§_c 終幕

030▽甘露な女難


 夜半の寝室に、びた響きの甘い女声が響く。


「ねえ、アヤトってばぁ」


 彼女の物憂げな吐息に、アルコールの甘い発酵臭はっこうしゅうが香る。


「ん~……」


 それに応えたるアヤトは、心ここにあらずといった曖昧あいまいな返事。

 彼は自室に戻ると、勉強机にかぶりつき、翌朝の再試への最後の追い込みとばかりに、板書ばんしょを書き写したノートに何度も目を通していた。


 しかし先ほど、帰宅途中に漁港近くの屋台街に立ち寄り、名物のあっさり豚骨とんこつラーメンで腹ごしらえをした事が裏目にでたのか、満腹感で頭が回らない。


 さらに、ここ数日の徹夜の続きの疲れが今更ながらに押し寄せ、さらに試験勉強(正式には再試の勉強だが)のやる気をいでいた。


「もう、諦めたらぁ?」


 さらにやる気と集中力をぐように、後頭部に、ぷよんっぷよんっと、柔らかな物が当たり、髪をくすぐる。


 ちなみに、勉強机の椅子いすに腰掛けるアヤトの頭上から、紅葉もみじの声が聞こえるような位置関係だ。


「んぅふふ……ほれほれ」


 軽くアルコールが入った黒髪の美女は、どこか面白がるような、含み笑いが混じったような声色。

 要するに、自分の身体の特に柔らにふくらんだ双丘を、そうと分かっていながら、男に押しつけているのだ。


「ん~……」


 なんとか意識がそちらに行かないように、そして血液が海綿体に向かわないように、無心の境地へと禅の精神で挑むアヤト。


「早く諦めなさいって。

 そうやってうなってても、さっきの本は戻ってこないんだから」


 彼女の言うように、教科書テキストを紛失した事が、試験勉強をはかどらなくしていた。


「だったら、気分転換してスッキリ眠ったら。

 そうやった方が、本番で集中できて、少しは良い結果がでるんじゃないの?」


「わかっては居るんだ…だけど、やれることをやらず後悔するのは、好きじゃない」


「意固地ねぇ……うりうり、そろそろ色気に屈しなさいよ。

 ほらほら、かえでと色違いでそろえた新しい下着よぉ。

 セクシーぃ、ア~ンドぉ、スパイシぃ~!

 どう、初お目見えなんだから、色々めてくれてもいいのよ?」


 紅葉は、相手の後ろから抱きつく姿勢をやめて、彼の横に回り込んで背筋を伸ばす。

 さらに、レース地ショーツのTバックをはいた、豊かなヒップを左右に揺らして男の視線を釘付けにする。


「酔ってるな」


「酔ってるわよぉ~」


 今度は、くるり、とターンをして、片手を腰に、もう片手で漆黒のストレートヘアをかきあげる。


「ご機嫌だな」


「まーねー。

 あの子も思った以上に動けたし、十分に及第点。

 ここ一ヶ月ちょっとの特訓の成果がぁ、努力が実った喜びよねぇ」


 そんな受け答えをしながらも、紅葉は、アヤトの机の端に腰掛ける。

 見せつけるように差し出された、白く柔らかなマシュマロ・ヒップに、アヤトは思わず見とれていたが、軽く頭を振って煩悩を追い出すと、禁欲の呪文のように言葉をつぶやく。


「……お前らがガンバって色々やっている中、俺だけ結果出せてないってのはなぁ。

 さすがに、男のコケンとか色々なぁ……」


「え、何? 男のコカン?

 ようやくやる気になったぁ?」


 紅葉が再び、椅子の背もたれの方から、アヤトに抱きつく。

 今度は、抱きしめる手の位置が、妙に下だが。


「違うわい。

 コケンだ、コ・ケ・ン!

 ── ってか、そこをもむなっ」


「コカンでもコケンでも、ど~でもいい~わよ。

 よくわかんないし」


「おいっ

 だからっ なでるなって!」


 紅葉の手が、R1515歳未満禁止規定では詳細に説明する事がはばかられる動きをすると、アヤトが慌てて制止する。


「それより、ほらほら、アヤトの好きな物がお待ちかねよ。

 いつもみたいに、むしゃぶりつかなくていいの?」


「お前なあ」


「だって、こんな事に面白いくらい反応するし。

 こんな脂肪しぼうのかたまりを触って、大喜びするし。

 男って、不思議よねぇ」


 紅葉が、しみじみとした台詞と共に、アヤトの両肩をつかむと、そのまま彼の頭の上に自分のあごをのせた。


「……」


「……自身これたましいのない、うつろな存在。

 人の手で造られた、不自然な生命いのちと、いびつ肉体からだ

 ── 『ためらうな、実験動物モルモットだと思え!』

 ── 『マウスだと思えないなら、服飾人形マネキンだ!』」


 紅葉が、不意に、偉ぶった男の口調を真似たような言葉を吐く。

 過去を思い返す瞳が、ぼんやりと焦点をぼやかす。

 すると彼女の記憶の底から、当時は意味の分からなかった言葉たちが、いくつも響いてきた。


 ── 『”これ”イットは動く肉塊』

 ── 『人の皮を被った魔物』

 ── 『牝犬ヴィッチじゃない、”魔女”ウィッチだ』

 ── 『おぞましい背神者め』

 ── 『悪魔に魂を売ったなれの果て』

 ── 『ヒト食らう悪魔のカブスだ』

 ── 『気にするな、仕草をマネしてるだけだ』

 ── 『心もなければ、魂も霊も宿っていない』

 ── 『サタンが汚泥ヘドロをこねて造った”邪悪な創造物クリチャー”め』


 紅葉は無意識に、アヤトの肩の上で、ピアノでも弾くかのように指を動かしていた。


「…………」


 それに男が、無言のまま手を重ねる。

 すると紅葉はわずかに身を震わせ、一度、ゆっくりと目蓋まぶたを閉じると、深い吐息を一つ。


「── ……ふっ

 ……別に、何と言われたところで、それで傷つくような繊細なハートなんて持ってないけれど。

 それでも、アナタが魅力に感じてくれているのなら、人造吸血鬼わたしたちだって少しは嬉しいのよ」


「そうか」


 女の繊手が、アヤトの肩を這い、のどを這い、顎の輪郭をなぞり、耳の後ろを優しくなでる。


「ええ、そうよ、

 少なくとも、思ってたほど嫌じゃないわ。

 慣れると気持ちいいし。

 なんというか、コメと一緒ね。

 最初は、ねちょねちょして飲み込みにくいと思ったけど。

 食べ慣れると、楽しみが分かってきたわ。

 羽根布団やシーツにくるまれるのも。

 毎日お湯につかるのも。

 思わず力が抜ける。

 心地いい。

 くせになるわね。

 ……でも、さすがに交尾でエクスタシー感じる事だけは完全に予想外だったけどねぇ、ふふっ」


 紅葉の上機嫌に笑い、どこか遠くを思いせるような声で続ける。


「── アンジェの言葉じゃないけど。

 男に求められるって、女の幸せなのかしらね……」


「……しあわせ、か……」


 紅葉の話は、酔いに浮かれているせいか、まとまりもめもない。


「ところで、人間の女もこのくらいエクスタシーを感じているのかしら……。

 だったら、大変じゃない?

 人造吸血鬼わたしたちはアヤトと異種でデキにくいから、無軌道に楽しめるけど。

 これ、人間同士のカップルとかだったら、毎年毎年デキて、人口増えすぎて困らないの?

 ── あ、でも出産の痛みがキツいらしいから、それでブレーキがかかるのかしら……?」


「知らねえよ。

 俺に聞くな」


「じゃあ仕方ないわね。

 今度、セイラにでも聞いてみましょう」


「やめろ!

 マジで、それはやめろ。

 また俺が、楠木の姉ちゃんに色々言われるじゃねえか」


 ── コンコン……、と控えめなノックの音が聞こえてきた。


「……ほら、いつまでも片付けないから、あの子がきちゃったわよ」


 紅葉はそう呆れ声でつぶやくと、良いわよ、とノックに応答する。


「しっ、失礼しますぅっ」


 上ずった声で、カラカラと木製の引き戸を開けたのは、三つ編みの大人しげな少女・椿だ。

 ほんの1~2時間前までバニーガールのような格好をしていた少女が、今は別の意味で過激な姿をしている。


 純白の下着姿だった。

 それもブラジャーの下から、レース生地がスカートのように広がる類い、いわゆるベビードールだった。


 椿は、湯あたりしたような真っ赤な顔で、さらに倒れたとさえ勘違いする勢いで、部屋の入り口すぐの畳に座り込む。


「あ、あの……っ

 ふつつか者ですが、どうか可愛がってください……っ」


 人差し指から薬指までの指3本ついて、土下座して深々と頭を下げる。

 緊張からか、三つ編みがプルプルと尻尾のように揺れた。


「ふふ、何それ?

 新しいプレイ?」


 妖艶な下着姿の姉が、不思議そうに首を傾げると、可憐な下着の妹が、慌てて説明する。


「その、白雪隊長から、ちゃんと、って言われて……。

 ほ、本当は初夜の礼儀だそうですっ

 ヴァージン捧げた時はよく分かってなかったから、今度お部屋に呼ばれた時は、ちゃんとお作法ができるようにって……!」


 早口で述べる椿は、恥ずかしそうに目を伏せ、耳まで真っ赤だ。


 しかし、彼女の姉は軽く肩をすくめ、


「それ、初めて聞いたわよ」


「え……、ええっ?

 そ、その、間違えちゃいました……?」


「少なくとも、私もかえでもそんな事した覚えないわ。

 ……でも、まあ、白雪が変な事を言い出すのも、今更だけど」


「う、うぅ……」


 大人しい性格の椿が、頑張ってやった事が空回っただけと知って、目を潤ませる。


 紅葉は、そんな妹に近づき、立たせる。


「ほら、せっかく可愛い格好をしているのだから。

 もっと、マスターに近づいて、よぉく見てもらいなさい」


 姉にそう言われて、背を押された妹は、しばらく緊張と羞恥でへその前で両手を合わせ、指先だけを無闇に動かしていたが、やがて意を決したように自分から前に出た。


「── んんっ」


 椿は、アヤトの首に手を回すと、そのまま目を閉じ、自分から唇を合わせにいった。

 少女の柔らかな唇を小さく尖らせて、ちゅっ、と音をたてるだけの初心うぶなキス。


 椿は、直後に自分のリップを指で押さえ、だったような真っ赤な顔で目を泳がせた後、再度攻勢に出る。


「ぇ、えぃやぁー、つ、追撃ですぅ……っ」


 変な気合いを小声でつぶやくと、唇の間から舌先だけ出して、キスしながらもペロペロと男の上下の唇をなめ回す。

 どことなく小動物じみた少女が、いよいよな行動だった。


「…………ははっ」


 アヤトは、可憐な少女の他愛のない親愛行動に、思わず吹き出した。


「だ、だめでしたか……?

 ねえさんが、その、昼間してたの、マネしたんですけど」


 男の反応に、少女は困惑したように目を泳がす。

 しかし、傍で見守っていた美女は満面の笑みで妹の肩を抱いた。


「ノォ~プロブレムよ。

 むしろエクセレントぉ!

 ようやく、アヤトの火がいたみたい」


「…………」


 こんな事ばっかりしてるから、学力が中高生レベルの前期試験ですら赤点を取り、さらに再試すら危うい事になるとは分かっていたが。


「うりゃぁっ!」


「あんっ」


「きゃっ」


 何かの覚悟を決めた男声と、なまめかしい女声が、深夜前の寝室に響く。


 恋人と呼ぶにはちょっと歪な関係の男女の、しかし甘やかな夜の一時だった。





//ーー作者注ーー//


 小田原アヤト、必須科目の不合格が確定!

 氏の、来年の再履修と、鋭意努力にご期待下さい!!

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