鳳凰の末 切見世へ 舞ひ下り(二)

 ──ちっ、またかよ! あたしは新入りの世話係じゃないっての!

 面倒見がよいと思われているのか、おまつはこれまで何度か新入りの世話を押しつけられてきた。

 こっちだって吉原へ来てまだ二年、たまったものではないと訴えてはいるのだが、いざ頼られれば放り出すのも気が引け、ついつい面倒を見てしまう。我ながら損な性分である。

 しょうがない、と嘆息したおまつは、あらためて女に向き直った。

 女は自分の頭の重みに耐えられないという調子で、ふたたびうつむいてしまう。

「……なんだかよく分からんが、まあこれも何かの縁だし、仲良くやっていこうじゃないか」

「…………」

「あんた、名前なんてんだい?」

「…………」

 気を取り直したおまつが声をかけるが、女は返事をしなけりゃ顔も上げない。

 頼られれば面倒を見てやろうという気にもなるが、こんな礼儀知らずは言語道断だ。

 元来血の気の多いおまつは、我慢できずに剣突けんつくを食らわせた。

「ちょいと、聞いてんのかい? それともあんた、声が出せないとでも? その可愛かあいい唇は、口取りにしか使えねェってか」

 わざと下品にからかってやると、果たして女は顔を上げた。真っ白な頬がわずかな朱を差している。

 ぎゅっと唇をひと噛みしてから、息を漏らすようにつぶやいた。

「……名は、ありんせん」

「は? 今なんつった?」

「名前など、ありんせん。どうしてもとおっせェすなら、『すずめ』と呼んでおくんなんし」

 そう一息に告げると、女は身を翻しておまつの隣の局へと駆け込み、ぴしゃりと木戸を閉め切った。

 ひとり残されたおまつは、あっけに取られしばらく動けなかった。遠くから聞こえる行商人の声で、はっと我に返る。

 ──なんだい、あの女は!

 いまいましさに、思わず下駄を踏み鳴らした。

 せっかくこっちが仲良くしてやろうってのに、とんだご挨拶だ。そっちがその態度ならこっちだって情けをかける道理はない。

 ぷりぷりしながら自分の局に入ったおまつは、腹立ち紛れに隣とを仕切るふすまを蹴飛ばしてやった。薄っぺらいふすまはおまつの爪先を食らい、一寸ちょっとの破れ目を作ってしまった。

 文句を言ってきたら倍にして返してやろうと、おまつはどっかと畳にあぐらをかいてふすまの穴をにらみつけたが、ふすまはちらりとも動く気配がなく、しんと物音ひとつしない。

 やがて待つのも飽きてしまったおまつは、そこらにあった枕紙を数枚取り、つばきをつけて穴をふさいだ。こちとら穴が開いていようが全開だろうがお構いなしに商売に励めるが、来たばかりのあの女はそうはいかないだろう。

 そうしてふすまを修繕し終えたおまつは、ふと思った。

 ──あいつ、もしかしてどっかの花魁だったのかね

 女の口から漏れた廓言葉、あれは相当な大見世で使われるものだ。

 おまつがいた小見世でもありんす言葉はあるにはあったが、しょせん使うは下級女郎、伝法な口調が混じって品のないものになっていた。

 しかし、さっきのは違う。

 くわえてあの並外れた器量、若さ──。

 吉原の中でも最下級である羅生門河岸に来る女は、たいていが段階的に転落してくる。

 最初はそれなりの見世で突き出された女が、稼げなくなりより格下の見世に鞍替えし、最終的にここへ流れ着くのだ。

 だがごくたまに、年若く器量の良い遊女がいきなり堕ちてくる場合もある。

 たいていは、間夫まぶ狂いで借金がかさみすぎたとか、隙あらば足抜けを企む往生際の悪い女だとかで、けっこうな難物であることが多い。

 ──「……まあ、ちょっと訳ありでね」

 内儀もたしかに、そう言っていた。では、やはり──。

 しばし思案にふけっていたおまつだったが、すぐに考えるのを止めた。部屋の片隅に押しやっていた塗りの剥げた鏡台の前に座り、身支度をはじめる。

 あの女の素性がどうであれ、自分には関係がない。

 もうすぐ昼見世がはじまるのだ、ひとりでも多くの客を取るほうがよほど重要なのだから。




 昼見世の間、隣の局の木戸は一度も開かなかった。

 切見世ではふつう、客引きの間は木戸を開けておき、いざ床をつけるときには閉めるのだ。木戸が閉まっているということは、商売の真っ最中である。

 しかし、隣の女は木戸を開くどころか、顔を出すこともなかった。もしや切見世のしきたりを知らぬのか、内儀はなにも教えていないのか、と思いつつ客を待っていると、当の内儀が様子を見に来た。

 新入りはどうだ、と聞かれ、「どうもこうも、鼻面ひとつ出しゃしないよ。お内儀かあさん、ちゃんと切見世ここのやり方教えたのかい?」と返すと、内儀は不機嫌そうに唇を曲げた。

「当たり前だろ、ここは五丁じゃないんだ。ボケッと座ってるだけじゃ駄目だって、最初によっく含めといたさ」

「ふうん、五丁ねえ……」

 内儀の台詞は、言外にあの女がそこそこの上妓だと示していた。

 やっぱりね、というおまつの反応に「しまった」という顔をした内儀は、取り繕うように隣の木戸を叩いた。

「ちょいと、怠けてるんじゃないよ! そんなんじゃあ、百年経っても年季ねんは明けやしないよ!」

 しかし内儀の叱咤を受けても、木戸はすべてを撥ねつけるように閉まったままだ。

 叱られるのはいい気味だが、あまりにもぎゃあぎゃあ叫ばれると、こちらの客足に影響が出てしまう。

 現に内儀の剣幕に恐れをなしたのか、こちらに来ていた職人風の男が回れ右して立ち去ってしまった。

 見かねたおまつが、「いいじゃないか、今日くらいは大目に見ておやりよ。お内儀かあさんだって、兵庫屋に売られてきた当日は妓楼なかを見て回っただけで終わりだったろ?」

「……そりゃまあ、そうだけど……」

 かつては兵庫屋で御職おしょくを張ったもんだと自慢していた内儀は、鼻白んだように口をつぐんだ。ぶつぶつと何事かをつぶやきながら、内儀は内所へと戻っていった。

 うるさいのが去ったあとも、隣の木戸は動かない。

 ──そのうち思い知るさ、ここでは自分から腰を上げないと始まらないってね

 おまつはそう胸裏でつぶやくが、通りがかった男を見つけるとたちまち商売に戻った。逃さぬようにがっちり腕をつかみ、

「羽織さんちょいとちょいと。遊んでかないかい?」




 結局、すずめと名乗った女もようやく観念したのか、翌日から木戸が開いた。

 とはいえやはり戸口で男を引くには勇気が出ないのか、上がりかまちに引っ込んだままだった。

 これで商売になるのだろうか、とひそかにおまつは懸念していたが、どうやら杞憂であったらしい。ひとりの男がちらりと中をのぞくなり、前のめりで局へと駆け込んで音高く木戸を閉めた。

 その後も客が途絶えることはなく、切見世には稀な美女がいるとたいそうな評判になり、幾日も経たないうちにすずめの局の前には行列までもができるようになった。

 順番待ちをする男たちは気もそぞろで、待ちかねて木戸を叩いて早く終われと催促する輩も出る始末だ。

 すずめは今や、この萬字屋のみならず、羅生門河岸全体の一番人気の売れっとなった。

 ──あいつ、やるじゃねえか

 おまつはほっとする反面、妬ましさを感じた。

 これでも掃き溜めに鶴だと自負していたのだ。

 おまつが誘えばたいていの男は応じたし、お直しという延長も快くしてくれる。

 あたしこそが、羅生門河岸の御職おしょく

 地虫でも、地虫なりの矜持というものがあったのだ。

 それなのに、あの女は袖を引くこともなく、ただ座って待つだけで次から次へと男たちがやってくる。

 さらに憎らしいことに、すずめに人気が集中するあまり、他の局女郎へは客が回らなくなってきたのだ。ある日など、一帯の局にひとりも客が入らず、すべてがすずめの局に行列したことすらあった。

 これにはおまつのみならず、朋輩女郎たちは色をなした。河岸に来る客すべてを独り占めしているのだ、怒りを買うのも当然だ。

 あまりにも客が流れていくため、ある年増女郎が順番待ちをしている男にコナをかけたこともある。しかし「失せな、婆ァにゃ用はねえよ」とすげなく袖を振り払われてしまい、かかなくてもよい恥をかいてしまう有様だった。

 ──ちっ、あいつのせいでおまんまの食い上げさね。せめて隣じゃなけりゃ、影響も出なかったってのにさ

 今日も閉まりっぱなしの木戸を睨み、おまつはひそかに毒づいた。

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