【再生】

邂逅

 庭の隅で啜り泣く声がしている。

 か細い声だ。

 泣き声を抑えようとしているのか、少しくぐもっている。

 庭は辺り一面が金色こんじきだ。

 草も木も土も花も、全てが金でできている。

 空から来訪する鳥だけが白く、また噴水の水だけが透明を保っている。

 泣き声の主は姿が見えない。

 金色の薔薇の海にすっかり隠れて、探す手掛かりはその泣き声だけだ。

 耳をよく澄まさねば、泣いている人間の位置を判別し難い。

 数百年振りにあるじが現れた。

 それと同時に、数百年振りの食事の刻が巡ってきた。

 今度の主は幼き姫だろうか。

 泣き声に止む気配は無い。

 力を使えば居場所などすぐに割り出せる。

 だが、数百年振りのお楽しみだ。

 簡単に事を進めてしまっては興醒めである。

 薔薇の海を注意深く探ると、金色の中に一点の黒が見えた。

 日の光を戴いた艶のある美しい黒髪。

 その上に乗る金色の小さな冠が時折、日の光を反射させて煌めく。

 そこにいたのは、地にうずくまり、肩を震わせている王子だった。

 ああ、それこそが我が主――私の食事だ。

 ゆっくりと、丁寧に声をかける。

『御機嫌よう』

 びくりと、その肩が大きく跳ねた。

 それから恐る恐るこちらを振り返る。

 見覚えのない執事が現れて、泣いていたことを忘れてじっと見上げている。

 まだ幼さの残る顔は大そう整っていた。

 涙に濡れた深紅の双眸はまるで宝石のようだ。

 零れ落ちないように縁取る睫毛はしなやかで、長い。

 肢体は象牙のように白く、滑らかな様子で、華奢きゃしゃだった。

 歳の頃は十五、六だろうか。

 だとすれば歳の割には小柄で、脆弱にも見える。

 もしかすれば、まだ十を少し超えたばかりなのかもしれない。

「……貴方は、誰?」

 問いかけられて、その場で膝を折った。

 それから頬を伝う透明な雫を優しく拭ってやりつつ口を開く。

『もっと幼い――それも姫かと思いました。我が主よ、私の名は貴方がお決めになってください』

「……どうして?」

『私は貴方のために在るからです』

「……よく、分からないけれど……、名前が無いのは困ってしまうね」

 王子ははにかんだように微笑んだ。

『そうですね。――ですが、過去には最後まで名をくださらなかった主もおりました。困らないことも、時にはあるようです。我が主はどのように判断されますか?』

「――どうして、貴方は私が主だと言うの? この国の民は皆、等しくお父様のもの。主と呼ぶのなら、私ではなくお父様のことをお呼びすべきだ」

『いいえ、我が主。私は貴方のための悪魔です』

 悪魔。

 その言葉に、王子は深紅の瞳を大きく開いた。

 そう、その深紅の瞳。

 自分と同じ双眸に思わず見惚れた。

「私を殺すの?」

 突拍子もない質問だった。

 虚を突かれたような感覚を味わって、

『まさか』

 思わず口早に否定すれば、王子はとても落胆した様子で。

『殺して欲しかったのですか?』

「……うん。そうかもしれない」

『それが我が主の望みならば、叶えて差し上げたいのは山々ですが……私にはできません』

「どうして?」

『私は貴方の魂が欲しいのです。私が貴方を殺してしまうと魂は壊れてしまう。だから貴方の命に私が直接関与することはできません。貴方は寿命か、定められた病でしか死ぬことはできないのです。人為的な死や、作為的な死は、私が全て排除致しますので。――その代わり、私は貴方が死すときまでお傍におります。そして望みはなんでも叶えて差し上げます。人間の力では到底及ばないことを、私は成せますゆえ』

「悪魔って正直なんだね。本の中とは少し違うみたい」

『いいえ。私は合理的でありたいだけです。我が主よ』

「私の名はベリアル。どうか名前で呼んでおくれ」

 思いもよらぬ名を耳にして思わず訊ね返した。

『その名は誰から授かったのですか?』

「うん? お父様だよ。……変な名前だった……?」

『いえ。そのようなことは全く……失礼致しました。それでは改めまして、ベリアル様。次の満月の晩までに望みをお決めになってください』

「望み……?」

『そうです、貴方が魂をかけても良いと思われるほどの望みをお決めください。それが契約の条件となります』

 深々と礼をして、それから一瞬で姿を消した。

 王子は驚き、じっと前方に目を凝らしている。

 こちらからは見えているが、王子からは決して見ることができない。

 それが魔法というものの力なのだ。

 庭に響くは噴水が立てる水音ばかりで。

 ひとしきり辺りを見回し、やっとひとりきりだと思い至った王子は呟いた。

「……夢……じゃ、ないよね……?」

 その瞳に浮かんでいた涙はすっかり乾いていた。

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