2人のポール
ここでこの物語を進める前にフランスが当時のベトナムに行った統治に関して2人のポールという人物を紹介しておかねばならない。
そもそもフランスのベトナム統治は、1858年にナポレオン3世によって始められた。
当時ベトナムは中部にあるフエを首都においた阮(グエン)王朝が治める国で国外からはコーチシナと呼ばれていた。列強各国の帝国主義が渦巻くヨーロッパ諸国の中でイギリスやスペイン、オランダ等の国に対してやや出遅れ感があったフランスがアジアでの植民地開拓の標的としたのがベトナムであった。
帝国主義とはわかりやすくいえば強力な近代兵器を持った遠征軍でもって威嚇したあと他国を征圧して植民地化し、そこで収穫される生産物や労働力を収奪するシステムで、当時としては強国が発展途上国に対して持つごくごく「当たり前」の価値観と権利であった。
とはいえ、いかにこの蛮行があたりまえに許されていたこの時代でも収奪を始める前には世界世論に対しての表面上の「いいわけ」が必要で、フランスの場合はベトナムに派遣したキリスト教宣教師団の武力保護という名目であった。最初は中部の都市ダナンに駐留した部隊が南と北に同時に広がっていき、後にサイゴン、トンキンへの占領につながっていった。
カムラン村はまさにその魔の手がダナンから南方向のサイゴンに伸びていく途中にあったので、西洋の近代化された大部隊が街道を移動する光景は若かりし日のズン村長をはじめとする村の人々が全員驚きと畏怖の目で見たことは記憶に新しい。
フランスがダナンを皮切りに武力制圧をはじめて4年後の1862年フランス政府は当時ベトナムを治めていた阮王朝に対して、サイゴン周辺3省の割譲、ダナンの開港、布教の自由、カンボジアへの自由通行権など認めさせるサイゴン条約を締結した。
これが本格的なフランスによるベトナム植民地化の始まりとなったのである。
さらに4年後の1866年には、割譲された南部の3省とは別に中部の都市アンナンと北部のトンキンを直轄という形ではなく阮王朝の顔を立てた「保護国」にして実質の経営権を奪ったのである、当時の皇帝バオダイ率いる阮王朝にはフランスのこの要求を跳ねつけるだけの軍隊も武器も無く、彼らの要求は全て飲まざるを得ない状態であった。
同時にこのころサイゴンにフランス海軍植民省が設置されて本国からは収奪を監督させる総督を送り込んできたのであった。
日本はこのころ世界史上の奇跡と呼ばれている明治維新を遂げており奇しくも欧米列強の植民地化という魔の手から逃れていた。
1人目のポールは初代仏領インドシナ総督、ポール・ドメールである。
彼の任期は5年間で日露戦争の開戦前の1897年から就任して1902年までであった。
時系列的にはバルチック艦隊がカムラン湾に寄港した年は1905年なので彼のフランス帰任以降のことになる。
2人目のポールは2代目総督のポール・ボーである。彼は根っからの遠洋航海の船乗りであった父親の長男としてボルドーで生まれた。
父親は息子に船乗りになることを進めたが彼は断った。
ポーはその貧しい出自のために猛烈に法律の勉学に励んだ後、自分の実力で資格を取得してフランス政府に勤めることができたのである。外交官としての彼の能力は非常に高く、その後清国との間で起こった義和団事変の調停時のフランス代表を勤め和解金の大半を他国に先んじて獲得したり第一次大戦時の戦後処理交渉でもフランスの代表として祖国の利益確保のためにおおいに腕を振るった。
彼のインドシナでの任期は同じく5年間で、初代ポール退任後1902年から1908年の間勤務した。
この物語は1905年なのでちょうど2代目ポールの任期中におこった出来事である。
偶然仏領インドシナは初代と2代目に同じポールという人物が就任したのであるがその2人の統治の方法に関しては前述の海軍士官が酒場で漏らしたように雲泥の差があったのである。
初代のフランス海軍殖民省の総督ポール・ドメールは根っからの官僚上がりの男で、わかりやすく言うなら「見える範囲のものは全て自分のもの」という統治方法を取ったのである。
その結果、ベトナム南部地方からは胡椒、ゴム、米、野菜、魚介類、果物などが強制的に収奪されてフランスに出荷された後はまさにイナゴが通った後の畑同然といった有様であった。
またご丁寧にもこの収奪専用に当時でも珍しかった鉄道路がサイゴンの中心地から南西の中華街チョロンへと延びて大規模の輸送手段が確保された。
この鉄道によってメコンデルタで収奪したものをチョロンへ集積した後にサイゴン港まで手際よく運送することができたのである。
それでなくても貧しいベトナムの村という村を効率的かつ機械的な搾取のシステムが襲った結果、体力の無い子供や老人に餓死者が出るような状況で、耐えかねた村では百姓一揆のような騒乱も多数発生したのである。それを取り締まる軍隊との間で多数の死傷者を出していることでその傍若無人さが想像できよう。
さらにポール・ドメール悪政に輪をかけたのが1840年イギリスが香港の支配に持ち込んだ手法を模倣してベトナム全土の農村の村人にアヘンと飲酒を半ば強制的に奨励したのである。
このために当時のベトナム国内のアヘンと酒の価格は5倍近くも高騰してフランスの国庫はさらに潤うことになる。
以上のように初代総督ポール・ドメールという政治家はそのもてる限りの力を尽くして骨の髄までベトナム国民から毟り取ろうとしたことは多くのベトナム人の脳裏からは決して離れない事実となったのである。
しかしベトナムでの彼の徹底した収奪事業は本国フランスでは当然最大に評価されて、彼がベトナムから帰任する際にハノイで完成したばかりの当時東南アジアで最大の鉄橋に彼の功績を称えて「ドメール橋」と名づけられた。
この橋は現在でも鉄道架橋として使われているがベトナム人によって「ドメール」の名前はその憎しみのゆえに故意に外されて「ロンビエン橋」という名に置き換えられた。
2代目のポール・ポーの統治はこれより5年後となるが、彼の考え方と統治の手法は前任者よりも賢く、フランスの文明的使命を正面に掲げ、人道的に教育の普及や富の増大、医療救済制度の充実、現地人の公務員採用、武力による強制収奪の禁止などを通じて「民衆の人権を尊重した植民地化」をめざす政策に転換した。
この変化によって多くのベトナム人が教育を受けられるようになり、その後成功したものたちはこぞって恩恵を受けたポール・ポーを崇拝するようになった。
一方帰国したドメールはその後ベトナム統治の功績によって異例の昇進を遂げて財務大臣を経た後についに1932年5月、第14代フランス共和国大統領に選ばれた。しかし彼はその職務を全うすることはなく就任後におこなわれたイベント会場で参加していたロシア系フランス人に3発銃撃されて頭部と腹部に命中した弾丸によってその場で即死した。
銃撃した犯人の名前もまた「ポール」・ゴルグロフという。
彼はロシア白軍(1917年にロシア革命を起こしたロシア赤軍の反対勢力で構成は旧ロシア正規軍とコサック兵団から成る)に所属している軍人で当時のフランス政府がロシア白軍を援護しなかったためにロシア革命が起こったことによる恨みが原因であった。
犯人のポール・ゴルグロフは同年9月に政府要人殺害の罪でパリの断頭台の露と消えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます