第50話 運命の刻まで
激しい頭痛と胃の痛みで私は目覚めた。目を開けたはずなのに真っ暗で、埃っぽい臭いがした。自分が何者かに連れ出されたのは覚えている。恐らく土方が手を回したのだろうと今なら分かる。土方は私を戦争から引き離そうとしてこんな事をしたのだ。もしかしたらその機をずっと探っていたのかもしれない。
「ふふっ、なんて人なの。冷徹で残酷で、酷く優しい人……鬼って言われていたくせに」
涙は出なかった。それより私はここが何処なのか知る必要があった。微かに風のにおいがする。その方向へ手を伸ばすと、なにかが手に触れた。カチャと金属音もする。
「これ、土方さんの!」
手探りで引き寄せ胸元で確認すると、それは間違いなく土方の愛刀だった。とても冷たくなった刀の柄を握ると、少しずつそれは温もりを取り戻していく。そしたら私の心にも火が戻った気がした。あの晩の土方の温もりと感触が蘇る。
「土方さんっ……ひじっ、かた、さん。ううっ」
泣けないと、思っていたそばから零れだす涙。もう感じることがないと思っていた悲しみや切なさと、抑えきれない愛おしさが溢れてくる。土方の情に全てを許した私は、土方の側から離れることまで許してしまったのだ。だから、女は駄目なんだ! ずっと、ずっと鉄之助でいなければならなかったのに。
私は土方から預かった荷物を背負い落ちないように前できつく縛った。ここがどこであるかを確認しなければならない。ゆっくりと立ち上がり壁づたいに歩いた。慣れない女物の着物に足を取られながら出口を探した。
「ここ、かな」
風の行き来が盛んな壁を力を入れて押してみた。するとなんの抵抗もなく扉は開いた。潮の臭いが鼻をつく。
「海! いや、港だ。どこの……」
外は日が落ちて暗く、人の気配はほとんどなかった。とにかくここを出なければならない。どれくらい時間が経ったのか分からないけれど、外気の冷たさから察するにまだ蝦夷地だと思われる。一歩足を踏み出して気配を殺しながら外に出た。私は船の上にいるようだ。停泊中の船は波に揺られ、私の覚束ない足取りでは上手く歩けなかった。いや、体が思うようにいかないのだ。
「つあっ……いったぁ、く」
どれだけ強く私は殴られたのか。もしかしたら知らない間に薬でも盛られたのかもしれない。相手の思わくは恐らく目的地まで私を大人しくさせたかったのだろう。
「はぁ、はぁ……痛ぁ」
歩くたびに腹は痛むし、船が揺れるたびに胸から苦いものがこみ上げてくる。何処かで吐いたほうがいいかもしれない。なんとか足を進め、船梯子までやって来た。そこから岸に降りればまだ間に合う。
カタン……と、私の重みでその梯子が揺れた。
「誰だ!」
(しまった……)
ここで捕まっては意味がない。それに今の体力では戦えない。……ならば!
私は梯子を伝って静かに海に浸かった。音を立ててはならない。息を潜めてしのぐしかない。
「おかしいな。なんの音だったんだ……風か」
見廻りの男はそう呟くとまた何処かへ消えた。それを確認して私は泳いでその場を離れた。得意の泳ぎとは言え、まだ冷たい北の海、そして水を吸い込んだ着物は恐ろしく重かった。とにかくここから離れなければ……私は必死にこの手をかいた。
*
ざざーっと、耳元で音がする。体は冷え切ってもう動かない。遠くで人の声がする。やはり逃げ切れなかったか……。
「……くん! ……らくん! 市村くん!」
誰かが私の体を揺すりながら市村くんと叫んでいる。私は無意識に市村鉄之助に戻ったのだろうか。それよりも鉄之助を知っているらしいこの声は誰だろう。でも瞼は重く開けられない。指一本も動かす力が湧かない……。
はたと目を開いたとき、私は確かに布団に寝ていた。家主は誰だろうなどと頭は考える。
「わたし、生きている」
布団のぬくもり、畳のにおいがそう思わせてくれた。海を泳いだのは覚えているけれど、どうやって陸に上がったのかまでは思い出せない。流されて打ち上げられたのか。
「あっ、刀っ」
解けないよう体に結びつけていたはずの刀は何処に行ったのか! 私は布団から這い出しあたりを見回した。包の袋を見つけたけれど刀はない。どうしよう! 呆然としていると、静かに障子があいて聞き慣れた声が後ろからした。
「目が覚めたんだね」
「お、大鳥さん!」
大鳥はしっと唇に人差し指をあて、静かにしろという合図を見せた。私は口を閉じ、大鳥が部屋に入ってくるのを見ていた。大鳥の手には、私が探していたものがあった。大鳥はコトンと土方の愛刀を前に置いた。大鳥は別の部隊を率いて明治政府軍と戦っていたはずだ。私はそんなところまで流されていたのか。
「市村くん。これはどういうことかな。説明してもらえますか」
「説明……」
私が何をどう話したら良いのか考えあぐねていると、大鳥は痺れを切らしたのか再び口を開いた。
「君は土方くんの刀を盗んで逃亡を計ったのか。僕はてっきり君は、二股口守備に専念していると思っていたよ」
「違います! 盗んだのではなくて……その、朝起きたら文と一緒に置かれてあったのです。その代わり、私の刀はなくなっていました。恐らく土方さんが持っていったものと思われます」
「なぜそうなる。朝起きたらなくなっていたと驚いたのは二股口にいる土方くんだろ」
「だからっ……違うんです!」
まさか一夜限りの情交を他人に話さなければならないのかと私は追い込まれた。自分だけの大事なものとして、この胸に閉じ込めておきたかった。しかし、今はそうも言ってられそうもない。私は言葉を選びながら大鳥に事の経緯をはなした。
「二股口から援軍を求めに五稜郭に土方さんと戻りました。二股口はなんとかしのげていたのです。状況報告を終え、翌日また戻るつもりでいました。しかし、土方は一人で戻ったのです。これを残して」
一度濡れてしまった文はしわしわで全文を読むことはできない。けれどそれ以外に証拠はなかった。大鳥はゆっくり丁寧にその文を開く。じっと黙って大鳥はそれを見ていた。しばらくしてその文が返される。
「君の名は常葉と言うんだね」
「っ……、はい」
「君は土方くんに愛されていた。故に土方くんは君を捨てたんだね……可哀想に。土方くんの立場ならそうするしかなかっただろうね。君を守りたいなら自分から離すしかない。これを必ず届けよと命令することでしか守れなかった。あれ程の武運を持ちながら、時勢はちゃんと読んでいたということか。はははっ! やはり彼は死を選んだか。最期まで武士として抗うつもりかい」
「大鳥さんっ! 私は死なせたくないのです。それは無理なことでしょうか。私が死ぬなと、願うことは罪なことでしょうか……」
武士とはなんなのか、未だに私は理解できていないのかもしれない。勝つことに拘るくせに、負けたときの自分の身の振りまでも拘りたがる。
「滅びゆくことへの美学など、くそ喰らえです」
「顔に似合わずすごいことを言うね。ま、確かに死んだからってそれが何かに影響することはほとんどないね。あるとすれば自己への慰めと満足感だけだろう」
「私たちは善ではないですけど、悪でもないはずです。この戦争が終わったあとこそ、大事だと思うのです! 生きなければ……上に立った者こそ、生き抜くべきです!」
そう私が叫ぶと、大鳥は俯いて肩を揺らしながら笑いだした。子どものくだらない戯れだと思われのだろう。ひとしきり笑うと大鳥はすっと表情を戻した。
「僕のところにこないか。僕なら君を捨てたりしないし、死なせもしない。僕自身も命と引き換えになんてしない。したたかに生きてみせるよ。君に不自由なんて、絶対にさせないよ」
「何を仰るのですかっ。わたしはっ、ひゃっ」
大鳥は私を布団に押し倒し、組み敷いた。そうして耳元で甘くささやくのだ。土方のことなど忘れて、僕と生きようと。異国に逃げてもいい、君に不自由はさせないと。土方は私が誰かとそうなっても咎めはしないだろう。そうなるように私を突き放したのだから。でも、ならばどうしてあの晩私を抱いたのか。この体に土方の存在を残したのか……。
「ううっ……ふっ……うわぁぁぁん。土方さんのばかぁ。離さないって、ずっと側に置くって言ったじゃないですか」
私は子供に返ったように泣いた。泣いたって何もならないと知っている。でも泣くことでしか自分の精神を守ることができなかった。結局のところ私は、大人になりきれていないのだ。
「君はそんなにまで土方くんを。よしよし、泣きなさい。困ったもんだね君の
大鳥は横になったまま私を抱き込んで、背中をとんとん叩いたり、上下に擦ったりしてくれた。それも私が泣き止むまでずっとだ。この大鳥も優しすぎる。みんな、みんな優しすぎる。
そうして
「大鳥さん。申しわけありませんでした! 私はどんなに危険でもやっぱり」
「分かっているよ。君の気持ちはよく分かった。僕の方こそすまない」
大鳥はそう言ったあと、すぐに戻ると一度部屋から出ていった。そして戻ってきた大鳥は私に新しい軍服を差し出す。
「大鳥さん! これはっ」
「正直に言うと我々の情勢は非常に厳しい。あとは籠城戦となるだけだ。我々は五稜郭に帰る途中だったんだよ。その途中で君を見つけた。江差も松前も敵の手に落ちた。残っているのは土方くんが率いた二股口だけだ。それももう厳しい。皆、本陣である五稜郭に戻るだろう」
「そんなに、劣勢なのですか」
「君も、行くだろ。やれるところまでやるかい?」
「はい!」
土方になぜ戻ったと責められるかもしれない。命令に背いたと咎められるかもしれない。それでもいい。それでも私はもう二度とあなたと離れない。例えそれが死を意味しようとも。
私は軍服に着替え腰に土方の刀を差した。
「五稜郭に帰還するよ」
「はい!」
そして私は五稜郭に向かった。それが大きな運命の刻を迎えなければならないなど、知らずに。
(土方さん! 早くあなたに会いたい!)
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