疑惑のタブレット

古森史郎

第1話 山道の事故

 二〇一八年の春の昼過ぎ、栃木県那須塩原から宇都宮方面へ向かう道路に、濃紺のスポーツカーが疾走している。カーブの先が見えない狭い道幅の西側は、反り立った崖の壁。東側の白いガードレールの先には、畑と小さな森林の間に点々とした民家が広がっている。その車には、同じ大学に通う金田正夫(二一才)と川崎早苗(二〇才)が乗っていた。


 正夫は黒い革で覆われたハンドルのてっぺんを右手で持つ。左手でシフトレバーを握りギアダウンすると、オレンジ色のバックライトに浮かぶ回転計の針が弾かれる様に三千五百回転を指した。


「早苗ちゃん見てて、あの赤いマ〇ダを追い越すから」

「うん、抜いちゃって!」

――ブオーン。――プップップーー。

「やべー、前から大型トラックが来た! ちぇっ、マ〇ダのけつに付くか」

――キキ―。

「あああ、ブレーキ踏まれた!」

――キュルキュル、ガガガッ、ガシャン!


「キャーー!」


 車はABS(アンチ・ブレーキロック・システム)と自動停止装置が働いたが間に合わず、左側のガイドレールに激突したのだ。


「……死ぬかと思ったわよ、ふーぅ」

「早苗ちゃん怪我してない?」

「なんとか、大丈夫よ」

「前の車そのまま走って行っちゃたな、ちくしょう」


 正夫は車の損傷具合を確かめるために車を降りるが、早苗は助手席に残ったままだ。正夫が車のフロントを見回すと左側のバンパーはへこみ、ヘッドライトのカバーは割れていた。運転席に戻りレバーを引いたあと、少し変形したフロントカバーを開け様とする。


「あらま、なかなか開かないぞ。……ふん、やっと開いた!」

 ――プシュー。

「あれ、ラジエーターから水が噴き出てる!」

「正夫さん、車大丈夫?」

「ラジエーターがやられたら、もう長い距離の運転は無理。しょうがない取りあえず保険屋に電話するか」


 正夫はガードレールとぶつかった車の写真をスマホで数枚撮影してから、近くの安全地帯に車を移動させる。そのあとズボンのポケットから財布を出し、自動車保険のカードを抜き取ると、スマホを持って宇賀地うがち自動車保険会社(UG保険)の宇都宮営業所に電話した。


「毎度ありがとうございます。UG保険宇都宮営業所です」

「もしもし金田と申しますが、車ぶつけちゃったんです。ラジエーターが壊れて運転できません」

「保険番号をお持ちですか?」

「ええと、RX0490285です」

「少々お待ちください」


「はい、プレミアム会員の金田正夫様ですね」

「そうです」

「すぐに外交員とレッカー車を現場へ急行いたします。事故が起きた場所を教えてください」


 正夫はスマホの地図アプリを起動して現在地を調べる。その情報を相手に通知すると電話を切り、車の運転席に戻った。


「保険屋が来るのに一時間くらいかかるって」

「車が動かないんじゃ、待つしかないわ。もう、ダメな運転手くんね!」

「……ごめん」


 一時間半後、宇賀地自動車保険会社の外交課主任熊田守(二九才)の乗る車がレッカー車を伴って金田のいる場所へやって来た。


「どうも遅くなりました、UG保険宇都宮営業所の熊田と申します」

 正夫は車から降りて熊田を迎える。

「遅いなあ、一時間半も待ったよ」

「すみません、渋滞していたものですから。早速ですが車の事故が起きた時の状況をお聞かせください」

「前の車を追い抜こうとしたら、反対車線にトラックが見えたんだ。抜くのをやめて前の車の後ろに付こうと思ったら、急ブレーキを踏まれてとっさにブレーキをかけたんだけど、ハンドル操作をちょっとミスってガードレールに追突した」

「その、前の車と対向車のトラックはどうしました?」

「二台とも何事もなかったかのように、走り去って行ったよ」

「そうですか、わかりました。では、車の損傷状況を調べますね」


 熊田は車に戻ると、オレンジ色の新品のタブレット型PC端末を持って来た。


 この携帯端末は中堅電機メーカーのペールキューブ社製の試作品である。宇賀地自動車保険会社はこの端末を宇都宮営業所に導入し、テストを兼ねて現場での試験運用を始めているのである。

 同じく静岡営業所では、別の中国系メーカースンファン電子が全く同じ仕様の試作品の携帯端末を試験運用している。要は、二社に競合させて最終テストに合格したタブレットが、宇賀地自動車保険会社が全国展開する機種として本採用されるのである。


「このタブレットは最新式の保険外交用端末です。これは保険商品の説明アプリだけでなく、事故の状況確認書をスピーディーに作成する機能も持っているんです」

「あっそう」

「それではこのタブレットで立体画像を録画しますね」

「立体? それどんな意味があるの」

「二個のカメラで撮った画像から、車の損傷具合などを解析できるんです」

「へー、すごいじゃん」

「あら、オレンジ色でかっこいいわね、そのタブレット」

 車の中でラジオを聞いていた早苗は、タブレットに興味を示して外に出て来た。


「ログインしてお客様情報を入力してからビデオ撮影します。お嬢さんあとで撮影してみます? 操作は簡単ですから」

 早苗がこのタブレットに興味を示した様子を察した熊田は、新しいタブレットの立体動画撮影機能を自慢したかったようだ。


「やらせて、やらせて」

「私が先に動画撮影するところを、お見せしますね」


 熊田はタブレットにログインして金田の保険番号を入力したあと、事故状況確認アプリを起動する。タブレットを両手で持ち、画面を見ながら事故車のフロントの損傷部分を撮影し始めた。それが終わると、二人の前に立って説明を始める。


「損傷具合を解析しますね」

 熊田は二人に画面を見せながら、自慢の損傷解析アプリを起動した。それは3D画像で、車がへこんでいる所はくもの糸のような白線が描かれている。


「お客様、時速四〇キロメータ以上で衝突しましたね」

「そんなこともわかるのか」

 正夫はタブレットを覗き込む。

「この速度だったら車の自動停止機能を使っていれば、前の車にぶつからなかった可能性が高いですよ」

「……対向車のトラックが気になって、ハンドルを切っちまったんだ。ちぇっ」

「あと、概算の修理代も計算しますね。えーと、概算で十二万五千円かかります」

「すごいな、このタブレット」

 正夫は少し驚いた顔になる。

「ねえ、早く私にも触らせてよ」

 横に立ってタブレットの画面を見ていた早苗は、ねだるように熊田の腕をつかんだ。


「はい、お嬢さん。ここをタップするとビデオが起動します」

 熊田はオレンジ色のタブレットを早苗に渡し、画面のボタンの位置を示した。


「映すときは3D画像じゃないのね、あれ? 変なメッセージが出て来たわ」

「どうしました? お嬢さん」

「ただのメッセージかな? ぽん」

 早苗は画面中央に出ているメッセージボックスを右手の指でタップした。


「きゃーーーー!」


 いきなりタブレットが火をふいたのだ!


 早苗は慌ててそれを放り投げる。

 ゴツン、カラカラ、カラン。

 タブレットは煙を出しながら道路に転げ落ちた。


「あちちちち、左手が火傷したわよ!」

 早苗は自分の左手をぶるぶると振る。

「だ、大丈夫ですかお嬢さん」

「おい、お前何やってんだよ。こんなやばい物持たせて」

「申し訳ありません」

 熊田はあたふたして頭を深々と下げる。

「早苗、火傷はひどいのか?」

「人差し指と中指がヒリヒリするわ」

「水で、すぐに冷やそう」

「金田さま、私が持って来ます」


 熊田は急いで自分の車の中に置いてある、ペットボトルの水を取りに行った。

 戻ってくると、ペットボトルを早苗に渡す。早苗は自分の左手の指に水をかけた。


「金田さま、本当に申し訳ありません。私の車で近くの病院へ行きましょうか?」

「それ程の火傷じゃないわ、冷やしたあと薬塗ればすむわよ」

 早苗はハンドタオルに水をしみ込ませて、それを二本の指に巻いた。

「しかし、なんで火が出たんだ、あのタブレット」

「直ぐにメーカーで調べてもらいます。とにかく私の車で宇都宮営業所へ行きましょう」

 道路に転がっているタブレットはすでに鎮火していた。煙の出ていた部分は変形し、黒焦げとなって異臭を放っている。熊田はその嫌な臭いを避ける様に顔を遠ざけながらタブレットを拾うと、それをレッカー車の運転手に手渡した。


「お客さんを乗せて帰るから、この臭いタブレット預かっててくれ」


 熊田は、レッカー車の運転手に事故車の回収を指示したあと、宇都宮営業所にいる上司に電話する。そのあと、ペールキューブ社の担当営業に電話をかけるために金田たちから少し離れた。


「はい、ペールキューブの前川です」

「UG保険の熊田だ、このバカヤローが! お前のところのタブレットが燃えたぞ、お客さまが火傷した」

「えええ! まさか」


「まさかじゃない。あんた、直ぐにうちの会社に来いよ!」

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