第35小節目:White Room

 防音室スタジオに入って、扉を閉めると、ほとんど何も見えなくなる。


「あの、神野じんのさん、電気……あ、そうか」


『平日の深夜、全部の部屋が埋まってることってほとんどねーんだよ。そんで、電気つけなきゃ、電気代も使わねーし、別にドラムを練習していようが、店的には一銭もかかってねーってわけだ。それで、深夜に上がった店員はどうせ電車もねーし、それまでの時間潰しも兼ねて練習させてもらえるんだよ』


 そういえば、電気はつけられないと言われていた。


 ドアについている小さな窓から入ってくる光だけが、壁一面の鏡の存在だけを知らせる程度に限りなく薄く。


 吾妻あずまほど怖がりではないけど、やっぱり鏡ってなんだか霊的なものを感じるよな……。


「真っ暗だと結構怖いもんですね……」


「ま、最初はなー。大丈夫、すぐに慣れる。アタシくらいになると目をつぶってもドラムイスの前まで移動できる。やってみせてやろーか」


「なんのためにですか?」


「よし、見てろ」


 おれの当然の疑問を無視して、隣にいた神野さんがゆっくりと歩み出す。


 目をつぶってるのかも、ドラムの方に近づいてるのかも、暗過ぎて全然分からない。


 ていうか、『やってみせてやろーか』ってなんだよ……。


 先輩の謎行動にそこはかとなく面白くなっていると、少し離れたところから声がする。


「ほら! ついた!」


「そうみたいですね」


 まあ、そこがドラムなのかは分からないけど。


 と、思った瞬間、ドドパン、とドラムの音がした。神野さんがドラムに座ったことを証明しようとしてくれたらしい。


「おお……!」


「すげーだろ?」


「……はい」

 

 ……本当に、何回聴いても新鮮な驚きのあるドラムだ。


 なんでこんなに短いフレーズがこんなにもきした響きを持っているんだろう。


「まー、タクトもすぐ出来るよーになるさ」


「なりますかね……」


 神野さんはきっと、目をつぶってドラムまで行けるようになることを言ってるのだろうが、おれはやっぱりそのドラムに憧れてしまう。


 ……憧れ、なんて感情を彼女以外に覚えるのは初めてだろうか。


「よし、こっち来い」


「はい」


 目が慣れてきたので、ゆっくりとドラムイスのところまで行くと、神野さんが席をゆずってくれる。


 神野さんに許可をとって、自分に合わせてそれぞれの太鼓の位置や角度を調整した。


「見えなくても、ドラムの前に座れば何がどこにあるか分かるもんですね」


「そーだな。ま、ドラムを叩いている時って、別にドラムを見ながら叩いてるわけじゃねーからな」


「たしかに」


 パソコンのブラインドタッチと似たようなものである。


「『ドラムライン』って映画でも、ドラムを見るなって言ってたよ。『お前はセックスしてる相手を見ながらセックスするのか? 違うだろ、だったらドラムも見るな』ってな。はは」


「あ、はは……」


 真っ暗で聴覚が研ぎ澄まされている中、耳のほど近くで無邪気にそういう・・・・言葉が出てくるので面食らうというか、気まずいというか……。相手が何も思ってないらしいことが分かるだけに、気まずいと思うこと自体が気まずいというか……。


「でもよ、セックスしてる相手って見ないのか?」


「し、知りませんよ!? は、早く、れ、練習教えてくらさい!」


「『くらさい』って。あはは」


 いや、世が世ならこれはれっきとしたセクハラですよ本当に……。


「よし、じゃあ、構えろ」


「……はい」


 おれがスティックを持って、ドラムを叩く姿勢を作ると、


「すまん、ちょっとさわる」


 そんな断りが入り、その後、おれの腕を這うような感触が走った。


「姿勢がわりーな」


 神野さんが手でおれの姿勢を確認しているらしい。


 そして、一つずつ、微修正を受ける。


 腕を走り終えた感触は次に背中に移り、そして。


「じ、神野さん……」


「黙れ」


 かがんだらしい神野さんがおれの太ももを持って膝の位置を調整した。


 黙れと言われたらまあ黙りますが、これは……。


「……よし」


 一通り調整が終わったら、おれの肩の上に手を置く。


「この姿勢だ。覚えろ。これが、肩に力が入らない状態でちゃんと演奏が出来る姿勢だ」


「はい……」


「10秒経ったらあたしがお前をめちゃくちゃにする」


「……はい?」


 身体を動かせないので、激しい反応も出来ない。


 だが、それでもその物騒でいて無駄に卑猥ひわいな言葉に戸惑っているうちに、


「10、9、8……」


 カウントダウンが始まる。


「え、ちょっと……」


「集中しろ。姿勢を覚えろ」


「は、はい……」


「3、2、1……よし」


 その瞬間、


「食らえ」


 脇腹に、無数の、刺さるようなくすぐったさ。


「ちょっと!?」


 どうやら指先で脇腹を連打してきたらしい。


 当然、くすぐったいやら何やらで姿勢が崩れる。


「ははは、子供かよ。よし、じゃあ、さっきの姿勢に戻れ」


「……はい」


 なるほど、さっきの姿勢を自分で作れるようにってことか。


 おれは、なるべく再現してみる。


 肩の力を抜いて、それで……。




 結局。


 そんなことを繰り返して、姿勢を作る練習だけをして2時間が経過していた。


「はあ、はあ……神野さん……」


「息が荒い。気持ち悪い」


「それは、すみません、けど……」


「どーした?」


「……そろそろ、叩きたいです……!」


 ああ、スカッとしたい。この目の前にあるでかい太鼓の集合体からでかい音を鳴らしたい……!


「そーかそーか、じゃあ、叩かせてやろう」


「やった……!」


 神野さんは穏やかに笑う気配を見せた後。


「……小太鼓スネアリムだけな」

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