第八章⑪ 彼を変えるものは
フィナは『アカデミー』の北部構内の中庭にやって来た。待ち合わせの約束をした例の樹の下に、ベブルとウォーロウば既にいた。
日は傾き、空は赤くなっていた。行き交う大勢の人々が、全て赤く塗られている。
「フィナさん! 無事でよかった」
ウォーロウは心底心配したようだった。だが、一方のベブルはただ腕を組んでいてそんな様子はない。
「全員揃ったな。じゃあ帰るぞ」
このときのベブルは、黒いローブを羽織っていた。何故彼がこんなものを着ているのか、フィナには解らなかったが――すぐに見当をつけた。黒ローブなんて、探せばどこにでもいる。欲しければすぐに手に入る。
ベブルは「帰るぞ」と言ってから、すぐにフィナの手を取った。
あまりにも羨ましいことを躊躇いもなくしてくれるものだ。ウォーロウは憎らしく思った。こいつが『未来人』に殺されてくれればどんなにいいか。
もちろんベブルには他意はない。こうしなければ帰れないからこうしただけだ。
三人の指輪が光り、彼らはそこから姿を消した。『アカデミー』の学生たちは、その光景を見ても、別に不思議とは思わなかった。転位魔法はまだ珍しいとはいえ、ここは魔術師の聖地『アールガロイ・アカデミー』だ。だが彼らは、ベブルたちが移動したのが空間ではなく時間だとは、夢にも思いはしなかった。
++++++++++
日は沈んだ。フィナとウォーロウはフグティ・ウグフの街の中で宿を見つけ、もうそれぞれ部屋に入っている。
ベブルだけは宿を確保したのちに、『アールガロイ魔術アカデミー』に戻って来た。彼はドアをノックする。
ドアが開いた。出てきたのはヤッヅ・カルドレイだ。ここは寮の彼女の部屋だ。ドアはちゃんと修理したらしい。
ヤッヅはベブルを見て微笑む。
「リーリクメルドさん」
「調べてきたぜ」
ベブルはそう言ってから、ヤッヅの後ろに男が立っているのに気づいた。フィナの兄、ルットー・ディスウィニルクだ。ヤッヅが笑顔なのはこういうわけだ。
ルットーが笑顔で声を掛けてくる。
「ああ、リーリクメルド君じゃないか」
「おう」
ベブルはそれだけ返した。
ヤッヅとルットーは、やはりベブルの服装が気になった。ベブルは何故か『真正派』の黒ローブを羽織っている。
「リーリクメルドさん、それは……?」
「ああ、これか。ちょっと借りたんだ」
「なんだ、『真正派』だったのかと思ったよ」
ルットーは笑い、部屋から出た。どうやら帰るところだったらしい。
「ありがとう、ヤッヅ。ご馳走になった。それに、これで新しい理論がうまく展開できそうだ」
「こちらこそ、またいらして下さい」
そういう会話をして、ルットーは自分の部屋へ帰っていった。ヤッヅは微笑みながらそれを見送る。
「調べてきてくださったんですね。ありがとうございます」
ヤッヅは視線をベブルのほうへ向けた。ベブルは頷く。
「ああ。ディリア・レフィニアは……、特にディスウィニルクを嵌める気はないみたいだ。それに、環境学じゃない。あの女は、時空理論学専攻の学生だ。お前と同じ種類だろ」
「時空理論学……。ええ、わたしと同じです。では彼女は、わたしよりももっと、時空の事を知っているんですね」
「そういうことなんだろうな。だから、あの女が時空の話を始めたら、お前は敵わない。研究馬鹿のディスウィニルクの興味は、時空の話では勝ち取れないな」
「そうですね……」
ヤッヅは苦笑しながら俯いた。
どういう気分なんだろうか。ベブルは思った。俺には判らない。俺の話を聞いて、どんな気分でいま、こうして笑みを浮かべているのだろうか。
ベブルは一冊の本を懐から取り出した。分厚い本だ。
「これを、お前にやる」
「……これは?」
ヤッヅは渡されるままに本を受け取った。表題は『時空粒子論詳説』で、著者の名前はヤッヅ・カルドレイとなっていた。
「お前が書いた本だ。未来の本屋で買って来た。別に盗んできたんじゃねえから、安心して受け取りな」
ヤッヅは顔を真っ青にして、本を突き返す。
「そんな……! 受け取れません」
ベブルは手を横に振り、ヤッヅの返却を受け付けない。
「専門書ってのは結構高いんだな。だが、別に気にしなくていいぜ」
「違います。未来の知識を得るなんて、ずるは出来ません」
「ずるだって? 相手も、同じ事をしてるんだ。奴本人に言わせれば、人の研究を、過去の本人に渡すのは別にいいらしいぜ」
「だめです! わたしには、この本を開けません!」
「いいから読めよ!」
ベブルは怒鳴ると、本を押し返した。いまにも、ヤッヅに向かってその重い本を投げんばかりだ。
なおもヤッヅは大声で拒否する。
「読めません! 自分の未来は、自分でつくります。いま、そう決めたんです。ライバルが未来の人だって、わたしは負けません。この時代に生きる者として、この時代に生きる者らしく戦います。負けません」
ベブルは、さすがに本を押しつけるのをやめた。ヤッヅの瞳の光は強い。
「本当に、いらねえんだな?」
「はい。必要ありません」
ヤッヅは頷いた。
ベブルは『時空粒子論詳論』を放り投げた。宙を舞う。彼が短く呪文を唱えると、明るく燃え上がった。そして、すぐに炎は消えた。本は跡形もなく消え去った。
俺の協力は、あまり役に立たなかったな。ベブルはそう思った。結局は、こいつは自力で立ち直りやがった。全く、手の貸し甲斐のないやつだ。
ベブルは口元に笑みを浮かべる。
「そういや、ディスウィニルクの奴が来てたな。何しに来たんだ?」
ヤッヅは微笑んだ。
「夕食を食べながらお話を。お誘いしたんです。昨日ベブルさんを家に招いて、自信がついたので」
「ふうん。そりゃ良かったな」
ヤッヅは幸せそうだ。
「それで、彼、昨日私が買った花も誉めてくれたんです。そんなこと、期待してなかったのに」
どうやら俺は、ルットー・ディスウィニルクを甘く見ていたようだ。ベブルは心の底に思った。花瓶がひとつあれば一度誉め、ふたつあれば二度、みっつあれば三度誉める男なのだ。尋常じゃない。奴のおかげで、きっとこの部屋は、いまに花だらけになるぞ。
ヤッヅは何かに気付いたようだ。
「あ、あの、何か食べていかれますか? お礼をしないと」
「いや、いい。宿で食うから」
ベブルはすぐに断った。礼など少しも望んでいなかった。そうして彼は、立ち去ろうとした。
「ありがとうございました!」
ヤッヅは大声でそう、彼の背中に向かって言った。
勝つさ。あいつは。あいてが未来人だろうとも。
ベブルは寮棟の外へ出た。
空を見上げる。
星の世界に、月が輝いている。
明日はまた、あいつらと一緒に未来行きだ。ベブルはそう思った。
ウィードは彼と別れる時に、そう約束したのだ。明日、ルーウィングなる人物に引き合わせてくれる、と。『未来人』たちに狙われる者仲間らしい、ルーウィングと。
あの月は、未来でも同じように輝いているだろうか?
ベブルは星空を見つめた。あるいは未来を。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます