敵の正体
「おい、
幕舎の片隅で膝を抱えて震える
とりあえず暗いままではよくないだろうと、俺は警戒用のかがり火から種火をもらい、幕舎内の灯りに火をともした。
そうしているあいだも田豫は幕舎の入り口に背を向けて小さくなったまま、動かなかった。
「国譲、どうした?」
どうもただ事ではなさそうなので、入り口の布をおろし、外からの目を隠しながら、田豫に歩み寄る。
あいかわらず、呼んでも反応はない。
「なぁ、よっちゃん?」
試しに
「か、簡さん……」
灯りが作り出す陰影のせいもあるだろうが、田豫は昼間に比べてげっそりとして見えた。
額にはびっしりと汗が浮かび、目尻から頬にかけて涙のあとが見て取れる。
「おい、よっちゃん、大丈夫か!?」
狭い幕舎のなか、かがんで歩み寄り、田豫のそばに膝をつくと、俺は彼の肩に手を置いた。
「うぁああっ! 簡さぁんっ……!!」
そして田豫は、俺に抱きついて泣き始めた。
突然のことに驚きつつも、どこか納得できる部分もあった。
昼間の戦闘がよほどこたえたのだろう。
戦闘が終わってしばらくは気丈に振る舞っていたが、ひとりになり、暗くなったことでいろいろと耐えられなくなったのかもしれない。
俺は俺で結構いっぱいいっぱいだったので、田豫のことにまで気が回らなかったことが悔やまれる。
せめてひと言、張飛あたりに面倒を見るよう伝えておけば.……。
「うああああ……」
俺の胸に顔をうずめて泣く少年兵の背中を、できるだけ優しく撫でてやる。
ほとんど事故のようなかたちだったが、それでも人を殺してしまったことに、俺はかなり動揺していた。
いや、いまなお、そのときから胸に渦巻く不快感を処理できずにいる。
対して田豫は、自分から剣を振るって敵を殺した。
「うう……僕たちは、いったい……なにと戦っているのでしょうか……?」
少し落ち着いた田豫が、顔を上げた。
悲痛に歪んだ表情で、俺に助けを求めているようだったが、なんと答えてやればいいだろう?
「何人も、殺しました……」
習の旦那のところに身を置いている以上、少なからず裏社会に通じているだろうが、それでも彼はまだ13歳なのだ。
俺が13歳のころは、いったいなにをしていただろうか?
社会制度が違うので、日本の中学生と比べることに意味はないのかも知れないけど、それでも彼が少年であることに変わりはない。
先の戦いで、この少年は、いったいどれほどの傷を心に負ったのだろう。
「痩せ衰えた、人たちを……僕は……何人も……!」
これが強敵を相手にしたのであれば、また違っていたのかも知れない。
やらなければやられるという状況で、戦いの末命を繋いだというのであれば、なにかしら充足感や達成感のような物があったのかもしれない。
しかし黄巾の連中は、抵抗こそしてくるもののひたすら弱いので、どうしても一方的に殺戮しているように感じられるのだ。
そのあとに残るのは、虚無感と罪悪感くらいのものだろうか。
「彼らは……彼らは、倒すべき敵なんですか?
僕たちが救うべきひとたちじゃあないんですか!?」
田豫の言葉に、胸が痛くなる。
俺の知っている黄巾の乱は、劉備という男の華々しいデビュー戦だったはずだ。
漢帝国に敵対する太平道は、平和を脅かす集団で、倒すべき敵だった。
悪の叛乱軍との戦いに、無名の義勇軍が活躍し、劉備は歴史の表舞台に躍り出る。
そんな未来を心のどこかで想像していたのだろう。
「剣を振れば、死んでいくんです……! 僕の剣なんて、弱いはずなのに……」
ふたを開けてみれば、現実は厳しいものだった。
結局太平道ってのは、飢饉と悪政に苦しみ、どうしようもなくなった人たちが、死ぬ前に、最後に行き着く逃げ場所だった。
でも、俺たちが相手にする黄巾の兵たちは、ただの食い詰めた民衆だった。
自分たちが生きるために、あるいは次の世代によりよい社会を残すために、彼らは黄色い布を頭に巻いて、漢帝国に立ち向かっているのだ。
そんな彼らの前に立ち塞がるのは、相当なストレスだった。
「うぅ……」
言いたいことを言い終えたのか、田豫は再び俺に身を預けた。
「……ってか、熱っ!」
さっきは気づかなかったが、胸に当たる田豫の頭がかなり熱い。
そういえば顔中にかなり汗をかいていたし、もしかすると熱でもあるんじゃないだろうか?
「おい、よっちゃん、大丈夫か? よっちゃん!?」
「うぅ……」
とりあえずこのままではしんどいだろうと、
「はぁ……はぁ……」
苦しそうに呼吸をする田豫は、全身にびっしょりと汗をかいていた。
このままだと脱水症状が怖いな……。
「よっちゃん、ちょっと水もらってくるわ」
そう言って立ち上がろうとしたところ、服の裾を引く、弱々しい力を感じる。
田豫を見ると、うっすらと目を開け、潤んだ瞳をこちらに向けていた。
「いかないで……」
そんなか細い声を聞いては、短時間とはいえ放っておくこともできないな。
まだ水が少し残っていたことを思い出した俺は、ひとまず田豫の手を握りながら、片手で荷物を漁り、竹筒を手に取る。
汗ばみ、熱くなっている田豫の手は、意外とゴツゴツしていた。
「とりあえず、これ飲んで」
汗ばんだ背中に手を入れて上体を起こし、口に竹筒をつけてやると、田豫はこくこくと喉を鳴らして水を飲んだ。
竹筒がからになったところで、再び寝かせてやったあと、荷物を漁ってありったけの布を取り出し、汗を拭いてやる。
水を飲んで少し落ち着いたのか、呼吸はわずかだが穏やかになった。
田豫が寝るまでは、このまま手を握っておいてやるか……。
「んぅ……んん……はぁ……はぁ……」
少し落ち着いた田豫だが、ときおり眉をひそめ、小さくうめく。
「なぁ、よっちゃん……」
呼びかけると、田豫は薄く目を開け、俺を見た。
「一緒に、
俺がそう問いかけると、田豫は軽く目を見開いたあと、穏やかな笑みを浮かべたが、特になにも言わなかった。
ほどなく田豫の呼吸が落ち着き、寝息を立て始めたので、俺は一度幕舎を出ることにする。
手を離そうとしたとき、田豫のほうから軽く握ってきた。
「ごめんな、すぐに戻ってくるから」
返事はなく、手を離しても起きなかったので、俺は一度幕舎を出て飲み水の入った竹筒と、水を張った桶、それに布を多めに用意してもらい、すぐに幕舎へと戻る。
「すぅ……すぅ……んぅ……」
幸い田豫が起きた気配はなく、少しうめいたりはするものの、等間隔の寝息を立ていた。
とりあえず身体を拭いてやったり、たまに起こして水を飲ませてやったりしながら、結局俺は朝まで田豫の看病をするのだった。
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