第7話 もう一つの顔
人は目標に向かって進むことがあるといい。それは決して真っ直ぐ進むことなど至難の業、曲がりくねったいくつもの交差点。時に立ち止まり振り返ることもいいだろう。されど遠回りしたからこそたくさんの「道」を覚えたことになる。
1992年10月某日
長野県軽井沢町
無数なほどの針葉樹が空に矛先を向けている様に力強さと美しさを感じる。今にも打ち上げられそうなほど真っ直ぐに天を向き、朝霧で白くデコレーションされた具合がちょうどいい。
どこからかピーボ・ブライスンの曲が聴こえてくる。景色に甘く爽やかな歌声がよくマッチしている。
吐く息が白いことで気温の低さを知るが思いの外実感はない。
山小屋風のホテルをバックに整然と並んだテニスコートが広がる山間のリゾート地で開催されている「ポルシェ軽井沢フューチャーズ」、センターコートに立つ栄一の勇姿は物憂げな表情、体に張り付いたTシャツ越しに引き締まった胸筋が安易に想像出来る。
この大会第3シードでの出場は栄一の実績ながら妥当なところ、シード上位2人のうち第1シードのボブ・ダイアン、アメリカ人20歳、過去に一度、栄一がプロ入りする前に対戦し栄一の惨敗に終わっている。高身長からのサーブとアメリカ人らしいパワーを活かした攻撃的なプレースタイルはフォームが独特なのが印象的だった。栄一のテクニックは脆くもボブのパワーには子供騙し程度、5000ccの排気量で100円玉を撒き散らしながら走るような低燃費車に国産の軽自動車が湾岸線でレースを挑むほど、クラスの違いから見せつけられた試合だった。あれから栄一のレベルも上がったことは間違いないが、ボブに至ってもビジュアルで分かる通り一回りくらい体がデカくなっている。それにチャレンジャー大会で一度優勝したことの情報も得ていた。
(ボブとやりたいな…)
ボブと対戦するには決勝でしか叶わない。
(ボブまでは負けない。)
3回戦、対小川武プロ
これと言った「武器」を警戒する選手ではないがプロキャリア既に10年越えのベテラン、顔に深く刻まれた皺が年齢よりも実践の奥深さを感じさせる。その栄一より何倍も経験を積み重ねたテニスにどう応戦すべきかと考えるところ。
序盤はお互いギアを上げず(小川はどうか、栄一は流す程度のプレー)様子見と言った空気。ゲームカウント4-4小川のサービスゲームで栄一が勝負を仕掛ける。明らかにエースを意識したリターンがダウンザラインに、レシーブダッシュから怒涛のボレー、小川が警戒したところでドロップを絶妙なタッチでネット側に落とす、まるで表情を失った薔薇の花が枝から自然に落ちるが如く。ラブゲームでブレークし次のゲームはサーブ&ボレーで一気に畳み掛け第1セット奪取。観衆はそこまでのプレーがなんだったのか理解出来ないほど、あっという間にスピーディーな展開であった。
そしてこの展開がスイッチとなり第2セットは栄一の一方的な攻撃、そして小川がなんとか凌ごうとするも及ばず、こんな流れの試合では時に小川のスーパーエクセレントなシーンでも栄一が切り返してしまう、栄一らしいプレーがさらに際立つ。
しかし、万全に見えるプレーのなかで時折見せる栄一が首を傾げるシーン。「何か?」納得の行かない神妙な面持ち。見る側からは伸びのあるグランドストローク、シャープに決まるボレー、走らされてもまるで決められていたかのように突き抜けるパッシング、のように見えても栄一にとっては70点くらいの出来栄えなのだろう。
3回目のコートチェンジの際に、ベンチに腰を下ろした栄一、
(疲れるな…、体力下がったかな…。)
体調が悪いわけでもなく、ロングマッチの末でもなく疲労を感じ、額を流れる汗の種類がいつもと違うような気がする。確かにここのところ試合に出ていなければクラブに入ってレッスンが多い。特にジュニアたちのレッスンとコミュニケーションが増えた反面、自身のトレーニングが不十分になってしまっている数ヶ月を過ごしてしまったことを振り返っていた。
(明日から走ろう。走ればまた戻る。)
栄一はまだまだ体を鍛え上げることが必要な年齢であること、体に負荷をかけることで各部位が声を発し必要なことを求めて来る。そんな自身の「体との対話」がここしばらくは無かったことに気づく。どんなに技術があっても土台となる体力が下がればメンタルにも影響すること、すなわちアスリートの基本を頭の中でなぞっていた。
その後2ゲームを連取し6-1でゲームセット、試合後に小川から祝福の言葉に変わる「力強い握手」をいただきしばらく手が痺れているようだった。
(ボブへの仕返しまでにもう一つ…)
(待ってろよ、ボビー。あなたには借りを返さないといけないから。)
決して毒気はない。むしろ自身が成長し「成功するための失敗」を教えてくれた良きライバルへの感謝を込めた思い、私自身が気付かなかった心の中にあるスイッチを押したのはあなただ。だからこそ今の自分が今ここにある。
この日、前日までの降雨でオーダー変更が重なり準決勝まではダブルヘッダーのスケジュールに。小川プロとの決着にあまり時間を要することのなかったことは栄一にとって幸いだった。
約1時間を空けて準決勝対松本浩和(日本大学)との試合がオーダーに貼り出される。
空き時間で体力は回復したものの気候のせいもあり体が冷えてしまうことを懸念して15分ほど前からワークアウトに没頭していた栄一のシャツは汗が滲み出している。
ジュニアから名を爆ぜる松本は、まるで筋肉の塊のような丸っこい体型、その出で立ちから相手に凄みを感じさせるようだが栄一には通じることはなかった。何よりスタイリッシュではない。ビックマウスから発せられる言葉の数々は、自信と言うよりも「あざとさ」さえ思わせる。言葉よりも行動で結果を出せ。ラケットを持っていなければ別の競技を想像させるだろうが、それがテニスと聞き違和感を感じても不思議はないビジュアルである。栄一はカッコ悪いことが嫌いであって松本に負けることはとてもカッコの悪いことだと悟り、完膚無きまで打ちのめすことを心に決めていた。
第1セット序盤、栄一はミスのないようなプレーに努める。「筋肉くん」は必死な形相で全てのボールにヘビーなトップスピンをかけようとフルスイングしてくるが、一打一打毎に奇声を出すのが薄気味悪い。回転量ばかりで脅威ほどの球威は体感出来ない。ボールは跳ねるがコースが甘いので振られてもリズムよく追いつき返球しやすく、跳ねる分高い打点から打ち下ろせるイメージが作れる。まだ本領までのプレーは出していないのだろう。
攻撃性をあまり感じない松本のプレーに付き合っているとラリーが長くなり、今の栄一には試合後半で体力的に不利になることを早々に察するが、もうしばらくは様子を見てデーター収集と講じよう。
サーブは背が低いことからスピン系、基本的にベースライナー、対ネットプレー時に急激にボールが速くなりパッシングは冴えている。ディフェンダー特有のスタイルであること、回り込むフォアハンドからのショットは引きつけたところから凄まじい勢いでボールの真後ろを叩き、まるでスマッシュを打ったのかと間違えるほどでなかなか読めない。
(付き合ってるとヤバそうだな…、攻めるか。)
栄一は松本のペースになる前に先手を打つことを企てる。サーブ&ボレー、チップ&チャージを軸に栄一らしいスタイルで速攻と参りましょう。とは言うものの、準決勝まで勝ち上がってきた相手だけにそう簡単に栄一の思い通りに試合は進まず、サービスゲームは栄一のペースだが、松本のサーブからの展開では後手になることが多く、お互いがキープを守りゲームカウント4-4、栄一のサービスゲーム。
(第1ポイント…だな。)
栄一はここで松本が仕掛けてくることを読んでいる。セオリーとして。。素直なショットやプレーで先手を取られることは避けなければ致命傷を負うことになりそうだ。ならば…
栄一はあえてこのタイミングでステイバックを選ぶ。サービスダッシュで来ると思った松本はリターンをスライスで沈めたものの、
(あっ!)
力の無いボールはベースラインにいる栄一にとって格好のチャンスボールになりすかさずオープンコートに叩き込む。
計算通りの展開に満足であるはずの栄一、それでも顔の表情は何も変わらない。
松本は頭の中を見透かされたことに苦笑い。
この第1ポイントを取れたことで、このゲームの空気が優位になった栄一、気持ちに余裕を持てることで次のポイントのプレーがシンプルなリラックスしたもので賄えることを感じ取る。
(センターにスライス~1stボレーをフォア側へ~パスはショートクロス、もしくはロブで逃げる...)
思考がいつもの栄一を奏でる。そんなイメージのままアドレスに入り、栄一は松本を視界に入れずに少しだけトスアップを前にしてから一気に振りかぶりネットに飛び出す。スマートでかつシャープなパフォーマンスはイメージ通りのプレーに申し分のないスタートが切れた...はずだったのだが。。サービスライン手前でスプリットステップを取った栄一がその次に見た光景は…
(えっ!)
筋肉武装した松本の丸っこい体が、いつのまにかすぐ目の前に、まるで鼻息が聞こえてくるほど近くにいた。それは瞬間移動したかのよう。
(いつのまに…)
彼はラケットを大きく引き、地面から上がりっぱなの切れて逃げて行く前のボールを迷うことなく引っ叩く。あまりにもの至近距離だけに松本の鼻息が聞こえたように思えた。ボールは見事なまでのヒッティングからネットダッシュした栄一に向かって突き刺さってくる。栄一は返球どころか避ける暇もなかった。
(うっ…)
大きく見開いた瞳もつかの間、その瞳に向かって飛び込んで来るボールに書かれた赤いメーカーロゴが見えた直後、顔面に鋭い衝撃と、鈍い音がしたことは微かに覚えているが気がつけば真っ白な部屋のベットから天井に設置されゆっくりと羽が円を描く大きな扇風機がぼやけて見える。顔が熱く、なんだか腫れぼったく感じる。
「市川プロ、気が付きましたか?大丈夫ですか?」
と、声が聞こえて来る方に目をやるとそこには、確か大会役員だったと思われる男性がインカム片手に心配そうな表情で栄一に近寄る。
(確かあの時…、目の前にボールが来て…)
栄一は「その時」のことを思い出し少々心外であるが憤慨もした。松本の思い切ったプレーにリズムが取れず、ボディーに刺さるボールを避けることさえ出来なかった自分に腹を立てる。
看護士の女性が栄一の顔の包帯を直しながら、
「痛みますか?出血はもう止まってますので安心したください。」
(出血…?)
松本のリターンを顔面で受け止めた栄一は足がもつれた態勢から転び後頭部から地面に倒れた。ボールの直撃で鼻血を噴出させたとのこと。
不幸中の幸いなのか、もう3センチずれていれば眼球の保証も出来ないほどの場所だったようだが大量の鼻血はコートに広がり、栄一はもとより救助に当たった役員やボールボーイの衣服や身の回りが血痕だらけになって、まるで猟奇殺人現場のようであったと言う。おもむろに目を向けたチェストの上のカゴに栄一が着ていたシャツと短パンが真っ赤に血に染まりビニール袋に入れて置いてある。その赤い部分から流れ出た血の量の多さが良く分かる。
壁にかかった大きな柱時計を見て、ずいぶんと時間が経っていることに気がついた栄一に、
「お察しかと存じますが、医師と審判からの判断で試合は市川選手のリタイアと決定しています。残念ですがご了承ください。」
「わかりました。仕方ないです。こんな顔を曝け出すことは私も望んでいません。それより皆さんにご迷惑をおかけして申し訳ありません。」
大会役員が少し間をおいてから、
「松本選手もかなり心配をしていて、ついさっきまでベッドの横で市川プロの様子を見ていましたが。明日の決勝のミーティングで会場に戻りました。」
栄一は役員の男を見ながら、
(どうでもいい...)
表情を変えずにそう思っていた。
栄一は自身のアクシデントで負けた経験が初めてだけに納得せざるを得ないが、あの「筋肉くん」に負けたことを受け入れることはしたくなかった。なによりもカッコ悪いあの学生に。。
「今日はこのまま泊まっていってください。先ほど脳の検査も済ませて特に異常は無かったのでご安心ください。ただ、目の近くに打撃を受けているので眼圧と眼底の検査を明日行います。」
優しく話す小柄な看護士はウエリントンスタイルのメガネをかけているせいか知的に見える。
「僕の顔、大丈夫ですか?鼻とか唇とかちゃんと付いてます?ちょっと見てみたいんだけど。」
「大丈夫ですよ。ちゃんと付いてますから。今はまだ腫れてて、以前の男前が少し可愛くなってますけどね。」
看護士は、まるで注射を嫌がっている子供に向かって話すような口調で栄一をたしなめた。この笑顔ならばきっと注射も痛くないように思えてしまい、実際針が刺されば痛いに決まっているのだが、まんまと騙されてしまいそうな「顔」だ。
(実に女は様々な「顔」を使い分けている生物だと思う。人によっては素顔は寝ている時のみで、起きている時はどんな場面でも、いや場面に合わせた顔をクリエイトしてビジュアルと印象に加点される表情をいくつも持ち合わせる。それに化粧が加われば劇的に変身しマジンガーZの完成である。言い訳になるのだろうが化粧を否定することではない。ただ、言葉のごとく「化ける」ほどの変化であることは否めないだけに、例えばお風呂上がりの顔はまさに「別人」。綺麗に作り上げられた状態と、全てが洗い流され素材が露わになった状態、どちらを「本人」と認識すべきか、それは…。)
そう言いながら包帯を外し始める彼女が近付くとシャンプーの香りだろうか、いい匂いが栄一を包んだ。
(甘く危険な香り…)
包帯が解かれていく姿を写した鏡を眺めながら、先ほどの松本との試合のシーンが蘇る。。
栄一の顔が全て現れ、左右に顔を動かしながら自身の変わった顔を眺めて発した栄一の第一声、
「いい顔だ。」
腫れ上がった左半分の顔は鼻の高さまで差がないほどに。左目は自力では開けられず見えない。左右非対称の顔はハリウッド映画の特殊メイクのようだった。
「でも好きな人には見せられない。みんな、こんな顔二度と見られないからちゃんと見ておいてね。」
失笑が漏れ、場の空気がとても軽いものになったのは栄一の気遣いもあったのだろう。
「腫れは2〜3日で引くと思いますから少しの辛抱です。抗生剤は必ず飲んでくださいね。」
言葉尻に初めて栄一を見る話し方、これも少しだけグッと来る。
再び氷嚢の入った包帯で顔を巻かれた栄一は、今日の出来事を武蔵野テニスクラブへ報告するために病院の公衆電話に向かった。
一通りの経過と今日明日の予定を報告し、来週予定されていた栄一のレッスンを代行してもらうこと、明日の検査にもよるが、歩くことは出来るので自力で帰り、月曜日にはテニスクラブに行くことを伝えた。
電話口の絵里が心配そうに涙声で、支配人の河野が状況が分かったら早急に連絡するように言われたと話すが、少し重かったが大したことではなく無事であることを伝えてもらうよう強調し伝えた。
病室に戻る足取りも重かった。それは体調によるものではなく、つい数時間前の松本との試合を思い出していたから。サーブのアドレスに入った時の肌に触れる冷気を含んだ風さえ感じられるほど、記憶はまだリアルに思い出せる。そして顔に受けた打球の衝撃もまだはっきりと、まるで刻印を押されたように残り、あのタイミングで打たれたショットに対応出来なかったことを省みていた。
(サーブのスピード?スピン量?スプリットステップのタイミング?ポジション?ダッシュの方向?…、そもそもステイバックだったら??)
サーブのスピードを上げられればリターンに余裕も無くなる。スピン量を増やせればキックが変わって真で打てなくなる。スプリットステップを早めにすれば打たれたボールを判断する時間が長く取れる。ダッシュの方向を変えればボディーからズレる。
ステイバックしてれば何も問題なし、サーブ&ボレーがミスチョイス。。今回は松本の思い切りの良さと、取るに足らない自身の判断と反応の鈍さが招いた「事故」と捉えよう。
(しかしながら、カッコ悪いヤツのラフプレーにしてやられた自分が情けない。。)
自身に一問一答しながら課題に対する回答もしくはアイデアを具体的にイメージしている栄一、、
(あー、ちょっと打ちたいな。今すぐやってみたいな。きっと上手くいきそうだ…)
気がつけば満身創痍がどこ吹く風、栄一の右手はラケットを振る仕草が続いていた。
翌日、眼圧と眼底の検査を行い若干の要安静を余儀なくされる結果となり、大事をとってしばらくは過激な運動を控えること、すなわち試合出場も2週間は辛抱との診断、翌週と翌々週の大会はキャンセルすることとなった。ハードワークこそ控えるが、鈍った体をチューニングするのに丁度いいタイミングだったと、ジムでこなすエクササイズメニューを頭の中でなぞる栄一は、顔の包帯が似合わぬほど活気に満ちていた。
【一週間後】
鰯雲広がる秋晴れの空気の中、少しずつ冬の匂いを感じることで何故か理由もなくセンチになるのは季節の変化のみならず、人との触れ合いが希少となった寂しさが心の領域に広がりつつあるのだろうか。
これもまた感受性豊かな証拠と自負するべし。
先日の事故も、既に遠い過去のもののように思えるほど栄一の雰囲気はいつものエネルギッシュでバイタリティーに溢れる声とパフォーマンスがコートに映える。それはプレーのみならず、指導という立場に立っていても変わらないものだった…
「試合では、『何を何処に打とう』と考えることの前に、『相手はどんなタイプ』なのか得意不得意を見極めよう。どんなに自身が思う『いいショット』でも、それが相手にとって打ち返し難くくなければ、それはただ単に『自己満足』に過ぎないんだから…」
ベースラインに立ち、向こう側に立つ女子生徒のペアにダブルスのアドバイスを送る栄一の顔はもう腫れも引き精悍さを取り戻しエネルギッシュに満ちている。そこには指導に没頭するプレーヤーではない「もう一つの顔」の栄一がいる。
「次のボールを打つ時に、僕が考えていることを予想して打ってごらん。ストレート、クロス、ロビング、僕に読まれないように打ってごらん。」
栄一の指導は、現役のプレーヤーであることもありとても実践に当てはまるカリキュラムが多い。だからこそ、「選手」に評判がよく遠方からも栄一の指導を受けに来る生徒が絶えない。
そして、受講した生徒たちのほとんどが栄一の指導で「気付かされる」ことを実感するのは、その教え方の根本が「考えること」に焦点を置いているからである。
テニスとてチェスや将棋、カードゲームと同じであり何をどのタイミングで切るか、どの駒を何処に進めるかを相手の心理を踏まえて塾考することが新たな結果に繋がる。出来るか?出来ないか?ではなく、考えたか?考えなかったか?がテーマとなり、考え方を変えられればさらに新たな回答(結果)を引くことが出来ることを教えているのである。
『事実と言うものは存在しない。存在するのは解釈だけだ。』
この発想は栄一自身が進化・成長することにおいて多大な影響を与えてくれた偉人の言葉であった。物事は解釈によって如何なるものにも変化する。どう受け止めるか、どう考えるか。肯定するか否定するか、全て自身の解釈で決定する。そして、選手として進化を求める段階で必要不可欠な課題でもある。
栄一は後衛に位置する生徒に向けてバックハンド側にボールを出した。そのボールに対して彼女の自然なスプリットステップからしなやかなスタートとテイクバック、栄一はストレートと読む。根拠は、彼女はバックハンドの逆クロスが苦手である。ただそれだけのこと。。
案の定、しっかりした態勢からシャープに振り切ったスイングからボールは栄一のバック側に生きたボールが飛び込んで来る。栄一はそのボールをしっかり引きつけ、手元で薄く当てながらスピードを殺してネット際に落とすとバックスピンのかかったボールがネットに戻って来る。ジェームスボンド顔負け、見事なまでの「殺しのテクニック」だった。
打った彼女は一歩踏み出しただけで、微動だ動けない。栄一のショットに感心のあまりか顔がにやけて照れ隠し。
「コーチ〜、上手すぎで参考にならない。」
この言葉が栄一の琴線に触れたようだ…
「おいおい、聞き捨てならない発言だな〜。今ここで何をしているのかな?上手すぎて何が悪い。悔しかったら打ち返そうよ。じゃなきゃ負けなんだよ。僕のレッスンを受けている以上、これも自分のものにしなきゃ。テクニックを盗まなきゃ。」
なかなか現役のプロテニスプレーヤーのボールなど受ける機会すら持てないだけに、ネットを挟んで栄一と対峙出来る時間や、そのボールを受け肌身で感じながら自身の「力」に変換していくことが望ましい。可能であれば体に染み込ませるほどに。
「僕が適当に手を抜きながら皆んなの相手をしているだけならば、もうレッスンは受けない方がいいよ。僕に勝つことを念頭に置くからこそ僕のレッスンが必要なんじゃない!?勝てなくとも通用するショットやプレーを本気で絞り出してみなよ!」
栄一の顔は笑っていない。
アスリートは、誰もが踠き苦しみながら、それでもなんとか藁を掴もうと必死で手探りしている。ボクサーはチャンピオンのパンチを顔面に食らわなければその強さを知ることは出来ないことから、自ら殴られに行くという。
コートが一瞬静まり返り、その空気の重さを誰もが感じたが、
「なんか変な空気になったけどさ、本番の切羽詰まったシーンに比べれば、今がどれだけ居心地のいい場所なのか分かるだろ。」
栄一のこの言葉に同意する生徒たちの頭が上下に動く。1人、2人、3人…。生徒たち一同が納得したようだ。そして発言した本人が、
「コーチ、すみません。私、本当に強くなりたいんです。だからもう二度と…二度と甘えたこといいませ。」
テニスは所詮遊びである。それだけにその目標や方向性は個人が決めればいい。全ての人が同じでなくていい。しかし、自身で決めた以上甘いことを言っていればその目標にはいつまで経っても届かないだろうことを分かってほしいと栄一は思った。その目標に達成することを誰よりも望んでいるのは生徒自身のはずだから。。
栄一の指導は常に目的至上主義、そしてそれに必要な自立支援と応答的環境を整え、選手自身が求める目標に通ずる道を歩み始め、やがて走り出せる世界感を作り上げている。
『指導者とは教育者ではなく導くもの』
だからこそ知的好奇心に満ちた行動(ヤル気)が自然と溢れ出すことを栄一自身が成長するまでに実感してきたからこそ。
誰もが成長する術を持っている。ただ、それ気付かず上手く使いこなせていないだけ。それをいくつかのワードとカリキュラム、そして場の雰囲気で引き出し、道に乗せて背中を押すことが『指導』と栄一は恩師に教え育てられてきた。もちろん個人差は大いにあるものの、この「やり方」で上達出来ない選手に限って「他力本願」をいつも唱えていることが悲しくも多いのが事実である。。
その後の生徒たちの目が少し大きくなってボールを見て、動きも少し速くなっているように、その分打球も鋭く、次のボールへの対応が良くなってきた。
開眼…
「人は限られた時間や条件の中でしか自分を磨くことは出来ないです。私は皆んなとの時間をいつも大切にしています。だから、私との時間は一分一秒も無駄にしないでください。」
栄一の表情は既に柔らかく優しい笑みを含んだものに戻っている。だが、それとは逆に生徒たちの表情は鋭く、一点に向けて虎視が如く瞬きすらしていないほど集中していた。
栄一は、そんな彼女たちの視線を痛いほど浴びていることに満足だった。彼女たちが求めているものにどれだけの力を注ぎ込めるかなど栄一にもわからない。されど、その意志を汲むからこそ私の一言一句を取りこぼさず吸収してほしい。以前、栄一が慕う指導者に対するものと同じように。
クラブハウスに戻って栄一に吉永が駆け寄る。束ねた髪の毛が今日も見事に整っていて美しい。
「市川コーチ、先ほど秋元コーチから電話があって体調を崩してしまったらしいんですが…。熱が38度を超えてるとか、風邪ですかね。」
栄一は首にかけたタオルで額を拭く手を止めて聞き入る。
「秋元さんが熱出すなんて珍しいね。」
「そうなんですよ。鬼の霍乱…かな。」
吉永が少し茶目っ気を出しながら小さな声で。
「ご自宅で休んでいらっしゃるので連絡が欲しいと仰ってました。」
栄一は頷きながら電話の子機とメモ用紙を受け取り、書かれている秋元宅の電話番号をプッシュした。発信音が二度鳴った後に秋元の鼻声が応対した。
「秋元さん大丈夫?」
こもった咳払いから、
「なん年ぶりかで熱が上がっちゃいました。ちょっと辛いですね〜。」
声からしてかなり重そうだ。
「これは休んだ方がいいレベルですね。秋元さん、今日は休んでください。後のことは私たちで調整しますから。」
電話の隣で吉永が頷いている。
「すみません。悪化させないためにも今日は休ませていただきますね。ゴホン、ゴホン」
「ちえちゃん(秋元の彼女)に来てもらってご飯作ってもらいなね。ちゃんと栄養取らなきゃダメですよ。」
栄一が少し説教気味に茶化すような口調で言うと、
「はい。了解です、先輩。」
夕方からナイターにかけて秋元が担当しているクラスのレッスンを代行することを快く受け入れる栄一、不測な事態となって、急な予定変更であっても栄一は何も不満を漏らさない。仲間たちが困っていればそれはいつでも「お互い様」、仲間たちの存在が自分にどれだけ力になってくれているか、仲間たちへの感謝は家族同様に思えるのが栄一のスタンスであるから。
そして、この偶然に起きた「不測の事態」が栄一にとって生涯に関わる「偶然」を引き合わせたことは後になって気がつくこととなる。
クラブハウスにある鉢植えのポインセチアの葉が赤く色づき始めてとても綺麗だ。と同時にまもなく訪れる冬を受け入れることを承諾しなければならない。
夕方の時間帯はキッズやジュニアクラスのレッスンが組まれている。栄一は先ず小学生低学年の初心者クラスのレッスン代行に入った。
このクラスのほぼ全員が栄一との対面は初めてだったが、持ち前の気丈さと子供目線の対応に長けている栄一は初対面で少し緊張しているキッズにも言葉とパフォーマンスで盛り上げて楽しませた。
「こんにちは。今日は秋元コーチが風邪をひいてしまいました。熱が150度まで上がってしまった…」
極端な表現と冗談が子供には分かりやすく大好きである。
「150度も熱出るわけないじゃ〜ん。そんなに出たら死んじゃうし。」
「そうだよ、そうだよ。」
「死んじゃうよ〜。」
そう言いながら、皆んなケラケラ笑って楽しそうだ。栄一は出だしから子供たちの心を掴めているようだ。
「だから今日は僕が変わってレッスンをしま〜す。僕の名前はオニガワラゴンゾウといいま〜す!」
一同、一瞬静まり返り目が点になり口を開けて動作が止まったが、10人もいれば2〜3人は冷静に言葉を理解出来る子もいるもので、
「キャハハ、変な名前〜!マンガみたいな名前〜」
その声を聞いて一同キャッキャッと笑い始める。
既にこの辺りで栄一をエンターテイメントとして子供たちが認めたに違いない。子供たちの目がキラキラと輝き栄一を見つめている。
栄一はキッズの指導、いや子供たちとのコミュニケーションも慣れたものだった。何より自身が子供の頃から「テニスコーチ」と言う大人たちの中で育ったようなものだから、幸いにもその「大人たち」は人がよく栄一に合った言葉や態度で接してくれていた。
その時のことを思い出しながら、時には道化となり笑い声が響き、時にはヤル気を後押しするためにやんわりと恫喝するが、そのメリハリを分かりやすくすることで子供たちもスイッチの切り替えがしやすい。これも栄一が過去に受けてきたコーチたちの配慮からの賜物である。
ほとんどの子供たちは一度栄一のレッスンを受けるだけでファンになってしまう。その理由の大半は「面白い」からだと言う。これは察するに「テニス」が面白いのではなく共有する時間がとても愉快な空気に満ちているから、子供心のツボを掴んでいる栄一の指導に引き込まれているからだろう。時にはテニスが二の次になってしまうようなテーマや話題で盛り上がってしまうが、この時の彼らの純真無垢な表情はカメラのCMにでも起用出来そうなくらい輝いている。
自然と言葉をポンポン出せる子供はすぐに理解し合える。しかしそんな子ばかりではなく、むしろシャイな子供の方が多い。そんな子供たちに「話し易い」接し方を少し気遣ってあげれば直ぐに仲良くなれる。仲良くなれればしめたものだ。
栄一の掛け声に子供たちが同調して大きな返事が連呼され室内コートに響き渡る。声の大きさがコーチも生徒も同じなのは「温度と空気」、そして目指す方向性が一致している証である。
走り回る子供たちは、汗で髪の毛が額にぴったりくっついていても気にならないほどレッスンに夢中になっている姿が微笑ましい。
「市川コーチ、さすがだな!初めてのレッスンでもあんなに子供たちが喋ってるんだから。。」
近くで見ていた横山と田中の両コーチが感心している。
「プロってさ、なんかもっと偉そうにしてるもんだと思ってたから、市川プロ見てると教えられてるようにも思えるんだ、俺。。」
「ああ。市川プロより下手で態度デカくて上から物言うヘタレもいるからね。」
「おいおい、それ俺のことか?」
「そう思うんだったらあらためろよ。」
「えっ、マジで?マジで俺態度デカくてヘタレか?」
「田中ってほんとにからかい易いよな。」
「なんだよ。」
子供たち、そして栄一にとっても90分間のレッスン時間があっという間まに過ぎ、レッスン終了の挨拶で栄一が話す。
「強いテニス選手になるために大切なことを2つ教えます。」
20個の子供たちの瞳は栄一に向けて大きく見開いている。誰もがその先の言葉を待ちわびた表情だ。
「1つ目。練習をしっかりすること。今の自分に『出来る練習』をしっかりすることです。」
言葉は出なくても、子供たち皆んなが頷いている。
「これは、練習はレッスンだけではないってことです。コートに来なくても素振り、ランニング、縄跳び、やれることはたくさんあるはずです。皆んなのライバルが強くなっていたら、その子は必ず自分で出来ることを練習していると思ってください。」
先ほどよりも子供たちの視線の強さを栄一は感じている。そして子供たちの頷きが繰り返される。
「2つ目。コーチの話をしっかり聞くことです。」
当たり前のことだったのか、何人かの子供が左右の友達に目線を送って何かを確認しているようだ。
すかさず栄一は、
「コーチが話す言葉は、皆んなが強く、上手くなれるように、そして聞き取りやすく理解出来るように話しています。だけど、コーチが本当に伝えたいこと、間違いのないように正しい道を教えても勘違いをしていたら違う道を歩いて行ってしまいますね。
例えば…」
再び子供たちの熱い視線が栄一に集中している。
「赤くて丸いモノ。って言われたら何を想像しましたか?」
栄一は目の前にいた小柄な少年を指差す。日に焼けてほっぺがぷっくりした顔が特徴のメガネくん、胸の名札に「やまもとこうき」と書いてある。
こうきは少しびっくりした表情、左右の友達を見てから、
「りんご?」
と少し戸惑いもあるような顔が子供らしい。
続いて栄一は隣にいた白いキャップを被った女子の名札を見て、
「ゆり、ゆりはどう?」
「はい。梅干し?」
「おっ、コーチ梅干しは大好物なんだ。お弁当でオニギリだったら全部梅干しがいいんだ。」
少し騒つきだし、やれ鮭だ、おかかだ、明太子だと話がオニギリの中身に変わったものの栄一も同調するから盛り上がる。質問の「赤く丸いモノ」についても、「みかん」「日本の国旗」「ピエロの鼻」などなどイメージを言葉にした声が聞こえてくる。楽しそうにはしゃいでいる時こそ充実した時間なのは、栄一が一番理解していることでもある。
「赤くて丸いモノって聞いて、聞いた人が想像することには色々あるってことだよね。だから、コーチが話して皆んなに伝えたいことを正確に聞き取らないといけないってことなんです。」
子供たちの集中した視線が戻っている。
「もしコーチの話が理解出来なかったらどうしますか?」
こうきがすかさず手を挙げた。今度は戸惑う表情はない。
「聞きます。分かるように教えてほしいです。」
「その通り!聞けばいいんです。コーチは一人一人に分かるように何度でも話す準備がありますから。そのためのコーチです。」
この言葉に目の前にいる子供たち全てが同意出来たとしても、「コーチに聞く」という行為を安易に自ら行える子供たちばかりでないことは栄一も想定している。だからこそ、指導者としてテニスを教える前に話しやすい環境作りや接し方が先のテーマなのである。
「分からなかったらコーチに聞ける子は右手を高く上げてください。」
栄一が笑顔で少し大袈裟に大きな声ではしゃぐ。
一斉に、とは行かないものの全員が挙手出来たことに栄一もホッとしている。
「実はコーチが話す言葉の中に、たった一言でレベルアップ出来る『魔法のヒント』があるんだよ。コーチがプロになれたのも、その魔法の言葉をちゃんと教えてくれたコーチがいたからなんだから。」
子供たちの目が少し大きくなったように見えた。そしてキラキラしている。「素直」とはたくさんの栄養やエネルギーを吸収出来る最大のメリットなのだ。
「今日は秋元コーチの代わりにレッスンしました。皆んなと会えて嬉しかったです。またいつか、皆んなと同じコートに立てるといいなって。次に会った時に少しでも皆んなが強くなってたらもっと嬉しいです。」
子供たちは揃って一礼し、
「ありがとうございました。」
勝手な思い込みかもしれないが、心のこもった感謝の言葉に聞こえたのは栄一の「素直」な心が受け止めたもの。
栄一はベンチに置いてあるクリップボードを手に取り、次のクラスのレギュラー名簿をめくった。一般クラスの初級で7名全員女性。
秋元から、レベルや練習内容をあえて聞かず栄一なりの判断でレッスンを行うことに決めていたので先ほどのキッズクラス同様に、先ずはざっくりと全体的な流れをイメージしながらクラブハウスに足を向けた。
クラブハウスに入りぐるっと見渡すと、栄一が受け持つクラスの生徒たちと思われる面々がロビーやラウンジで時を待つ姿がかしこに見受けられた。友達同士なのか、同じクラスの顔見知りなのか、立ち話やソファーに腰掛け会話する言葉が、ラウンジに微かに流れているサロンミュージックのBGMと重なり途切れ途切れに聞こえて来る。
ふと気がつくと、入り口のすぐ近くに一人ポツンと立っている女性…、いや「女の子」に目が止まった。
(あの娘って…)
栄一は以前にあの娘を見たことの記憶を思い返そうと頭の中で一気に過去のページをめくり始めてみた。なぜか少し焦りを感じるほど急いで記憶のファイルをめくるが、なかなかそのページに辿り着かない。
右手にラケットを持ち左手にはハンドタオルを握り締めている。少し面持ちが固いようにも見えるのは、あまりこの場所に慣れていないよう。周りの生徒たちのように気軽に話せる友達がまだいないのだろうか。スクールに入会して間もないような雰囲気を感じる。
そうこう考えているうちにレッスン開始のチャイムが室内で控えめに鳴り響くと、該当する生徒たちが一斉にコートへ向かって歩き始めた。
栄一は冷水機から注いだ一杯の水を一気に流し込んでいると吉永から、
「市川コーチ、次のクラスは1人お休みなので6名となります。お休みするのは…」
出席者について報告を受けた栄一は名簿の名前にチェックを入れてからコートに向かう生徒たちに続いた。
コートへと続く木漏れ日に溢れた道に先ほどの「あの娘」の後ろ姿が見えた時、
(あっ、あの時の…。)
栄一の脳内に、ここ武蔵野テニスクラブに初めて訪れた時、河野社長との契約やコーチ陣との顔合わせの日、帰り際に受付に母親らしき女性と一緒に立っていた「彼女」の記憶が鮮明に映し出されていた。そして、すれ違いざまに目と目が合った時の彼女の魅力的な瞳のことをはっきりと思い出していた。何よりも印象的なあの澄んだ瞳を。
コートに入り、本日秋元コーチの体調不良によりレッスンを栄一の代行で行うことの説明からの挨拶に生徒同士で顔を見せ合い少しざわつくものの、それが秋元への心配によるものか、それとも初めて栄一のレッスンを受けることへの不安と期待に向けたものなのかはまだ分からない。
出席簿を見ながら名前と顔を照らし合わせる際、
「市川です。今日は秋元に許可をいただき皆さんをビシバシ鍛える練習を用意してきました。覚悟はよろしいですか?」
プロテニスプレーヤーの栄一が発した言葉だけに重みをあるが、これはあくまでも栄一のプロの立場を利用した「掴み」の言葉に過ぎなかった。
「と言うのは半分冗談です。」
失笑の声が広がり、笑顔が増えてくる。
「それでも半分は本気なので皆さんも本気で準備してください。皆さんの本気が強ければ私もどんどん温度を上げて応えたいと。」
レッスン開始前の言葉としてはなんとも士気の高まる言葉だろう。
「一つお願いがあります。私のレッスンでは名前を呼ぶ時に、ジュニアでも一般の方でも名字ではなく名前で呼ばせていただきたいのですがよろしいでしょうか?」
この問いかけに生徒たちも多少なりとも違和感を感じたものの、無理な質問でもなく笑みで快諾を承知していただけたことを確認する。
この「名前呼び」には「2つ」の理由がある。
1つは…
レッスンは「日常」ではない意識と行動が必要であるからこそ名前呼びを実施する。特に普段社会の中で当然のように名字で呼ばれている大人であればこそ、名前で呼ばれたり声かけされることのインパクトは、その後に続くアドバイスや指摘がより脳に強く定着されやすいことは立証済みである。
もう1つは…
より「フレンドリーな距離」を作りたいから。時に「失礼」と受け止められ拒否されることもあるのではと踏まえたが、そこは栄一の「プロ」という看板、そして人柄からの人徳もあって自然と受け入れていただけていること。そんなことで栄一のレッスンコートでは常に「名前」が大きな声で呼ばれるため、側からみれば「ジュニアクラス?」と見間違える、聞き間違えるほどであるのだが、実際は活気に満ち受講する生徒たちも「ジュニア並み」に奮起しているからwin-win。
そんな空気作りも栄一は他のコーチとは「一味」違った感覚を持っている。
栄一は名簿を見ながら一人一人の名前を呼び顔を見ることを繰り返した。この時、「瞳の美しい彼女」の名前を初めて知った。
(堀内 彩、ホリウチアヤ…)
周りには気付かれることはなかったと思うが、栄一の心の中ではこの名前が、他の生徒の名前とは違う特別なインパクトで心に響いた。
(なんだろう、この感じ…)
彼女の名前と顔が頭の中にはっきりと存在したような瞬間であった。しかし平然を装う栄一の口調や態度に不自然さはない。
(なんか変な感じ…)
全員の点呼が終わり、
「今日は私なりの判断で練習内容を考えてみました。ひょっとすると秋元コーチとはかなり違う内容や方向性に感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、せっかく皆さんとの時間をいただけたので私の指導にどうか90分間お付き合いください。」
丁重な言葉だが堅苦しく建て前でもあるようで栄一の本音ではないようだ。栄一のコンセプトは「自分らしさ」なので、例え代行であっても担当コーチのコピーは性に合わない。栄一の考え方でそのクラス、その生徒に合った練習をするのがヤリカタだ。
先ずは「ショートラリー」。居酒屋に入って「とりあえずビール」のように適当で妥当な選択に思えてこちらもあまり好ましくないが、今回は初対面なので生徒それぞれの感覚から探っておきたい。ラケットワーク、足の運び、球感、反射神経、そして目線とその強さなど。表面的なものから内面を計る。目で見えることを変える必要があれば、その本質が内側から大きく影響している場合が多い。
例えば…
本来は「下から上」へ振り上げるべきラケットワークが必要としていても、相手コートに打ち返そうと思う意識があるために「横振り」になってしまったり…
ボレーにおいて出来るだけラケットを振らないようにすることを指導されているがために、自由が利かずにボールを真で捉えられなかったり…
簡単そうに見えることでも固定観念や先入観という「意識」が邪魔をしていると上手く行かない。そんなところを栄一は自身が上達する過程で得た知識から生徒を見るようになった。
(結果を変えるためには先ず考え方から変える。)
「皆んな、なんか固くなってない?もっと力を抜いて楽に打ってみて。そう、楽って『楽しい』って字なんだからもっと楽しそうにだよ。」
初めてのコーチ、生徒たちのレベルも初級、緊張してしまうのも無理もないことだが、不必要な緊張感を解きほぐすことも栄一のレッスンテーマの一つだ。
「えっ、ひょっとして僕が怖い?」
生徒たちがクスクス笑う声が出た。
「ご安心を。こう見えても優しい男なんだから。だから女の子にモテる。」
笑い声が大きくなり、何人かが栄一の顔を見る。
「陽子さんと美智子さん、今僕の顔を見て何か確認しましたね!?」
言われた2人が大きな声で笑い、少し慌てて、
「違います、違います。」
周りの生徒たちからも笑い声が漏れ、ニコニコしながら飛んでくるボールを打ち返していた。1分前のお通夜のような空気が大きく変わって皆んな楽しそうだ。
生徒たちそれぞれのレベルや感覚が雰囲気以上に掴めたところでベースラインからG・ストロークの基本練習に入る。
「最初は出来るだけネットを避けて。オーバーはOK。そのためには二つだけ意識して打つこと。一つ、しっかりボールを見てラケットの真ん中に当てること。二つ、そしてスイングは大きく。」
テーマは簡潔なことをあまり多くしない方がいい。
そして具体的な目標も大切である。
「1人2球交代、打ったら隣の列の後ろに並んで。」
栄一の滑舌のいい通る声が林の中に並ぶテニスコートに響き渡る。それはクラブハウスに居ても説明が聞こえるほどだ。
「未来(みく)、もっと振り切って!」
「和美、足を速く!」
生徒たちが打っては並んでを繰り返す中、それぞれに目立つ「課題」を端的な表現で一人一人に次から次へと繰り出す。分かりやすい言葉のチョイスが肝心だ。
そんな時にネットが続いていた彩を見て、
「彩、ホームランがいい!」
「えっ!?」
こんな言葉が吹き出しからで出来そうなほど分かりやすい表情をした彩、
「ネットを越すことが最初の課題だから大きく打てれば正解!ホームランは間違いなく大正解!やってみて。さあ行くよ!」
これも分かりやすかったのか、大きなテイクバックから次に彩が打ったボールは後ろのフェンスを越えて隣のコートに消えて行ってしまった。
再び彩の顔が分かりやすい「しまった!」の表情に。それを見た陽子と美智子が口を半開きで半笑い。
栄一は右手の親指を立てて、
「いいね〜。分かりやすい。メリハリは大切。」
「だけど、隣のコートで誰かに当たってたらどうしよう!?」
この言葉に全員が注目。
「そんな日は宝くじでも買えば大当たりするかもね!」
一同笑顔で締まる。
基本練習の後には一人一人とのラリーの時間。
栄一は生徒に合ったレベルのボールで繋ぎテーマを与える。ミスが多ければ先ずはボールを飛ばすこと。ある程度打てる生徒にはスピードとスピンを意識させる。
(一生懸命に集中して打つ)
この言葉には随分と幅があってとても具体的ではない。100%の力を込めて打つことに集中することなのか、それとも力を抜いてスピードも抑えて打つことに集中することなのか、それともフットワークについて集中することなのか…。だからこそ、生徒一人一人に課題を作らなければ練習の目的が定まらないと考える。
全員一通りのラリーが終了して、栄一は練習に対する「考え方」についてのインストラクションを始めた。
「どんな練習でも、ボールは打てる!入る!
どんな試合でも点は取れる!そして勝てる!
そう思って挑んでください。その思いに少しでも迷いがあれば結果に顕著に表れます。」
そしてその言葉に沿った練習を次に行うことを続けた。
「次の練習で的に当たったらお願い事を1つ叶えてあげま〜す!」
栄一はフォアハンドの的当てとして、目標達成した生徒にご褒美を用意した。
「1人4球交代で、時間内に当たればご褒美ゲット!誰か1人が当たったら終了!ご褒美はリクエストOK!ただし『現実的』なご褒美にすることが約束。」
初級クラスなので、狙っていてもなかなか当たるものではないことも予想がつくが、「当たるかどうか」よりも、「狙って打っているかどうか」。
モノがかかるといきなり奮起し強くなれる性分の人間はどこの世界にもいるので分からない。
6人の中で彩の実力はたぶん6番目。栄一の提案に自信のなさそうな表情で少し顔に照れ隠しの笑みが生まれる。
「さあ、始めるよ!じゃんけんで順番決め!」
最初の生徒、美智子が打ち始める。後ろの5人は目を丸くして興味津々な表情。一打毎ボールの行方を不安と期待が混沌とした気持ちで追いかけている。
そして打ち始めて2球目が的の近くに落ちたことで歓声とため息が入り混じり、かなり盛り上がっている。
彩の順番は6番目。5番目の年配の女性、明美はこの中で一番の腕を持ち、パワーもあって物凄いショットを打つが的には当たらない。
そして彩の番が来た。少し顔が強張っているので栄一はリラックスさせるために声をかけた。
「怖い、怖い、怖いって!彩、怖いって!」
「テニスは楽しいスポーツなんだからそんな怖い顔してたらみんな逃げちゃうよ〜」
周りの生徒たちが失笑、続いて彩もニコッと柔らかい笑顔を見せた。
とは言うものの、予想通り(?)、彩の4球は的とはお門違いの方向へ飛んでいったのだが、残念そうな表情が的に当たることを心底望んでいたことを伺わせる。
「ほら皆んな、さっきの言葉を思い出してみて。打ったボールは入る!狙ったボールは当たる!」
その気になれれば練習は大成功。たとえ的に当たらなくても意識の持ち方が、いつか的に当たる日を近づけることになるから。。
そんな結果を繰り返した何周目かの3番目に打っていた、未来(みく)の打ったボールが見事に的を弾き飛ばした。彼女は彩同様にここ最近レッスンを受け始めた法政大学に通う2年生、もちろん偶然の賜物ではあるが、歓声と拍手で隣のコートの生徒たちまでが祝福の拍手を送ってくれた。が、彩を含めた他の生徒たちは悔しさとご褒美をもらえる羨ましさに感嘆な声をあげていた。
「いいな〜いいな〜…」
未来のリクエストは「コカコーラが飲みたいです。」栄一はレッスン後にクラブハウス内の自販機でコーラを買ってあげた。
「よく当たったね!きっとテニス上手くなれるよ!」
あまりスポーツには関わらないようなタイプで、おとなしい彼女に冷えたコーラを手渡した。ゆっくりと頭を少し下げて「ありがとうございます。」と言って帰って行った。
すぐ隣では彩が自分の小銭入れから100円玉を取り出して麦茶を買っていたので、
「彩、次は頑張って!」
と、励ますも…
「ずるいです、あの子…。私もご褒美ほしいです。」
少し拗ねた声が、訴えられたように感じた。
「おいおい、未来はしっかり的に当たったんだからズルくなくて順当でしょ!勝負の世界は厳しい!勝者のみが利を得られる。」
少し低めの声で腕組みをしてポージングしてみた。
彩は買ったばかりの麦茶を両手で大事そうに包みながら口を尖らせている。
「ちなみに彩がもし当たってたらご褒美のリクエストは何がよかったの?」
クラブハウスの雑踏で少し声を大きくしないと伝わらないような…
「私、アイスクリームが大好きなんです。コーチ、ハーゲンダッツのアイスクリームって知ってますか?」
彩は急に晴れやかな笑顔になって、少し訴えるように栄一に言った。
少し前に日本に上陸したアメリカのアイスクリームメーカーのハーゲンダッツ、実のところ私もアイスクリームが大の好物であり、既に何度か足を運びその美味しさが今まで海外から参入したアイスクリームの何よりも美味しいことを知っていたからこそ、
「あっ、それ凄く美味しいよね!」
「えっ!コーチはもう食べたんですか?」
「うん、3回くらい。」
「それ本当にずるいです!私はまだ1度も食べたことないし…、だからご褒美はハーゲンダッツのアイスクリームを食べに連れて行ってほしかったんです。」
それが「現実的」なご褒美だったのか決め難いところなのだが…。
彩の真剣な眼差しと、先に何度も食していたことの後ろめたさからか、後に何故そんな言葉を安易に言ったのか、それも自然に「言えた」のか栄一は不思議と考えてしまったほど。
「じゃ今度連れて行くよ。」
自然に何気なく言った言葉の後に、周りの視線を気にして辺りを見回したものの私たちに目を向けているメンバーや生徒は誰一人といなかった。
突然の展開に鳩が豆鉄砲を食ったような、半分口の開いた表情をしていた彩、
「えっ、本当…ですか?」
疑う口調の反対側にある、期待感満載の言葉で聞き返す。
「嘘じゃないよ。コーチもアイスクリーム大好きだし。でも他の生徒には内緒だよ。だって彩は的に当ててないんだから。」
少し意地悪な言い方をしてみたが、彩は飛び上がるほど喜んだ。
「ありがとうございます。でも絶対絶対約束ですよ!」
栄一は右手で小さくOKを出しながら2度頷いた。
彩からのやや積極的な申し出であったが、実は栄一もまんざらでもなかったのだろう。
相変わらずペットボトルを両腕の中で大切そうに抱きかかえたまま、彩はフロントに向けて歩き出した。
途中で一度栄一を見て笑った。
入り口の扉を押し開けて、振り返りもう一度栄一を見てニコッと笑い、小さく軽く手を振った。
栄一もそれに習って右手を軽く挙げた。
2人だけの「秘密」を作った時、2人の距離は一気に近づくことを感じる。それが「恋」であることに気づくのはもうすぐのよう。
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