食をアタシに食べさせた。久しぶりのきちんとしたご飯は驚くくらいおいしくて、会話もよそにガツガツと食べてしまった。

「うまいか?」

「うまい」

「腹減ってたんだな」

「うん……今日は仕事が忙しくて、お昼食べる暇なかったんだ」

「そうか。何の仕事しているんだ?」

「工場。お菓子作ってる」

「へえ」

 その言葉も先月までは、嘘ではなかった。でも今は嘘になる。なんだか油が胃に苦しくなってきた。

 それからもたあちゃんとは時々会った。駅前を歩いていると、三四日にいっぺんは顔を合わせて、そのままデートした。いつか終わってしまうのが惜しくて、顔を見る度、嬉しいけれど悲しかった。

 冬の風は毎晩少しずつ冷たくなっていった。




 雨に雪が交じっていた。地面に氷の層が乗っている。足下から冷たい空気が上がってきて、足が寒い。

三日か四日に一度は会えるはずだったのに、もう一週間もたあちゃんとあっていない。

 寂しかった。もう会わないのかもしれなかった。

「たあちゃんだってアタシのために生きているわけじゃないんだから、期待したらダメだな」

 口に出して自分に言った。悲しんでいる場合じゃない。生き延びないと行けないんだから。

 街にはクリスマスソングが流れている。まるで幸せでない者はこの街の住人ではないとでもいうみたいに。アタシは結局この街にふさわしい人間ではないのだと思い知らされた。

 でも、今曲が変わって、アタシの一番好きなクリスマスソングが流れ始めたから、許してあげるんだ。名前は知らないけれど、アメリカ人の子どもが雪の中でダンスしながら歌っていそうなこの曲が、アタシは一番好き。

 いつか自分で歌えるくらいに落ち着いた生活がしたい。

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