雛鶴は 千両にする つもりの名(一)

 具合が悪かったのは空腹と気鬱のせいだったらしく、きちんと飯を食わせて養生させると、たちまちすずめの体調は回復した。さすがに若いだけある。

 おまつもまた、乗りかかったなんとやらで、こまごまと面倒を見てやった。そのせいか、当初はよそよそしかった態度も徐々に軟化し、三月が経った今では「ねえさん、姐さん」と懐かれるようにまでなった。

 しかしそれはおまつにだけで、他の朋輩にはあまり心を開いていないのが気になった。

 商売の時間以外はあまり外へ出ず、顔を合わせても会釈も話もしないため、いつまで経ってもおまつ以外の朋輩と馴れることはなかった。それがまたほかの女たちの癇に障るのか、すずめは常に周囲から浮いていた。

 肝心の商売のほうも、一時期よりはましになったものの、相変わらず客のいいようにされている。

 相手をした男たちの話によると、床の中でも声ひとつあげず、髪の毛一筋乱さず、丸太のように寝転がったきりで味気ないという。いくら美しくても、木偶の坊では興ざめということらしい。

 そんな投げやりな態度が災いしてか、すずめは器量の良さと物珍しさで当初は人気を博したが、一月、二月と経つうちに飽きられてしまい、此中このじゅうでは一日にふたりか三人客が付けば上出来という具合にまでなってしまった。

 ──お願い、死なせておくんなんし

 三月前、自暴自棄ともいえる客取りで衰弱したすずめが発した言葉。

 死にたいから、死にたくても死にきれないから、あんな無茶な客取りをしたのか──。

 正直にいうとおまつは、関わり合いになりたいわけではない。

 だけどなぜか、放り出す気にはなれなかった。

 内儀に託されているというのも差し引いても、すずめを見捨てることができなかった。

 それが生来の世話好きからくるものなのか、それとも別のものなのか、おまつには分からなかったが。




 いつものように湯屋へ行くため準備をしていたおまつの局のふすまが、控えめに鳴らされた。すずめはいきなり開けるような不調法な真似はせず、用があるときは仕切りを軽く叩くのだ。

「おまつ姐さん、おはよう」

「はいよ、おはようさん」

 すずめは浮世離れした廓言葉もかなり抜け、おまつにならったらしい口調へと変わった。もっとも、元よりはすな口調とは無縁だったのか、あまり板には付いていないが。

「どうしたい、朝っぱらからめずらしいね。なんか用かい?」

「うん……」

 たずねると、すずめはなぜか恥ずかしそうに肩をすくめた。しばらく両手をすりあわしたあと、

「あのね、今日はわっちも一緒に湯へ行こうかと思って」

「へえ、どういう風の吹き回しだね。あんたがよその湯屋に行きたいなんて言い出すなァ、初めてじゃないかい」

 すずめはいつも、近所にある幾分ましな湯屋へ行くのだ。

「……たまには外へも行ってみようかな、と思ってさ」

 すずめはそう言って、小さく笑った。その笑顔も、おまつの前でだけ見せるものだった。

 なぜだか突然、妹のことを思い出した。

 おまつが女衒ぜげんに売られたとき、妹はまだ八歳だった。

 身体が弱くてよく寝付いていたが、母代わりのおまつには懐いていた。別れの間際まで腰にすがりついて大泣きしていたのが、この妹だった。

 深川で客を取りはじめてから数年後、佃島界隈から火が出たと聞き、あわてて様子を見に行ったが、辺り一帯丸焼けで住んでいた長屋は跡形もなかった。

 ようやく差配さはいさんを探し当てて家族の行方をたずねたが、生きているのかどうかすら分からないという。

 そうしておまつは、帰る家を失った。

 いい歳をした親父はどうとでも暮らしていけるだろうし、いっそ死んでくれたほうがこれ以上借金がかさまないで済むのだが、まだ幼い妹のことが気にかかった。

 あの子は無事に逃げられたのだろうか。生きていれば、もう嫁に行っただろうか。

 もしあたしが売られずにあの長屋に残っていれば、あの子を逃がしてあげられたのに。

 あたしがあの子を死なせてしまったのではないだろうか──。

 そんなことをつらつらと考えていると、すずめが「おまつ姐さん?」と、小首をかしげた。

 急に気恥ずかしくなったおまつは、話題を変えた。

「そうさね、最近あったかくなったし、散歩のついでに行ってもいいんじゃないか」

 いつまでも狭い局に籠もり、おまつ以外の朋輩としゃべることもなく客を取るよりは、よほど気晴らしになるだろう。おまつもそろそろ、知り合いのいない湯屋でひとり風呂に入るのにも飽きてきた。

「ついでに茂吉っつぁんとこでおさいを買おうかね。すずめも食うだろ?」

「あい。今日のお菜はなにかな。こないだ分けてくれた芹の白和えは、いっそ美味かったよ」

「そうさなあ、今ならむき身切り干しかねえ。大根にあさりの味がしみて、頬ぺたが落ちるようだよ」

 去年食べたのを思い出しつつ説明すると、すずめは「いいなあ。聞くだけでお腹が鳴りそうだ」と、うれしそうな顔をした。

 そうしてふたりは手拭い片手に外へ出た。

 まだ閑散としている羅生門河岸を抜け、京町二丁目の通りへと向かう。

 すると、それまで普通に歩いていたすずめは、急におまつの後ろへ下がってしまった。大柄なおまつの背に隠れ、左右のまがきを避けるように顔を伏せる。

 京二を抜けて木戸をくぐると、仲ノ町だ。

 先に大通りに出たおまつは、すずめが木戸の手前でとどまっているのに気付いた。うつむいて、下駄を履いた自分の爪先を見つめている。

「どうしたい?」

「……やっぱり、わっちは戻ってるね。悪いけど、今日もわっちの分のお菜も買ってきてくれる?」

「ああ、まあそりゃいいけど……」

 気が進まないものを、無理に行かせる必要もない。

 そう考えたおまつは、あえてすずめと別れて先へ進んだ。秋葉常灯明を右に曲がると、鮮やかな桜色が飛び込んできた。

 昨日まではなんの変哲もない大通りだった仲ノ町の真ん中に、青竹で囲って根元に山吹を植え付けられた桜の木が、間隔を開けていくつも植えられている。

 そうだ、今日は弥生の朔日ついたち

 仲ノ町には桜がずらりと植えられ、ひと月のあいだ吉原ちょうを華やかに彩る。その様は江戸の名物にも数えられ、遊客以外にも多くの見物客が訪れるのだ。

 まだ昼見世前なので客はいないが、五分咲きの桜をどこぞの見世の新造や禿たちが楽しげに見物していた。着ているものはなかなか上物で、どうやら大見世のたちらしい。

 ──なるほど、だから来るのを嫌がったのか

 以前いた見世の人間に会うかもしれない。

 そうじゃなくても、茶屋の者や芸者、幇間など、顔見知りはそれなりにいるだろう。下手すると、朝湯を使った昔の馴染み客に見つかるかもしれない。

 すずめはそれを厭うたのではなかろうか。

 といっても、想像でしかない。すずめは相変わらず自分の過去については語ろうとしないし、おまつもまた言いたくないものを無理に聞き出そうとはしなかった。

 だから本当のことは分からない。

 ただ、それほど当てが外れているとは思えなかった。




 結局いつものようにひとりで湯を使ったおまつは、茂吉じいさんの煮売り屋に寄った。期待したむき身切り干しは残念ながらなかったけれど、芝海老の芝煮があったのでそれをふたり分買った。

 お菜を入れた鉢を抱えて長屋へと戻ってきたおまつは、すずめの局の前にひとりの男が立っているのに気付いた。男は木戸を叩きながら、なにやら話しかけている。

「いるんだろ、雛鶴。調べは付いてんだ、隠れたって無駄だぜ」

 ──〝ひなづる〟?

「俺は客だぞ。そら、開けろよ」

 眉を寄せるおまつに気付くと、男は舌打ちひとつ残し、立ち去ってしまった。

 頬被りをしていたので、顔はよく分からない。堅気らしくない格好で、客というよりどこかの見世の若い者を思わせた。

「なんだい、ありゃ」

 首をひねっていると、隣室の木戸が一寸ほど開いた。隙間からのぞいた目がこちらをとらえると一瞬びくりと揺れるが、おまつだと分かるとか細い声で、

「……もう行った?」

「ああ、もういねえよ」

 そう答えると、ようやく安心したように木戸が開いた。買ってきたお菜を分けるため鉢を渡そうとすると、

「……中、入ってくれる?」

と、すずめがひどくかすれた声で言った。




「ごめんね、お使い頼んじゃって」

「別に、ついでだからね。あいにくだけど、むき身切り干しはなかったよ。次のお楽しみだァね」

 ほらよ、と鉢を差し出すと、すずめは「ありがとう」と受け取り、代金をおまつの手に握らせた。隅に寄せておいた箱膳から飯椀を取り出して、お菜を箸で移し替える。

 移し終えたのを見計らい、「そんじゃ」とふすまを開けかけたおまつを、すずめは遠慮がちに呼び止めた。

「あの、おまつ姐さん。……ちょっとだけ、話をしてもいい?」

 なにやら深刻な表情で言われ、つい動きを止めてしまう。

 ふたたび向き直ったおまつに、すずめは白湯の入った湯飲みを差し出した。自分の分の湯飲みを手にしばらくもじもじしていたが、意を決したように口を開いた。

「さっきの男……。なんて言ってたか、聞こえた?」

「…………」

 おまつの無言を肯定と取ったらしく、すずめは視線で答えを促してくる。

「……あたしには〝ひなづる〟って聞こえたけどね」

 すると、薄暗い室内でもそれと分かるほどすずめの顔色が変わった。紅い唇をきゅっと噛み、頭を垂れる。

 言いたくない過去は、詮索しない。

 それが、羅生門河岸での暗黙の了解。

 だけど、聞いてほしい、相談したいとなれば話は別だ。

 今のすずめの気持ちを優先するため、おまつはあえて次の句を待った。

 やがて、「……それ、昔のわっちなの」と、すずめはぽつりとつぶやいた。

 ひなづる──雛鶴。

 その名を持つ者は、吉原ちょうでは常にひとりしかいない。

 遊女三千人の頂点に立つ、特別な花魁。

 岡場所出で吉原ちょうに疎いおまつですら、その名は聞いたことがある。

 それが──。

「あんたが、あの雛鶴なのかい?」

 たずねると、すずめはこくんとうなずいた。

 おまつの耳に、三月前の内儀の声が蘇った。

 ──「……まあ、ちょっと訳ありでね」

 なるほど、内儀が言葉を濁した理由が分かった。これほどの上妓じょうぎが堕ちてくるとは、ただ事ではない。

 すずめは湯飲みに息を吹きかけ、しばらく白湯をすすっていたが、

「……『雛鶴』の話、聞いてくれる……?」

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