邪念走
吉見マサノヴ
第1話 なんとなくそれらしく始める。
休日の午後、退屈に埋もれていた。全力でリビングに身を投げ出して脱力し、録画したバラエティ番組を眺めながら眠気に襲われるたびに体勢を変える。雪山ではないが寝るとおしまいだ。寝ると休日が死ぬ。これまでも数えきれないほどの休日を「敗北の午睡」で殺してきた。午後3時。休日の生死を分ける時間だ。眠気がくる、体勢を変える。この休日、ほぼリビングでの体位変換に徹している。今日も敗北が濃厚となってきた。
「なんかいいことないかなあ」と呟く。退屈になると「なんかいいこと」の訪れを望む。寝転がり、立て肘をついたまま福音に耳を澄ます。待ちぼうけてはいるものの、切り株に兎がぶつかるほど都合の良いことはないこともわかっている。しかしレジャー、アミューズメント、アウトドア、アクティビティなどの積極的に生産的に横文字的なことをしようとも思わない。そもそも午後3時である。ここで一念発起してレジャーに目覚めたとしても午後3時である。とまあ時間のせいにしているが、そういう横文字娯楽を楽しむ知人友人もいない。
よって寝転ぶ以上、レジャー未満の最小限の熱量で何かいいことをしようと企む。そしてその中途半端さが悲劇を生む。人は退屈だからこそ、酒を飲み、脂質、糖分を多めに摂り、煙草を吸い、風俗に行く、ギャンブルに手を染める。そして染まった手をじっと見て、我が生活楽にならざりと嘆く。働けど働けどではない。普通に働いていたらある程度は楽になる。ではなぜ楽にならざりなのか。働けど働けどの合間に訪れる「退屈」こそが人生を破滅へと導くのだ。
その師走の日曜日の午後、私は退屈だった。そして肌寒かった。齢四十も過ぎた。加齢に伴う皮膚の水分量と保湿にかかわるセラミドが減少するため皮膚が乾燥しやすくなり全身が痒い。痒さは退屈の絶好のエサとなる。掻く以外やることがないので、際限のない欲望にまかせて掻いてしまう。あの見境なく皮膚を掻き続けるときは、おそらく不倫や駆け落ちする時と同じ脳内物質が出ていると思う。後戻りできない後悔と快感。縦横無尽に残された爪痕、血まみれの皮膚。同じ過ちを繰り返し、同じ反省を重ねる。朽ち果てた皮膚に人類の歴史を投影しながら、せめてもの防衛に防寒タイツを履く。
これで下半身を掻くことを最小限に抑えることができる。鏡にピッチピチの防寒タイツを履いたばかりの自分が映る。これで上半身裸であれば格闘家のようなファイティングポーズをとるのだが、格闘家を目指す度胸はおろか、上半身裸になる勇気がない。格闘家を目指すには遅すぎる年齢、寒すぎる気温、休日の午後3時半。休日が死のうとしている。凍死しようとしている。この30分で成し得たことは、防寒タイツを履いたことくらいである。よってこの下半身タイツという素材を何とか最大限に活かしたい。ふむ、と、しばらく鏡を眺め、おもむろにハーフパンツを取り出してタイツの上から履いた。その瞬間、休日が輝きだした。着用していたパーカーと相まった姿に、私は呟いた。
「……ナイキだ」
心理学で「制服効果」という言葉がある。人は着ている服で相手の立場などを判断したり、その服に与えられた役割を演じようとすることだ。タイツ・オン・ハーフパンツほど「なんとなくそれらしさ」が出るものはない。鏡に映る我が身を見て、なんとなくナイキらしさを感じ取り、ナイキな役割を演じたくなってきたのだ。
新しいことを始めるときは、いかに「なんとなくそれらしさ」を醸し出すかが重要になってくるのではないだろうか。逆にいうと「なんとなくそれらしさ」を演出できさえすれば物事は順調なスタートを切ることができるのではないか。ろくに料理ができなくたってフリルのついたエプロンをつけることで「なんとなく新妻らしさ」を醸し出すことができ、フリルエプロンのひだが飯の不味さを吸収するものなのだ。
ナイキらしさをまとったまま外に出てみようと思った。タイツもハーフパンツもパーカーも、ナイキなものは何一つない。しかし私はこの姿で、このテンションで、この思いつきで、世の中を欺いてみようと思った。なぜ? しこたま退屈だからである。さあ、ここで矛盾すべき言葉を声高らかに叫ぼう。
見切り発車の準備は完全に整った。
これは防戦一方だった(ただ寝転がっていた)休日への勝利宣言であると同時に、あのどこか気取った、どこかムカつく本物のナイキな人たちへの意味のない宣戦布告でもあった。私は家を飛び出し、なんとなくそれらしい格好でなんとなく走り出した。師走の風が肌に刺さる。私の邪念にまみれたランニングライフが始まった。
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