第8話 突き放され方が病みつきになる。
ランニングを始めて約一月。3日に1回程度、夜のランニングが日課になりつつある。ではなく、夜しか走る時間がないということに気付く。
私には妻と3人の娘がいる。私の妻からみると、夫は「常に勝手な行動をしている生き物」だそうで、自分の都合で残業し、自分の都合で会社の飲み会が決まり、自分の都合で家事をする。こういうものは自分の都合というわけではなく、おおむね不可抗力なのだが、それはただの自己正当化だと妻は言う。
なぜなら、妻が仕事の都合で保育園の迎えに行けない日は私が代わりに行くのだが、そのような時は定時で仕事を切り上げ、お迎えに遅れたことはない。すなわち、いつもは何が何でも定時で仕事を終わらせるという覚悟がないからだ、ちょっとくらい残業してもいいやという心の甘えがどこかにあるからだと言う。
はっきりいってぐうの音も出ない。
まさにその通りである。反論の余地がない。たしかに夫というのは心のどこかで妻に対して気概が足りず甘えがあり、覚悟を決めずに油断しているのだ。そんな体たらくであるから、帰りが遅くなったらなったで「なぜ遅い」と文句を言われ、早く帰ったら帰ったで「やればできるじゃん」と苦言を呈される。
だからそういう不満がこれ以上膨張しないよう、家族全員で夕食をとり、食器を洗い、娘を風呂に入れ、寝かしつけをするという帰宅後の時間を全てを家事育児に捧げ、父親が父親であり続けるための絶対条件を執り行っていく。
そうなるとあっという間に21時が過ぎてしまう。場合によっては寝かしつけの段階で娘と一緒に眠ってしまい、思いがけず一日が終了することもある。そのような父親的局面をクリアし、「ちょっと走ってくるね」と妻に言うと「どうぞ」とつれない一言。それまでは私がいないと機嫌が悪いのに、娘たちが就寝した21を過ぎると録画したドラマの視聴や、ファッション雑誌等の閲覧のため、途端に邪険に扱われる。寂しい。21時半、すごすごとランニングウェアに着替えていると「まだいたの?」などと追撃される。とても寂しい。
室内で軽い準備運動をしてから外に出る。大きく深呼吸して夜空を見上げる。イヤホンから懐かしい曲が流れる。ランニングを始めるにあたり、CDから音楽プレイヤーへ曲を取り込んだのだ。
不意にノスタルジーに浸る。あの頃の曲を聞くと、あの頃の体力でいるつもりになる。ノスタルジーには、人生の意味を見つけたり、孤独に立ち向かったりする効果があるという。しかし昔の曲ばかり聞いていると、甘酸っぱい思い出がしょっぱい現実の思い出に上書き保存されるような、昔の思い出を食いつぶしながら走っているようでいけない。新しい音楽もきかなきゃなと思う。
一人で誰とも話さず、外界の刺激を断ち、走り始める。自己を振り返るには、孤独、沈黙、遮断が必要である。ランニングにはこの3要素が揃っている。しかし普段の社会生活には本当の孤独、沈黙、遮断などない。私は基本的に対人不安が高く、そのくせ相手に合わせ過ぎる過剰同調性が強い。社交的な一匹狼で孤独を求めつつ不安が強い。一人になりたいが周りの声が気になって、周りと一緒にいたいけど疲れ果ててしまう。
孤独に対してストレスを抱えてしまう「社会的な孤独」はニセの孤独で、ランニングには本当の孤独があるような気がする。イヤホンから20代の頃によく聞いていた曲が流れ始め、少しだけスピードを上げる。まだ3キロしか走れずに、すぐ足が痛くなる。でもまたすぐに走りたくなる。孤独と苦悩とノスタルジー。
走ることが習慣になるのではない。まずこの夜のドライブが病みつきになる。
帰宅して寝室をのぞくとすでに妻が寝ている。今日も叱られてばかりだったが、なんとなく感謝したくなる。汗で浄化された孤独は、洗練されたさらなる孤独を作るのではなく、滅菌された綺麗な愛を生むのだろう。小声で「おやすみ」と言おうとすると、「何? 眩しいから早く閉めて」と、「おかえり」でも「おやすみ」でもなく、寝室に入る廊下の光の漏れに関して厳重注意を受け、本日の夫婦の会話は終了する。
愛されることが習慣になるのではない。この突き放され方が病みつきになるのだ。
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