マスクドヒーロー大戦 -Winter Chronicles-

オリーブドラブ

超電特装ゴーサイバー&メタル・ライフセーバーズ

Nursery Princess

第1話 豪華客船エルヴェリック号


 ――新年戦争ニューイヤー・ウォー。私達が平穏に暮らす今の時代に、そう称され記録されている戦いがある。

 数多の英傑が一堂に会し、共に故郷ふるさとの星を守るべく巨悪に立ち向かった、地球人類史上最大の決戦。その戦いの中で、多くの勇敢な者達が斃れ、表舞台から姿を消した。

 彼らの身命を代償とし、この星の人類は勝利を手にしたが――戦いは、未だに終わってはおらず。

 悲しみも憎しみも異形の体に閉じ込めて、人ならざる者達は今日も剣を取るのだ。


 ――全ては、「ヒーロー」の魂に報いるために。


 ※古賀電助こがでんすけ著「新年戦争見聞録」冒頭より


 ◇


「……ヒーローの魂、か。あの狸親父が選びそうな言葉だ」


 暗闇と静寂に包まれた書斎。その中で独り、一冊の本を嗜んでいた男が、「新年戦争見聞録」を本棚に戻す。彼の貌を照らしているコンピュータのディスプレイは、ある豪華客船のホームページを映していた。

 煌びやかな装飾と荘厳な船体は、由緒正しき者だけが持つ「威光」の強さを物語っている。その船を眺める男は、口元を歪ませ――己の貌を「嗤い」に染めていた。


「さて……ならば俺も、先人の御霊に報いるとしようか。そのためにも――まずは」


 ホームページが、切り替わる。

 次の画面には、客船の関係者らしき初老の男性と――その隣に寄り添うように立つ、絶世の美少女が映されていた。


 純白のドレスさえ霞む珠のような柔肌。彫刻の美術品ですら及ばぬ、完璧な配置で並ぶ目鼻立ち。蒼く透き通った瞳に、高貴な生まれを物語る艶やかな金髪。

 ショートに切り揃えられていても隠せないその輝きと美貌が、男の目に留まっていた。


「……『苗床』を、頂くとしよう」


 感情というものが窺えない、寡黙な表情を浮かべる美少女。その貌を見つめる彼は、これからの未来予想図に胸を馳せ、不敵な笑みを零すのだった。


「さて……中條なかじょう。お前の手並みも、見せて貰おうか?」


 ◇


 ――新年戦争が終結して、間も無く。束の間の平和を破るように、新たなる侵略者「リユニオン」が現れ、地球への侵攻を開始していた。

 これに対抗すべく現れた新たなヒーロー集団「セイバーVファイブ」は、リユニオンに敢然と立ち向かうのだが……戦いは膠着状態であり、互いに決定打を与えられない状況が続いていた。


 そんな中、セイバーVと同規格の戦隊である「超電特装ちょうでんとくそうゴーサイバー」が、地球防衛隊により新たに編成された。

 しかしリユニオンの急襲により、本来ゴーサイバーになるはずだったメンバーは全滅。彼らに代わりその座につくことを強いられたのは、華特高校かとくこうこうに通う少年少女達であった。


 生きるため。大切な人を守るため。家族の復讐を果たすため。各々の理由を胸に、彼らはヒーローに変身し、リユニオンとの対決に臨んで行く。

 ――その戦いの火蓋が切られ、しばらくの月日が過ぎた頃。


 ゴーサイバーの中心に立つ、ある1人の少年に……高く険しい障壁が迫ろうとしていた。


 ◇


 ――ロウアー・マンハッタン。

 アメリカの大都市ニューヨークに位置する、マンハッタン島の最南端に当たる地域。その近辺にある港に、2人の男女が足を運んでいた。

 クリスマスムードが漂う寒空の下、彼らは大都会の道を歩んでいる。


「中條さん、あれが例の……?」

「そう。今回、我々が護衛することになっている豪華客船『エルヴェリック号』だ」

「……参ったなぁ。アメリカ防衛隊での研修が終わって、やっと日本で一息つけると思ってたのに」

「人類の平和を託されている我々に、そんな休日はない。下らないことを抜かしていないで、さっさと行くぞ」


 黒髪の少年――楠木達也くすのきたつやは、隣に立つ黒髪の女性――中條霞なかじょうかすみを見上げ、ため息をつく。愛想というものが感じられない鉄血の美女は、仏頂面のまま目的の船を目指して歩んでいた。


「しかも、マクファーソン……か」

「……?」


 マクファーソン。その名を呟く達也に、霞は訝しむように振り返るが――彼の視線は、行く先に聳える巨大な豪華客船に向けられていた。


 ――豪華客船エルヴェリック号。

 イギリスの大貴族、アーヴィンド・マクファーソン伯爵が所有する巨大客船であり、外見から内装に至る全てが、煌びやかな装飾で彩られている。

 当然ながら、並大抵の一般客には乗ることはおろか近づくことさえ叶わない高貴な船であり。乗客乗員問わず、この船に足を踏み入れる資格があるのは、由緒正しき家柄の者がほとんどであった。


 地球防衛隊アメリカ支部での研修を終えていた中條霞と楠木達也は、ロンドンに向かうこの船に乗り、マクファーソン伯爵の護衛をするよう防衛隊本部に命じられたのである。


 マクファーソン家はイギリスの名家であると同時に、地球防衛隊に多額の寄付をしている資産家でもある。今回、彼らがこのアメリカに来ているのも、アメリカ支部への寄付を表明するため。

 本部は防衛隊の協力者であるという理由で、マクファーソン家がリユニオンに狙われる可能性を危惧しているのだ。


 ――だが。その大任を課せられている当の達也は、浮かない表情でエルヴェリック号の荘厳な船体を見上げている。


 基礎体力で他のゴーサイバーに劣る達也を補強するために組まれた、アメリカ防衛隊での研修は熾烈を極め――すでに彼は体のあちこちに痣を作っていた。

 それほど消耗している状態でありながら、日本に帰れないどころか護衛任務まで遂行せねばならなくなったことを受けて、彼は心底うんざりした表情を浮かべているのだ。


 ――任務を終えて故国に帰った先でも、共に戦う仲間である少女達による、恋の鞘当てが待ち受けているのだから。


「マクファーソン伯爵、ご機嫌麗しゅうございます」

「この席にお招き頂き、至極光栄に存じますぞ」

「皆様、よくおいでくださいましたな。今宵は、存分に楽しんで下され」


 そのエルヴェリック号の入り口付近では、身なりのいい男達が集まっている。彼らの中心に立ち、金髪を靡かせる初老の男性は、にこやかな面持ちで周囲に対応しつつ、船内へ進もうとしていた。

 ――そんな彼の隣には、白いドレスを纏う金髪の少女が控えている。取り巻きの中の若い衆は、その少女にも注目しているようだった。


「ラティーシャ様も、ご機嫌麗しゅうございます。いやはや、いつにも増してお美しい」

「いかがです、今宵のダンスは是非この私と……」

「……」


 甘いマスクと言葉を武器に、少女を口説き落とそうと良家の子息が群がってくる。だが、彼女は取り付く島もないと言わんばかりに、無表情のまま会釈だけすると……そのまま船内へと進んでいってしまった。


「……申し訳ない。娘はいささか、人見知りしがちなところがありましてな。なに、今宵のパーティでは良き出会いもあるでしょう」


 そんな愛娘の背を見送り、金髪の男性――アーヴィンド・マクファーソン伯爵は、周囲に微笑を送る。

 そこへ霞と、彼女の後ろを歩む達也が現れた。二人はアーヴィンドの前に並び立つと敬礼し、自己紹介する。


「――お初にお目にかかります、伯爵。地球防衛隊所属、中條霞であります」

「同じく、楠木達也であります。この度は貴殿の護衛の任に――」

「ふん、防衛隊所属のゴーサイバー……とかいうのは君らのことかね。話は聞いているよ」


 すると、彼らの自己紹介を遮り、アーヴィンドは露骨に顔を顰め背を向ける。お世辞にも、歓迎されているとは言い難い反応だった。

 霞と達也は互いに顔を見合わせると、揃って微妙な表情を浮かべる。


(……なんだか、やたら嫌われてません? 僕達)

(防衛隊の協力者である以上、邪険にはされないだろうと思っていたのだが……何か、事情があるのかも知れんな)


 そんな彼らを横目で見遣り、アーヴィンドは鼻を鳴らして船内へと入っていく。その後ろを、取り巻き達が慌てて追いかけていた。


「せいぜい、目障りにならぬよう働いてくれたまえ。ここは本来、君達のような下賤の者が近寄れる場ではないのだからな」


 ――去り際に、そんな捨て台詞を残して。


 ◇


 その日の夜。ロンドンを目指すエルヴェリック号では、賑やかなクリスマスパーティが開かれていた。


 心地よい音楽と煌びやかなシャンデリアに彩られた、上流階級の集い。その中心に立つアーヴィンドは、自分に集まる企業家や高官を相手に微笑を浮かべている。

 一方、娘のラティーシャは相変わらず男達に言い寄られているようだったが……冷たい無表情に変化はなく、近寄り難い雰囲気を放ち続けている。


「……まさか、あの子と任務で関わるなんてなぁ」

「ん? ラティーシャ様と知り合いなのか」

「あっ、伊葉いばさん」

和士かずしでいい」


 ――達也はその隅で、スーツに身を包み護衛役に徹している。そんな彼のところへ、長身の青年が親しげに歩み寄って来た。年齢は、20歳前後といったところだろう。


 彼の名は伊葉和士いばかずし。レスキューヒーロースーツ「着鎧甲冑ちゃくがいかっちゅう」を持つ、ヒーローの一人だ。

 数多の救出作戦に参加し、多くの人命を救って来た英雄としてその名を知られており、マスコミだけでなく上流階級からも注目されているエリートヒーローである。

 今回彼は、達也達ゴーサイバーをサポートする為に、この船に同乗しているのだ。


「……あれは、あの『至高の超飛龍アブソリュートフェザー』ことカズシ・イバ殿では……?」

「なぜあのような護衛役風情と親しげに……」


 彼が達也の隣に立つと、近くにいる貴族達の視線が、本来こうしたパーティの場では「日陰者」であるはずの護衛役に向かい始めた。突き刺さるような視線に晒され、達也は苦笑いを浮かべる。


「ゴーサイバーの任務とは無関係に、会ったことがあるのか?」

「……あの子、中学の時に僕のクラスにいたんですよ。留学してたんです、その時」


 遠目にラティーシャを眺める達也は、苦笑混じりに天を仰ぐ。思い出すのも憚られる過去が、彼の脳裏を過っていた。


 ――中学時代。達也は自身の正義感が原因で壮絶な虐めに遭い、心を閉ざしていた。その時期、ラティーシャは達也のクラスに留学していたのだ。

 達也は今も、殴られている自分を見つめていた彼女の貌を、はっきりと覚えている。自分の情け無いところを全て見られている達也としては、任務とはいえラティーシャと関わることには気不味さを覚えていたのだ。


 ラティーシャ自身が達也のことを忘れていたのであれば、そこまで気にする必要もなかったかも知れない。

 が、彼女は度々横目で達也の方を見遣っていた。その線は、薄いと言っていいだろう。


「……なら、今度は強くてかっこいい君を見せてやればいいさ。本当はそんな機会、ない方がいいんだろうけどな」

「僕は今も、弱いままですよ。ゴーサイバーの中で一番弱いから、アメリカまで訓練しに行ってたんですし……」

「俺は、そうは思わないよ。ジェノサイザーとの戦いは、映像記録で見せてもらった。あれで君を弱いと断じる人間など、そうはいないさ」


 自虐するように笑う達也を見つめ、和士は真剣な声色でそう言い切ってみせる。有無を言わせぬその面持ちに、達也は暫し言葉を失った。


「和士さん……」

「……俺にも、情け無いところを見せたまま別れてしまった友がいる」

「情け無いって……和士さんが?」

「世間じゃあ、俺を『エリートヒーロー』だの『レスキューヒーローの鑑』だの、適当なことを言ってるようだが……何のことはない。目の前で誰かが死にかけていても、足が竦んで動けなかったような男さ、俺は」

「……」


 遠い過去を見つめるような眼差し。その横顔を見遣る達也の目には、英雄「伊葉和士」の素顔が顕れていた。包帯を巻いた自身の両手を見下ろす彼は、憂いを帯びた眼差しで「過去の爪痕」を振り返っている。


「そんな俺の背を、あいつは……バカみたいに笑って、押してくれた。あいつは……俺よりもずっと、ヒーローに相応しかったはずなのに。俺が『名誉』なんてモノに拘ったばかりに、その道を閉ざされてしまった」

「和士さん……」

「今はどこで何をしてるのか……俺にもわからないが。せめて、幸せであって欲しい。俺に願えるのは、それだけだ」


 やがて、取り繕うように達也の方に向き直ると、和士は朗らかに笑う。どこか羨んでいるようなその眼は、「可能性」に溢れる少年の姿を映していた。


「……君なら、まだいくらでも取り返しはつくさ。あの時とは違う、と胸を張っていればいい。彼女も、ヒーローとして成長した君を悪くは思わないはずさ」

「そう、でしょうか」

「ああ。……まぁ、マクファーソン伯爵はちょっと違うみたいだけどな。さっき挨拶に伺ってきたところだが……俺も露骨に嫌な顔をされたよ」

「あはは……」


 ヒーローとしての先輩も、似たような経験をしている。その話を受けて親近感を覚えたのか、ようやく達也の表情もほぐれてきた。

 すると、和士は彼の「片割れ」がいないことに気づき、表情を変える。


「そういえば、中條隊員の姿が見えないが……外の巡回か?」

「はい。もうすぐ帰ってくるところだと思うんですけど」


 何気なくそう答える達也の横顔を見遣り、和士は神妙な面持ちで……遠巻きにアーヴィンドの方を見遣る。

 護衛役のヒーロー達を冷遇し、来賓達には好意的に接している彼を、その黒い瞳は鋭く射抜いていた。


(伯爵のあの態度……やはり、防衛隊上層部から流れてきた「例の噂」は、本当だったらしいな)


 ◇


「ふむ。……異常はなし、と」


 ――その頃。降りしきる雪を見つめ、外の夜風に黒髪を靡かせる、中條霞は。

 手すりの傍らを歩みながら、船外の巡回を務めていた。リユニオンの怪人が、暗夜の海に紛れて忍び込んでくる事態に備え――叩き上げの中で鍛えた観察眼が、鋭く四方を貫いている。


(マクファーソン伯爵は防衛隊にとって重要な後援者パトロン。狙われないはずがないと見ていたが……未だ、そのような気配は窺えんな)


 だが、その一方で。彼女の胸中には、アーヴィンド・マクファーソンへの疑念も渦巻いていた。


(……マクファーソン伯爵といえば……我々に対するあの態度は、妙だ。仮にも護衛役であり、自身が投資している防衛隊の軍人を、ああも毛嫌いするものだろうか? それに、ラティーシャ様に言い寄っていた男達には、やけに親切な対応だった。このパーティに、一体何がある……?)


 防衛隊の軍人にして、ヒーロー。それは言うなれば名声と実力の塊であり、超が付く優良物件と言っても差し支えない。名誉にうるさい貴族社会にとっては、喉から手が出るほど欲しい人材であるはず。

 にも関わらず、当のアーヴィンドはその優良物件であるヒーローを冷遇し、可も不可もない同業者ばかりを歓迎している。

 人によって選り好みはあるだろうが、それにしてもここまで「ヒーロー」という名声の塊を軽んじるアーヴィンドの対応は、貴族としては異様である。


 このパーティには、彼をそうさせる「何か」があるのではないか。そう踏んでいる霞は、スゥッと目を細め眼前の景色を射抜いていた。


(……ん?)


 ――すると。霞の目に、奇妙な人影が留まる。


 艶やかな黒髪を靡かせる一人の青年が、手すりの上に腰掛けていたのだ。

 海の方を見遣るその青年は、小麦色に焼けた肌と口元から覗く八重歯を持っており――麦わら帽子や青いボロ布の服装も相俟って、ズボラな印象を与えている。少なくとも、このエルヴェリック号の乗客に相応しい外見や振る舞いではない。


(あれは日本人……? いや、それより……!)


 その異様な姿も、十分問題ではあったが。それ以上に、青年が今やっている・・・・・ことが大問題だった。


「そこの貴様、何をしている!」

「んぇ? 何って……釣りだべ」

「つ、釣りって……。いやそれより貴様、どうやってこの船に入り込んだ」


 釣り。豪華客船の手すりに座り、航行中の船の上から、釣り。

 それだけでも、体裁や格式に拘る貴族からすれば卒倒ものの事案なのだが。青年は霞の追及を受けても悪びれる気配はなく、むしろ子供っぽい仕草で眉を吊り上げている。


「あー、ひでぇべ。お姉さんまで、おらがこっそり忍び込んだって思ってるんだか?」

「……まさか、正規の手続きでこの船に?」

「そうに決まってるべ! ほら、これ!」


 青年はムスッとした表情で、一枚の券を霞に差し出した。それを手にした彼女の貌が、みるみる驚愕の色に染まっていく。


 それは東京で行われていた、一名限定の福引の景品だったのである。たびたびCMで宣伝されていたため、訓練漬けで世俗から離れがちの霞も知っていたのだ。

 エルヴェリック号の乗船券。並の金持ちでは近寄ることすら難しい豪華客船に乗るという、その千載一遇のチャンスを、このズボラな青年がモノにしていたのである。


「これは、福引一等賞の……」

「へへん、おらこう見えて運はいい方なんだべ? 入り口の人達も、お姉さんみたいにびっくらこいてただよ。あ、乗る時はちゃんとドレスコード? とかに引っかからないように着飾ってただよ」

「……失礼しました。その、乗客の方にしては身なりや素行がそれらしくないように見えて……」

「わかってくれたなら、それでいいだよ。いやぁ、それにしても冬の海はやっぱり冷えるべ……」

「原因はほぼ、そのお召し物だと思われますが……」


 外見こそ、この船には相応しいものではないが……少なくとも今この場においては、同乗している貴族達と同じ「正規の客」には違いない。

 僅か一時でも早合点して、密航者だと疑ってしまった自分を恥じるように、霞は深々と頭を下げる。が、青年は特に根に持つような気配もなく、「にへら」とだらし無く――そして、おおらかに笑っていた。


「……あの。大変失礼とは思われますが、ここから釣りをされても収穫があるとは……」

「いんだべいんだべ、こういうのは雰囲気が大事なんだから。お姉さんもどうだべか?」

「いえ、私は巡回の途中ですので。では、失礼しま――」


 そんな彼と、短く言葉を交わした後。霞は気を取り直して、任務に戻ろうと青年に背を向ける。


 ――その時だった。


「キャアアアッ! 坊やぁああッ!」

「――ッ!?」


 霞が振り返った先で――手すりに掴まって遊んでいた少年が、足を滑らせ転落する――という事態が展開されていたのである。

 僅か一瞬でも目を離したばかりに、愛する息子を失おうとしている母親の絶叫が、この事態の重さを主張しているようだった。


「くッ……!」


 迅速に事態を飲み込んだ霞は、弾かれるように走り出した。だが、彼女が一歩踏み出すごとに少年の体は、暗く冷たい海に落下していく。


(ダメだ……到底、間に合わない!)


 例え変身しても、少年を助けることはできないだろう。気付くのが、遅過ぎた。

 肝心な時に、致命的な見落としを犯していた己の不注意を呪い、霞は走りながら唇を噛みしめる。


「……え?」


 だが、次の瞬間。

 彼女の頬を掠めるように――細く小さい何かが、通り過ぎた。後ろから飛んできたそれは、曲線を描き矢のように少年に迫る。


 それが何なのか、霞の思考が追いつくよりも速く。

 少年の襟首に引っかかった「釣り針」が、海に落ちる寸前だった彼の体を静止させ――反動で、一気に跳ね上げた。


 ふわりと宙に舞う少年の体は、弧を描いて夜空を駆け抜けていく。やがてその小さな体は、釣り人の腕の中にすっぽりと収まるのだった。


「よっ……と。うへへ、どうだべお姉さん。収穫なら、ホレ」

「な……!」


 小麦色の青年は、釣り上げた魚のように少年の襟首を摘んでいる。やがてその体は、優しく船上に降ろされるのだった。


「う、わぁ……ぁああん!」

「おっとと。へへ、怖かかっただなぁ。大丈夫だぁよ、ここはもう船の上だべ」


 手すりから滑り、落下し始めてから、数秒。怒涛の展開が終わり、ようやく我に帰った少年は――忘れていた恐怖がぶり返したのか、時間差で泣き始めてしまった。

 そんな子供の頭を、優しく撫でながら。青年は、「にへら」とだらしない笑みを浮かべている。


「坊やぁああ! あぁ、ありがとう! ありがとうございます!」

「ママぁあ!」


 一方、死の淵を乗り越え再会した親子は、互いに声を上げながら抱き合っていた。何度も青年に礼を言い、母親は愛おしげに息子を抱き締める。


(……み、見えなかった……! あの一瞬で子供に狙いをつけ、釣り上げたというのか!?)


 その親子を見下ろしながら。霞は、青年が見せた一瞬の早業に、瞠目していた。

 釣りの要領で子供の服を正確に引っ掛け、重心の安定しない手すりに座りながら、怪我をさせないよう引き上げる。一体、どれほどの腕力と体幹、そして力のコントロールと判断力が備わっているというのか。

 間違いなく……只者ではない。


「……お見事でした。私からも御礼を申し上げ――!?」


 だが、今はそれよりも礼が先。そう思い立った霞は、防衛隊の自分に代わり民間人を救出した青年に声をかけようと、顔を上げる。


 ――の、だが。

 すでに青年は、この場から姿を消してしまっていたのである。あの僅かな間に、今度は自分の姿を消してしまっていたことに、霞は目を見張り頬に冷や汗を伝わせた。


(彼は一体、何者……!?)

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