第44話 雪深し、あなたの懐、尚深し
雪がしんしんと降り始めた年の終わりは、一年前の京を思い出させた。いや、京の冬はこんなに寒くはなかったし、こんなに雪は降らなかったな。そんなことを考える時間ができるとは思わなかった。江差から凱旋してからは刀を抜くことも、銃を構えることもない。さすがの明治政府軍も荒れ狂う危険な海峡を渡ってまで戦争はしないらしい。気を抜くと腰まで浸かってしまう雪では戦うこともできないからだ。
「暫く休戦だな」
「今のうちにゆっくりと休んで下さい」
「ばか野郎。そこまで暇じゃねえよ」
「それは失礼しました」
入札で陸軍奉行並に選ばれた土方は何だかんだと忙しいようで、会合に呼ばれたり市中の取締りをしたりしていた。私は体が鈍ってしまいそうで不安だったけれど、心の何処かで安堵していた。明治政府軍は蝦夷のことを諦めたりしないだろうか。そんな甘い願いをいだいてしまう。
「なんだ、情けねえ顔だな。あれか、おまえ雪でお遊びたいんだろ」
「いえ」
「遠慮することはないだろ。よし、今日はなんもねえから遊んでやる。来い」
「別に遊んでほしいわけでは」
「つべこべ言ってねえで来い!」
私は土方に脇を捕まえられて部屋を出た。外に出るなり土方は私を放り投げた。積もった雪にすっぽり包まれた私はその柔らかさに驚いた。気のせいか、少し暖かい。
「わぁっ。な、何するんですかっ。あれ、土方さん。どこですか。土方さんっ」
じたばたともがきながら立ち上がると、そこに土方の姿はなかった。見渡す限り真白な雪景色が広がっているだけ。
「鉄之助くん、そんな所で何をしているんだい。まるで雪うさぎだね」
通りかかった島田と相馬が寒そうに首を縮めながらそういった。
「土方さんに投げ捨てられてこの有様です。その本人はどこに行ったのでしょうか。まさか一人で戻って火鉢にあたって」
「俺はそんな薄情じゃねえぞー」
「えっ、きゃぁっ」
土方の声がした方向を振り向いたら目の前が真っ暗になった。下を向くと大量の雪が頭から落ちる。どうも私は土方に雪の塊を投げつけられたらしい。首に雪の粉が入ってとても冷たい。
「土方さん! やりましたねっ。島田さんも相馬さんも見てないで加勢してください。あの、奉行並を倒すのですっ」
「ほう、やれるもんならやってみろ。おい、沢。お前はこっちに来い」
いつの間にか雪で玉をつくる合戦となってしまった。雪で足を取られ思うように動けないけれど、その代わりに手で雪の塊をたくさん作って投げた。あの土方が少年のように悪戯な笑みを覗かせて沢に耳打ちをする。沢も黙って頷いてそれに従う。島田はひたすら雪玉を作り、それを相馬と私が投げた。すると沢がぴょんと飛び上がり木の枝に乗った。その動きにつられて見上げると大量の雪が落ちてきた。
「うわぁぁ! 沢、きたないぞ」
その雪は案の定、私の体をめがけて落ちてきて全身が雪にまみれた。私は頭をぶんぶん振ってその雪を払った。それを見たみんが笑う。私も思わず声を出して笑った。そんな仕合せな刻限を共に過ごせていることが、心の底から嬉しかった。いつまでも続かないと、知っているから尚更にそう思ったのかもしれない。
「テツ、ここの違いだよ」
土方はこめかみを指で突きながらそう言った。沢に耳打ちをしていたのはこの事だったのだ。私は唇を噛み締めた。
(仕返し、してやるんだからっ)
「私の負けです。すみませんが手を貸していただけませんか。脱出できません」
「おうそうだな。このままじゃ雪像になっちまう。ほら」
「ありがとうございます!」
「おい! おわっ」
土方が伸ばした手を私は両手で掴み、体を思い切り後ろに倒した。こうなったら道連れにしてでも土方を雪に沈めてやる! そう思ったから。私の思わく通り土方は態勢を崩した。
「土方さんっ、鉄之助くんっ」
みんなの驚いた声と共に私と土方は雪に埋もれた。真っ白な銀色に輝く世界に土方の体が沈む瞬間を、なぜかとても美しいと思った。そしてすぐに真っ暗になった。土方を引っ張ったせいで私はその下敷きになったからだ。でもそこに想像していた重みはなかった。
「テツ、おまえヤッたな」
土方は咄嗟に片手をついて私との間に隙間を作っていたのだ。下から見上げた土方は片方の眉を吊り上げている。
(まずい……)
「なるほど……」
「な、何がなるほどなのですか」
嫌な予感しかしなかった。
「そんなに俺とこうしたかったのか。おまえには不自由させて悪いな、あいつ等に見えてないから少しだけ応えてやるよ」
「は、何をっ! んー」
土方の唇が私の唇を覆った。とても冷たくて驚いた。なのに漏れる息は熱くて、顔にかかった雪が溶けていく。手で避けようとしたら土方からその手を押さえられぎゅっと握られた。土方の大きな手にそうされると体ごとそうされているみたいで胸が騒いだ。
(土方さん……)
土方の気持ちは分からない。好いているのは私だけかもしれない。それでもいい、土方がこうしたいのは今は私だけだと勘違いしていたい。
「んっ……ふぅ」
「二人とも大丈夫ですか!」
ガサガサと雪を掻き分けて島田がやってくる気配がした。土方は顔を上げにやりと笑った。
「あー、島田。悪いな、引き起こしてくれ」
「ああよかった。怪我はないですね」
「すまんな。このクソガキにしてやられたな。くははっ」
土方も笑った。
私はその笑顔を見られただけでいい。これ以上を求めてはいけないんだ。土方の笑い顔を見てまたみんなが笑う。
(土方さんはみんなの副長だから)
私一人のものではない。土方はもはや新選組だけのものでなく、旧幕府軍を率いる重要な任を担っているのだから。
「おい、風呂に入るぞ。濡れたままじゃ凍ってしまう」
「そうですよ! 湯を沸かしますか」
「全員で入れねえだろ。おまえたちはここでは入れ。テツおまえは罰として俺と来い。いいな」
「え、そんなぁ」
ご愁傷さまとばかりに島田たちは風呂に向かってしまった。どちらにしても私は風呂には入れない。だからせめて着替えたいのに。
「土方さんも風呂へ。私は着替えてきますから」
「何を言っている。体を温めないと風邪ひくぞ」
「でも私は!」
「だから外に出たんだろうが……」
「……ぁ」
土方の気遣いにようやく気付く。裸を晒すわけにはいかない私はみんなとは風呂に入れないからだ。と言うことは、女湯に……このかっこうで入れるのか!
*
湯けむりが立ち込めて体は芯から熱くなる。私が土方ときたのはとある民家だ。実は土方は宿陣地から離れた町に家を借りていたのだ。つくなり土方が自ら火を入れ湯を沸かした。まさかこんな場所があったなんてと私は驚いた。
「一人になりたいときがあるだろう」
そんな理由だった。
確かに土方は忙しすぎるから、こうして一人で過ごしたくなる気持ちは分かる。私は久しぶりにゆっくりと熱い湯に浸かった。いつもはみんなが入って寝たあとに、息を殺して入っていた。それに火をまたつけるなんてできないから、いつも体を拭う程度で終わっていた。土方はそれを知っていて、私に先に入れと一番風呂を譲ってくれたのだ。
「あぁ、気持ちいい」
このまま寝てしまいそうだ。湯船の淵に頭を預けたその時、戸が音を立てた。
「土方、さん」
「寝るなよ。死ぬぞ」
様子を見に来てくれたのか、そんな事を言われた。
「起きていますよ」
「そうか」
「はい、ちゃんと……えっ、あ、まっ」
湯けむりに包まれた土方がそこに立っていた。私は慌てて立ち上がろうとして思い留まる。自分は裸ではないかと。
(襦袢を着て入ればよかった!)
「湯が冷えてまた火を入れるのが面倒だからな。俺も浸かることにした」
「すみません、長湯をしてしまって。あの、私、出ますからどいていただけませんか」
土方はそんな私の言葉は聞こえていないかのように、肩から湯を被りなんと私の隣に入ってくる。ザザぁっと溢れる湯をそのままに、土方は肩まで沈んだ。私は何がなんだか理解できず、土方に背を向けるだけで精一杯だ。
「な、な、な、なんで!」
「ああいい湯だな。しっかり温まれよ」
「こんなこと駄目ですよね」
「男同士なら構わんだろう。なあ、鉄之助」
「えっ」
振り向かなくても分かる。土方は肩を揺らしながら笑っている。知っているくせに、このようなことを言って私を困らせて、そんな私を見て楽しんでいるに違いない。
(酷い男だ!)
背後で湯が揺れる音がする。その度に心臓が落ち着きなく騒いだ。別に何かを期待しているわけではない。ただ、この狭い湯船に二人で浸かっている状況が落ち着かないだけだ。
「なに固くなってやがる。何もしねえよ」
「はっ、当たり前です。知っていますよっ、もう出ますからね。その向こうを見ていてください」
「分かった分かった」
「絶対ですよ!」
「ああ」
私は土方に念押しをして湯船から飛び出した。そばに置いてあった手ぬぐいを拾い上げ脱衣場に身を隠した。自分の胸が、騒がしい。
「しっかり拭けよ。くくくっ」
「わ、笑わないでくださいっ」
土方と風呂に入ってしまった。何ということだろうか。火照った体は土方のせいか、それとも湯で温まったからなのか分からない。指先がほかほかと熱を内側から放っている。こんな感覚は久しぶりだった。
「ありがとうございます」
戸の向こうの土方に礼を述べた。もしかしたら聞こえていないかもしれない。それならそれでいい。土方の優しさに触れた私は、またこの想いを募らせる。
厳しき蝦夷の冬、春は待ち遠しけれど明けるなかれ。
戦争なんて忘れてしまえばいいのに。もう、この北の大地だけはそっとしておいて欲しい。この人の笑顔を消さないで欲しい。
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